世界観と環境の問題

Tim Boyle

今日は、「世界観」という概念について考えてみたいと思います。この「世界観」ということばは何を意味するかというと、自分がこの世 をどうとらえているかということです。英語では、”Worldview”と言います。”World”(世界)をどういうふうに”view”(見る)のか ということですね。しかし、それを言っても、まだよく解らない人が多いと思います。やはり、抽象的なことですから、何かの具体的な例を通して考えた方が いいでしょう。ですから、今日は環境の問題を通して考えてみたいと思います。

実は、だれでも、少なくても、潜在意識的なレベルでは、何かの世界観を持っています。つまり、日常生活の中で、自分の住んでいるこの 世の中をどう感じとっているか、そして、自分の人生に意味を与えるのは何であるか、また、何を優先的に考えているかなどは、自分の世界観を決めて行く し、また世界観によって、決められるのです。 聖書に教えられている世界観もあります。それは環境の問題と密接な関係がありますので、まずは、それを定義しましょう。聖書的な世界観の中 心にはやはり、神の存在があります。全能全知の創り主なる神様が何かの目的をもって、無の状態からこの宇宙のすべてを創造したことです。簡単に言いますと、世界観の基盤には自分がどこから来たのか、そして、何かの目的があって存在するようになったかという二つの質問に対する答えです。全てを創造した神 がいるのか、それともいないのかという前提によって、それらの答えが全然違ってきます。もし、人間が全く自然なプロセスによって、偶然にできた存在であ るなら、神様がいないことになり、この世には究極の目的や意味もないことになります。その一番根底にある思想はすべてのことに影響を与え、それこそ自分 の世界観を決めていきます。

では、まず創世記の立場から考えてみましょう。創世記によると、神が人間を創造してから、人間にすべての生き物を自分の「支配下」に おいて、それらを「従わせる」ように命令しました。残念ながら、世俗主義を唱える人たちは、この「支配する」ということばを自然界に対する破壊的な開発 の根拠であるとよく主張します。つまり、自然と共存するのではなく、自然界を支配することは搾取のもとだと言います。しかし、聖書を正しく理解すれば、 決してそういうことを意味しないと解ります。神が人間に委託された使命はご自分が創られた最高の被造物である人間の利益になるように自然界をよく管理す ることでした。要するに、すべての人間のために自然界の資源をうまく利用することです。これは大きな責任です。ですから、破壊的な開発は無責任なこと で、ごく限られた人間のために一時的な利益を与えるだけで、長期的に言えば、すべての人間にとっては不利益となります。

では、神が我々人間に与えた自然界に対する責任をどう理解すべきでしょうか。実は、私は過激な「環境保護主義者」と分かれてしまうの はこの点です。彼らとの隔ては結局世界観の根本的な違いなのです。きょうお話したいのはこの点です。実は、とことんまで突き詰めると、すべてのことは結 局世界観にかかっています。たとえば、自然界を超越する原因を否定する「科学的唯物論」と超自然的な要素を受け入れる有神論の違いはこの同じギャップな のです。これは一番根本的なことです。また、目的のない、行き当たりばったりのダーウイン主義の進化論とあらゆる形の創造論との論争もこの同じ世界観の 違いに基づいています。

さき言ったように、人類の起源と究極の目的という二つの問いかけに対する答えに全てがかかっています。我々人間は「神」と呼ばれている超越的な存在者にかたどって創られた永遠の霊を持つものとして創られたのでしょうか。それとも、無計画的な偶然によって自然にでき たもので、自分たちが自分のために作り出す目的以外、何の目的もなく、物質的な存在だけなのでしょうか。これらの根本的な質問に対する答えが自分の世界観の根底となり、環境問題をはじめとするあらゆる課題をどう取り組むかを決めてしまうことになります。

私とよく話す人がすぐ解ることは「科学と宗教の接点」や「進化論」などのことに大変興味を持っているということです。一般的に学校で 教えられている「進化論」、つまり、自然主義に基づいているダーウイン主義に対して、私は異議を申し立てます。しかし、原則としては、何億年という極め て長いプロセスを通して、神の創造の業が漸進的に少しずつ現れて来たという考え方そのものを問題としません。実は、地球の生命の歴史はおよそ38億年も 続いていることを証言する自然界の記録は疑いなく事実であることと確信しています。ですから、原則として、神が黒幕のように科学が検出できない形でその プロセスをコントロールしていたということはあり得ることだと思います。つまり、もしそうであるならば、進化のメカニズムは全く自然のものに見えるとい うことになる可能性があります。もし、自然界の記録はそういうことを証言すれば、つまり、一つの生命体が別の生命体に少しずつ変化して行く化石があっ て、突然に現れた根本的に違う種がなかったとすれば、人間を含む全ての生命体の起源の説明として、ダーウインが考えた進化論を支持します。しかし、科学 者がこのことを研究すればするほど、生命の歴史が漸進的なプロセスによってのみ説明できないということがだんだんとはっきりして来ました。実は、生命の 起源と発展の原因として考えられるのは、大きく分ければ、二つしかありません。それは自然のプロセスと超自然のプロセスですね。ですから、三つの可能性 があります。全てが自然のプロセスのみか、全てが超自然のプロセスのみか、また、その二つのコンビネーションだけですね。私は考えているのは、自然界に 見られるすべての現象を説明できるのは、そのコンビネーションで、超自然的なデザインと情報のインプットと自然法則の働き両方が必要だということです。 その二つの要素が具体的にどういうふうに働いているかはこれからの研究の課題です。

しかし、「科学的唯物論」という世界観を受け入れている人たちはそのような結論を「門前払い」にして、科学ではなく「宗教」だと定義 してしまいます。有名な天文学者であったカール・セーガン博士のことばを借りますと、“The universe ― all that ever was, is or ever will be”「宇宙:今まで存在したすべて、また、現在存在しているすべて、そしてこれからも存在するすべてです。」もし、これが自分の信念の基礎であれば、 つまりその大前提であれば、自然に導き出される結論は全てのことに対して、究極の目的も何もなく、全ての倫理や道徳は相対的なものだということになり兼 ねません。絶対的なことは全くなく、すべてが相対的かつ主観的なことだけです。これこそ、アカデミアの世界に流行している「ポストモダニズム」の本質そ のものです。毎日のニュースの中で聞かれる倫理的な論争のすべてがこの世界観の根本的な相違に由来します。

一つの例をあげますと、今年 の3月、私がアメリカにいたときに起きた、「植物人間」と診断されて、死なせたテリー・シャイボーの事件がありました。日本のニュースにも結構取り上げ られたそうですが、彼女の両親と夫との間の裁判での争いでした。夫の主張は彼女がこのような状態で生き続けたくないことで、親や兄弟の猛烈な反対を押し 切って、栄養と水分を補給していた胃袋に通ずるチューブを取り外すように求めました。点滴も与えないことになったので、2週間の内に死んでしまいまし た。しかし、その死ぬ日まで、マスメディアでのすさまじい争いが繰り広げられました。その時、大変皮肉に思ったのは、彼女のフィーディングチューブを取 り外した同じときに、死にかかっていたローマ法王に、長く生きていけるようにと同じようなフィーディングチューブをすぐに取り付けたことです。まるで、 神様が大事なことを教えるためにそのタイミングを操ったかのように感じました。

夫マイケルは法律上そうする権利がありましたが、彼の動機が大変いかがわしいものだと思いました。離婚して、彼女を親に看護する責任 をゆずったらいいのにと思いましたが、彼はなぜかそうしないで、自分の主張を最後まで変えませんでした。本当に彼女のことを考えてやっていたとすれば、 ある程度理解ができましたが、過去の数年間、彼が別の女性と生活して、彼女を通して二人の子どもを設けていました。テリーさんのことを第一に考えていた とは思えないのですね。しかし、彼の動機を裁くのは私ではなく、神様なので、それを神様に任せます。それでも、彼と彼を支持した人たちの行動を裏付けて いた世界観を分析することができます。これもやはり、人類の起源と存在の目的をどう考えるかその同じ分かれ道に戻ります。

自然主義に基づいている進化論が主張するように、私たち人間が盲目の進化的メカニズムによる偶然にでき上がった存在だとすれば、それ に従って、聖書はこの世を超越する神からの啓示ではなく、自分の起源や目的の説明を求めていた古代人の作品に過ぎないと判断せざるを得ません。もし、そ うであれば、絶対的なことは何もないことになります。ですから、日本を含む多くの国の法律が由来する十戒はその当時の文明のコンセンサスだけで、現代の 私たちが自分の時代に合う全悪の基準を決めても良いと考えてしまいます。これは、もちろん、新しい考え方ではなく、昔からそう考えていた人がいました。 聖書では、「自分の目で正しいと思っていることをする」人たちはどうなるかと書いてあります。箴言14:12に書いてあるように、「人間の前途がまっす ぐなようでも、果ては死への道となることがある。」つまり、神が示した道を拒んで、自分だけの判断ですすんで行けば、待つのは死だけです。このような人 間の知識に対して、この同じ箴言の大変面白いことばがあります。26:12ですが、こう書いてあります。「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よ りは愚か者の方がまだ希望が持てる。」

最近のアメリカでは、保守主義と進歩主義の間でかなり激しい対立が続いていることは皆さんが聞いていることだと思います。これは「文 化戦争」と呼ばれ、数多くの難しい課題がそのいわゆる「文化戦争」に関係しています。しかし、それらのすべての課題を分析しますと、この同じ世界観の相 違に戻ってしまいます。その対立している二つの世界観の結果がすぐには見えないかもしれませんが、やがて、一つは死への道に通ずるもので、もう一つはい のちへの道に通ずるのです。これを言って、自分の考え方がいつも正しいものだとは言っていません。というのは、難しい状況の中で、自分がどっちの道を進 んでいるか迷いを感じることがよくあります。例えば、「安楽死」や「妊娠中絶」や「同性愛者の結婚」などの論争の「避雷針」となる課題を普通に考えれ ば、比較的に判断しやすいのですが、特殊のケースになるとちょっと迷いを感じることがあります。また、これらの課題よりかなり不透明な課題もたくさんあ ります。環境問題はその一つです。

では、残りの時間に、この課題を世界観の立場からもう少し考えてみたいと思います。今、強調したいところは、人類の福祉と環境保護と の正しいバランスを保つことです。もし、私たち人間は自分が生きている環境を保護しなければ、その環境は私たちを養うことができなくなります。ですから、人類の福祉は環境保護にかかっています。

最近のことですが、教会歴には4月の最後の日曜日を「創造日曜日」と定めてきました。これは1970年に始まった”Earth Day”(地球の日)と呼ばれている環境保護の運動を推進する行事に関連することで、キリスト教会でも、このテーマを取り上げるのが狙いです。今年の テーマは「絶滅に瀕する神の被造物を保護する」ということで、そのホームページにこう書いてありました。「神のみことばはすべての被造物が神をほめたた えるように呼びかけています。」また、「私たちが絶滅に追い込む他の被造物が神をほめたたえることができなくなります」と続けて言いました。人間が資源 を貪るために、多くの生命体を絶滅に追い込んでいることを非難してから、結論として、「絶滅は自然界の管理ではないのです。絶滅した被造物は神をほめた たえられません」と締めくくります。

私はこの結論に異議を申したてるわけではありませんが、一つのことを忘れているという気がします。すなわち、神を賛美するように呼び かけられているもう一つの「被造物」がいます。それは人間です。自然界は大事ですが、優先にすべきなのは人間なのです。もちろん、何かの生命体が絶滅し てしまうことはまことに残念なことで、それを何とかして避ける努力をしなければなりません。しかし、人間の福祉との正しいバランスを保つために、難しい 決断をしなければならないことがあり、残念ながら、ある程度の絶滅を受け入れる必要が出てきます。人類の福祉を優先にすれば、ある程度の生命体の絶滅が 避けられません。実は、もし、この世界には人間が存在していなくても、自然に絶滅してしまう生命体がいるはずです。生命の歴史を見ますと、人間が登場す る前からも、平均にして、およそ一年に一つの動物が地球から姿を消しました。それに対して、神は新しい動物を創造しましたが、創世記によると、人間を創 造してから、新しい生命体の創造から「休んでいる」のです。現には、人間が登場してから、新しい動物の種の登場が一つも確認されていません。しかし、人 間の開発によって絶滅の頻度が急激に増えてきました。動物、また植物もなるべく保護すべきではありますが、そうするのに、貧しい人たちの福祉を犠牲にす ることはいけません。

しかし、自然主義の世界観を持つ環境保護者が優先にするのは人間の福祉ではなく、動物と植物の保護なのです。これは特に発展途上国に 影響があり、貧しい人間の生活が犠牲になってもしかたがないことで、あくまでも、他の生物を守ろうとします。また、「動物権利」を主張する過激派が例え ば、人間の病気を治療するための医療研究に使われる動物を解放するために、研究所を破壊することなどいろいろありますね。このような行動は彼らの世界観 の当たり前の結果です。というのは、その世界観によると、人間は特別な存在ではなく、ただ偶然に現れた知恵のある動物だけです。こういうわけで、このよ うな世界観を持つ環境保護者は自然界が人間を養う資源として考えるのではなく、むしろ、自然界が何かの絶対的な、本質的な価値があるものだと考えている のです。だから、例えば、一つの生命体を守るか、それとも地元の人間の生活を守るかという選択に迫られたら、その生命体を守ることは絶対に優先です。と いうのは人間がどこにもいるのですが、絶滅に瀕している生命体はここにしかいない。人間の方に価値があると主張することは「傲慢だ」と言われます。とい うのは、彼らの考え方では、全ての生命体は行き当たりばったりの進化の結果だから、人間が他の生物より価値があるとは言えないと主張します。

これらのことは、人間の一時的な福祉だけを考えるべきだということを意味していません。なぜなら、人間の繁栄と他の生物の繁栄が相互 的なものです。ですから、多くの具体的なケースの場合、聖書的な世界観の立場から考えている環境保護者と唯物論的な世界観の立場から考えている環境保護 者は結局同じ行動と取ります。ただ、その裏にある理論的根拠が違います。一方では、地元の人間の福祉と関係なく、その生息地の本質的な 価値のためにそれを守りたいことと、他方では、人類の福祉が依存している環境を維持するためにその同じ生息地を守りたいのです。つまり、両側が生息地を守りたいのですが、世界観の故に、その理由が違ってくるのです。

最後に、環境問題に関連するもう一つの概念を考えたいと思います。それは「持続可能開発」です。どんな開発でもいいということではあ りません。一時的にしか維持できない開発は環境を破壊する開発で、自分の短期間の利益しか考えていない人たちがやることです。ですから、そういう開発を 反対すべきことは当たり前のことです。「自分の利益しか考えていない人たち」と言うと、それは「あのような人たちだ」と私たちが考えたいのですが、問題 は多くの場合はそれが結局、私たちなのです。先進国の一つである日本の社会に住んでいる私たちにとっては、資源の開発はどれほど持続できない形であるか 見えにくいことです。現在のままの資源開発をずっと継続できないのは明らかなことですので、それを認識したら、自分の生活を変えなければならないことが 解ります。しかし、問題は物質的に恵まれている私たちにとっては、例えば、燃費の悪い車を捨てて、燃費のいい、小さい車を買うことなどの程度にとどまる ことでしょう。しかし、ぎりぎりの生活をしている貧しい国の人たちにとっては、「環境を守る」ために消費をカットすることは、自殺行為に匹敵するかもし れません。でも、そうしないで自分の環境を破壊してしまえば、それも自殺行為に匹敵することです。そのような苦しい立場にいる人たちにとっては、まるで 「自分の自殺方法を選びなさい」という感じになり兼ねません。これは環境的、経済的な正義の問題です。神は人間が地球を支配するようにと命じたその使命 に含まれているのはすべての被造物の福祉を考えることです。特に「神にかたどって創られた」被造物です。

こういうわけで、すべての人間の基本的なニーズに応える地球環境の問題への解決を探るように呼びかけられています。それは自分の生活がかかっている環境をしかたがなく破壊せざるを得ない状況に置かれている人たちを助ける義務が私たち、技術的経済的能力のあるものにあります。これこそ 「環境を保護する」あらゆる働きの基準となるべきです。「環境を保護する」ということはただ「環境」のためではなく、すべての人間のためなのです。それこそ「持続可能開発」を考える基準となるのです。そして、「最後の審判」のときに、その同じ基準によって、全ての人間が裁かれるのです。その裁きについて、イエス様はこう言いました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」また、同じように、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」環境問題にかかわる複雑な問題を取り組むとき、この正しい見解を取 り、人間の福祉を第一にする正しい決断をするように神様の導きを絶えず求めましょう。

お祈りいたします。主よ、私たち人間を育むこの素晴らしい地球を準備してくださったことを感謝します。私たちがこの与えられた環境を上手に管理す るように命じられましたが、現在の世の中を見ますと、いかに人間がその使命を怠っているかすぐ解ります。これは人間の罪の結果です。しかし、問題はあま りにも大きすぎて、個人として何もできないように見えます。最終的にはこの問題を解決できるのは神様だけですが、それでも、一人一人できることがあります。どうか、多くの問題を起こしている私たちの高慢と自己中心さを赦し、知恵と謙虚さを与えください。そして、人類の福祉を第一にする正しい手段が取られるように私たちを導いてください。

Updated: 2007 年 08 月 24 日,02:59 午前

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