イエスが例え話を通して教えた理由


イエスが例え話を通して教えた理由

2011年10月23日 (Kobe Union Church)

マルコ4:1-24

過去の数週間において、ブルース先生とマーク先生がイエスの例え話を取り上げる説教のシーリズをしてきました。けさ、私はその同じテーマを続け、「種まきの例え」と呼ばれている話に焦点を当てます。そして、この特定の例え話の意味について考えるとともに、イエスがご自分の教えを頻繁に例え話という形で伝えたという理由をも探って行きたいと思います。これらの永遠に残る意味深い教えを伝えるために、直接に伝えるよりも、このような例え話を通して伝えたのはなぜだったでしょうか。

先ほどの聖書朗読では、マルコ4章に書いてある「種を蒔く人」のたとえとその説明を読みました。この例え話のもう一つの題名は「土壌のたとえ」ということで、それは人間の心を例えている四種類の土壌を語っているからです。この話の冒頭には、イエスの教えを聞くために大郡衆が湖のほとりに集まってきたことが述べられています。そして、多くのたとえを利用して、群集に教えたと書いてあります。なぜそのような教え方をしたのでしょうか。それはきょうのメッセージに強調したいところです。

このいろいろなたとえの中で、マルコが選んだこの「種を蒔く人」のたとえをもう一度読みしましょう。3節から読みます。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種が道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種がいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種が良い土地に落ち、芽ばえ、育って、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」そして、その後に、イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」というもう一つの不思議な発言を締めくくりとして言いました。

もし、私たちがその群衆といっしょにイエスのこの例え話を初めて聞いたとすれば、理解できたでしょうか。群衆が解ったかどうか直接に書いてありませんが、それからの流れに見えるように、弟子たちでさえ解らなかったことから考えると、だれもその本当の意味が理解できなかったのではないかと思います。このたとえの意味がその後に説明されていますので、それぞれのシンボルの意味が明らかで、例えば、説明がなくても、私たちならすぐ解ったはずだと考えてしまいがちです。しかし、私がその当時の人たちと一緒にこのたとえを初めて聞くとしたら、私たちも理解できなかったのではないでしょうか。それはたとえば、話されたアラム語が私たちの母国語であってもそうでしょう。

そのほかに、多くのたとえを述べたと書いてありますので、イエスがこれらのたとえを通して言おうとしていることは農業の教えなどではなく、何か隠されたメッセージなのだということに皆が気づいたでしょう。もし、普通の人がこのような理解しにくい話をしたら、皆がすぐ飽きて、その人の話を聞こうとしなくなるでしょう。しかし、イエスの場合、違いました。彼は多くの病人をいやしたりしていましたので、ものすごく期待が寄せられていました。ですから、よく理解できなくても、人々は聞こうとしました。この同じマルコ4章に、マルコはイエスが群衆に向かって話されたことを次のように書きました。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」

では、なぜイエスがそのようなたとえを話したか、マルコは次のように説明しました。「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。『あなたがたには、神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ようになるためである。』」

どうでしょう?このことばはちょっと引っ掛かりませんか。「イエス様、あなたが言ったことばを聞き間違えたのかしら」と尋ねたいのですね。一見みると、イエス様らしくない発言でしょう。不公平に聞こえてしまいます。人々が救われることがないように、理解できない言葉で話したのはいったいどういうことでしょうか。そして、神の国の奥義が弟子たちだけに示されて、他の人たちに示されないのはなぜでしょうか。弟子たちは他の人より素晴らしい人間だからでしょうか。彼らが言ったこととやったことを考えますと、明らかに総出はありませんでした。ですから、どういうわけで、そのような区別をしたのでしょうか。他の人たちがしなかったことで、弟子たちが何かをしたのでしょうか。

実は、よく考えてみると、あります。その答えは弟子たちがイエスに説明を求めたということなのです。イエスは彼らにたとえを理解してほしかったのです。しかし、それよりも、彼らにそれを理解したい気持ちを引き起こしたかったのです。その説明を求めるほど理解したい気持ちが重要です。13 節にイエスはそれについて、こう言われました。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」 イエスが言っているのは、このたとえが「神の国」の基本的なたとえだということです。なぜかというと、古代イスラエルの考え方では、植物は子孫を残すために種を作るということはしますが、その植物のいのちをもたらすのは土壌です。このたとえには、我々人間はそれぞれの土壌の種類で、蒔かれる種は神のみことばです。ですから、問題は神のみことばをどのように受け止めるかということです。よい土のように、その種を受け入れて、育って行けるために必要なよい環境を与えるのでしょうか。それとも、石だらけの浅い土のように、みことばという「種」を聞いても、育つことのできないほどに無関心になるのでしょうか。

このたとえの四種類の土壌などをどういう意味か説明してから、イエスは次の節で大変面白いことを言いました。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」これは無関係な別のたとえではありません。イエスはこれで話題を変えて、伝道や社会活動について話しているわけではありません。彼が言っているのは、「私が御国の奥義を打ち明ける時、それはその奥義を隠すためではなく、光をもたらすようにするためなのです。」

次の22節と24節には、イエスがこの話を続けます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたのもで、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」 「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

要するに、この「種を蒔く人」のたとえとそれに関係しているイエスの説明の目的は聞こうとすることと聞き求める姿勢を促すためでした。その姿勢は神が私たちに求めておられることなのです。詩編の表現を引用しますと、神のみことばは、「わたしたちの道の光、わたしたちの歩みを照らすともしび」ではありますが、私たちがそのともしびを「燭台」の上に置かなければなりません。そのともしびを隠してしまえば、何も見えません。そして、たとえば、そのみことばが隠れた形で現れるとしても、それでも神が望んでいるのはそれらをすべて明らかにすることなのです。

ですから、私たちがそれを求める必要があります。私たちは一人一人自分に問い掛けなければならないのは、自分はどういう姿勢を持って神のみことばを聞こうとするのかということです。本当に聞こうとする姿勢はよい土になることと同じです。積極的なことで、活動的です。そして、必ず報われることです。知識を求めれば求めるほどに知識が与えられるものです。しかし、無関心で知りたくないのなら、その持っている少ない知識でさえ消え去り、また世の心配事の下に埋もれてしまいます。

この原理は聖書の中心的な原理の一つです。何かを見い出したいのなら、それをまず探し求めなければなりません。実は、それはイエスが与えた約束の一つなのです。マタイ7章の有名な「山上の説教」の中で、イエスはこう教えました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」ですから、探し求めるなら、見い出せることが保証されているのです。しかし、その大条件は、探し求めることです。答えを得るのに、まず問いかける必要があります。そういう意味では、努力が必要です。

神が私たちを「坊ちゃん育ち」の扱いにして、何もかも簡単に与えるということをしない根拠はそこにあります。つまり、どれほどの努力を注ぎ込むかは、その真理が自分にとってどれほど大事であるかの目安となります。要するに、中途半端に真理を求めるだけであれば、自分の人生では、その真理があまり大事にされないことになるでしょう。やはり、あまり高く評価しないことのために一生懸命となって働くことはまずないでしょう。これは、イエスが例え話をよく利用した理由の一つではないかと思います。彼が示そうとしたあらゆる真理を明白にする形で語ることをしなかった理由はここにあります。もう一つの理由は、もしも初めからすべてのことをだれにでも聞こえる形ではっきり説明したとしたら、イエスの地球上のミッションを早く脱線させてしまった可能性があったことです。つまり、弟子たちを訓練してきちんと準備できないうちに、私たちの罪のためにご自分の命を捧げなければならなくなった可能性のことです。権力者たちはイエスが自分の権力に対して脅威的な存在であると早く認識して、より早く殺そうとしたのではないかと思います。その点も重要な要素だと思いますが、今日強調したいのはそれではなく、先の点です。神が私たちに求めておられるのは努力することです。なぜなら、私たちの努力が私たちの心を表すからで、その上、私たちの心をも強めるからです。

もし、この原理はイエスの教えに当てはまるものであれば、つまり、神が人間に与えた最高の掲示に対してそうであれば、神が人類に与えたほかの掲示に対して違うはずはないのではないでしょうか。しかし、多くの人の場合は、自分があまり考えなくてもいいように人生のすべての問題に対する何かの「答え」を得たいのです。つまり、自分がその答えを努力して探し求めるよりも、誰かの信頼できそうな偉い人に自分が何を考えるべきか教えてもらいたいという感じです。実は、こう考える人はカルト教団に引っ掛かりやすいのです。「難しすぎるのだ!何を信じるべきか教えてください!」先ほど読んだイエスのことばがこのポイントに当てはめます。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」カルト宗教の甘い言葉に惑わされて、その内容を吟味しない人は、つまり、自分できちんと考えようとしない人は、ものごとをきちんと考える能力でさえ、薄らいでしまいます。

この原理を自然界の観点から考えれば、同じことが言えます。神が人間にご自分のことを伝える方法としては、主に二つの方法があると言えます。聖書という神のみことばはもちろんその一つですが、もう一つは神が創造した自然界を通して、ご自分のことを証しする方法です。神学的に言えば、聖書による掲示は「特殊掲示」と言い、自然界による掲示は「一般掲示」と言います。私たちの心の中で神が直接に語ることはもちろんありますが、普通は、それが、その「特殊掲示」また「一般掲示」を通してなさることです。

自然界を観察して理解しようとすることは科学の分野ですが、聖書にもそれが勧められています。詩編111:2に書いてあるように、「主の御業は大きくそれを愛する人は皆、それを尋ね求める。」神が創造したこの世界を愛しているなら、それを「尋ね求めて」理解しようとつとめるでしょう。「神学」である神のみ言葉の研究と「科学」である神の世界の研究は共立するはずです。

この中で、知っている人が多いと思いますが、私自身の大学の専門は科学でしたので、この課題には特に興味を持つのです。KUCでの私の説教を聞いたことのある人が分かるように、チャンスがあれば、このテーマによく触れるのです。ですから、以前に話したことのあること多少繰り返すのかもしれませんが、極めて重要なことなので、復習する価値があると思います。前に話した時にいなかった人も多いので、それは特にそうです。

現代の世の中で、多くの人は科学と宗教が正反対の事柄だと思うようになっているとは明らかです。世界の多くの宗教の場合、それは実際にそうだと思いますが、今私が話しているのはキリスト教ということで、言いようとしている意味は一般的の無宗教の人、そして、多くのクリスチャンでさえ、現代科学とキリスト教の信仰が相反するものだと思い込んでいます。しかし、科学の歴史を偏見なしにみると、それと随分違うことを明らかにします。現代科学が始まるには、ある必要条件が揃うまで、不可能なことで、それが初めて起きたのはルネサンス時代のヨーロッパでした。現代科学を可能とした土台は聖書に見られる基本的世界観でした。要するに、自然界を司っているのは気紛れの神々ではなく、自然法則をデザインした天地創造の神であるという理解でした。

この基本的概念が欠如していた状況はその他の全ての文明に於いて、科学がいわゆる「流産」してしまった原因でした。聖書のメッセージを受け入れていたユダヤ人やキリスト教徒以外の古代人が考えたのはあらゆる自然現象は神々のその時の感情やお互いの戦いなどによって起こることで、人間が理解し得ることとは思っていませんでした。こういうわけで、自然現象は表面的な意味以外、人間が理解し得ることだと思いませんでした。従って、現実に対してそのような理解がある人たちは、自然界を理解しようとするのではなく、神々を宥めて、求めている事柄をしてもらうという目的のある宗教的儀式に全力を注ぐことになりました。このような基本的世界観が優勢となっている社会では、科学の誕生が起こり得なかったことでした。

この状況が初めて変わったのは中世のヨーロッパで、科学は意味のある形で、スタートできるようになりました。もう一つの大事なポイントは、現代科学の初期の科学者たちのほとんどは敬虔なクリスチャンだったということです。彼らは聖書に示されている原理から、「科学方法」と呼ばれている原理を見出して、それを利用して、神が創造した自然界を理解しようと努力しました。そして、その土台の上に現代科学が発展してきました。

私の大好きな聖句の一つは詩編19:1-4で、こう書いてあります:「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」これは先ほど言った「一般掲示」のことで、壮大な宇宙を通して、神がすべての人々の言語で語っています。しかし、これはイエスのたとえ話と似ています。その意味が明白ではありません。理解するのにその意味を探し求められなければなりません。観察を通して自然法則を導き出して、生命を可能とする微調整されている数多くの要素の組み合わせなどを割り出すことができます。そして、神の世界を通して見受けられる証しを研究することによって、創造主の特徴を見出すことができ、それらを神のみ言葉を通して私たちに掲示されている神の特徴と比較することができます。神が与えて下さった二つの掲示をそれぞれ正しく理解すれば、矛盾し合うことは一つもありません。これらのことに対して言えるほかのポイントがたくさんありますが、今日強調したい点は両方の掲示を研究することによって、すべてのことに目的があるし、神の全体的な計画に沿っていることが分かるということです。何らかの方法で神の目的を達成するために利用されない事柄は起こり得ないことです。多くの場合、それらの目的は私たちから隠されてはいますが、真理を探し求めれば、やがてそれらの目的を見出します。「やがて」とあえて言ったのは、生前のうちに探し求めている理解が不十分だと認識しているからです。それにも関わらず、この人生においても、理解し得る事柄も多くあり、それらを探し求めるべきです。

確かに、自然界の観察や実験などは苦労の多い働きです。しかし、探し求めようとしないなら、普通は神の存在を認識できないのです。やはり、神様は人間の目で見える形で天に姿を見せないのです。神は私たちが探し求めなければならないように、この世を造ったのです。ですから、科学の世界であれ、信仰の世界であれ、探し求めなければなりません。ヘブライ人への手紙11:6に書いてあるように、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」もし神がだれも否定できない形で皆の前に現れるとすれば、信仰は全く必要でなくなります。こういうわけで、神の存在を絶対的な意味では証明することができないようにこの世をデザインしたのです。それを裏付ける強い証拠をたくさん与えたのですが、それらの証拠を否定しようとすれば、いつまでもできるようになっています。もし否定できない形で神がご自分を掲示したのであれば、人間の自由がなくなり、神を信じるには何の信仰も必要でなくなります。

しかし、神はこの世をそのような形で造っていません。神の存在や私たち一人一人に目的があることなどを裏付ける多くの証拠を与えますが、それらを掘り起こす努力をする志が必要です。すべてをでき上がった形で私たちに与えるのではありません。商品の世界から類推を考えましょう。店へ行って、買い物をする時、品物を完成した形で買い求めることは多いのですが、自分で組み立てる、いわゆる "Do it yourself" の組み立て品もありますね。でき上がった品物はもちろん楽ですが、組み立て品の方が大分安いのです。しかし、場合によって組み立てるのに苦労することもありますね。組み立ての指図に従って行かない場合は特にそうですね。人間の社会の中で両方の形式がありますが、神様の世界では例外なく、組み立て式です。自分で組み立てることが要求されています。理解するために努力しなければなりません。

最後に、皆さんに次のことを分かち合いたいと思います。科学、哲学、や他のすべての人間の試みは労力を必要とします。探し求めることは重労働です。土を掘り起こすことは重労働です。そして、収穫を取り入れることも重労働です。しかし、神様は私たち一人一人に自分の労力を必要としている収穫を用意しています。あなたのために用意された収穫は何であるか御存じですか。それを知っていますか。もし、それをまだ考えたことがないなら、次のことを是非覚えておいてほしいのです。全宇宙、そして、私たちが生きているこの世のすべてを細かくデザインしてお造りになった同じ神様は、あなたをもお造りになったのです。もし「天は神の栄光を物語り」、そして、神がすべてに目的を持っていると証言しているなら、被造物の中での最も尊い被造物であるあなたの存在にも目的があります。その目的を探し求めることは私たちに与えられている冒険なのです。

お祈りいたします。天の父なる神様。美しい自然界の中に見られるあなたのみ業を考えますと、畏敬の念に打たれます。私たちに与えたこの地球のデザインがどれほど複雑で密接に絡み合っていることを理解しますと、感謝一杯です。それと同時に、足下のともしびとなるみ言葉をも感謝します。この二つの掲示を両方理解できるための努力を尽くすことができるようにお助けください。また、 自分の人生の目的をも理解できるように必要な労力を費やすことができるようにお助けください。主イエス様の御名によって、お祈りいたします。

Updated: 2012 年 10 月 19 日,05:16 午前

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