なぜ悪い事が良い人に起こるのか

ボイル・ティモシー

きょうは大変難しい課題を取り上げてみたいと思います。「なぜ悪い事が良い人に起こるのか」という題を選びましたが、特に、身内の人や友人のだれかに悲惨なことが起こりますと、本当にその通りのことを神様に聞きたいのでしょう。なぜ悪い事が良い人に起こるのか?多くの犠牲者を出した東日本大震災の生々しい映像を見るたびに、ぞっとします。また、神戸の皆さんに直接に多大な被害をもたらした17年前の阪神淡路大震災も心に残ることでしょう。このような自然災害や2001年に起きた同時多発テロのような人間の手による惨事が多くの良い人に大変な苦しみを与えるのはなぜでしょうか。これからたくさんの良い業ができる働き盛りの人が病気や事故によってこの世を去っていくのはなぜでしょうか。

「なぜ悪い事が良い人に起こるのか」、また苦難と関係するほかの問いかけが歴史の始まりからありました。人間の長い歴史にはだれも簡単な答えを見つけることができませんでしたので、このような質問に対して単純な決まり切った答えがないことは明らかです。しかし、だからと言って聖書には何の答えもないという意味ではありません。ただ、人生のこの部分には不可知な面がどうしても残るということです。

きょうはこの難しい問題に対して聖書全体の立場から見て、何を学べるか考えて行きたいと思います。私たちが直面している問題は全能の愛なる神を信じながら、毎日のテレビのニュースで見る言語に絶する恐ろしいできごとをどうしたら説明できるかということです。私は科学の歴史を学んでいますが、有名な科学者であったアインシュタインにとって信仰の一番の妨げとなったのはこの問題でした。彼の宇宙に関する様々な研究を通して、宇宙は永遠から存続したのではなく、数十億年前にはっきりとした始まりがあったということがわかりました。従って、すべてのものが存在するようになった瞬間があったので、それを引き起こした創造者も存在しているはずだと結論しました。しかし、アインシュタインはこのような全能の神がなぜ悪や苦しみを許すのか納得できる答えが与えられなかったので、結局彼が聖書の神を否定して、神は我々人間と直接に関係を持たない人格性のない力として描くようになりました。

一体なぜ良い人がよく苦しまなければならないのだろうか。そして、同じように困惑させる問いかけとしては、なぜ悪い人が栄えることもよくあるのだろう。これらの質問は大きなジレンマを指しています。というのは、一方、神は善でありながら、このような不正に対してどうすることもできないということなのか。それとも、そのようなことを支配できるにも関わらず、そうしてくださらないのか。どちらでも矛盾を生じますね。最初の場合は神が全能ではないということになるし、反対の場合は「神は愛なり」という聖書の教えは嘘になってしまうように見えます。そして、もし神は私たちの日常生活とかかわりをもってくださると信じているなら、同じようなジレンマとぶつかります。すなわち、善と見える私たちの人生の詳細とかかわっているとすれば、悪と見えるできごとと同じ程度のかかわりをもっているということにもなりますね。

では、この問題を考えて行きたいのですが、このようなメッセージにあらゆる苦しみの原因を割り出せる決まり切ったシステムを与えようとしているのではありません。やはり、それは人間ができることではないのです。その上、聖書に答えを求める時、聖書は複雑な書物であることを認識する必要性があります。聖書に示されている救いの道は簡単で、わかりやすいものですが、聖書そのものは単純なものではありません。聖書全体を本当に理解するために、多くの祈りと時間をささげなければなりません。こういうわけで、歴史において、聖人たちが日々みことばを読んだり考えたりしました。

それでも、このメッセジーで苦しみと神の正義のこの難しい問題を聖書がどう取り扱っているかの全体像をいっしょに考えて行けると思います。では、この課題を考えるために、聖書のいろいろな人物が互いに話し合っている場を想像してみましょう。聖書に含まれている66巻の本は1000年以上の間に三つの大陸をまたがっている様々な文化的な背景を持つおよそ40人の手によってできたものです。聖書全体の内面的な調和と統一を考えますとそれ自体はたいへん不思議なことです。しかし、この課題を考えるために、一応これらの人物がいっしょに大きなテーブルの周りに座ってこの問題について議論していることを想像しましょう。この討論の議長を勤めているのはもちろんイエス様ご自身で、その周りにモーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤ、エレミヤなどの旧約聖書の人物が並んでいます。そして、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ペテロ、パウロなどの新約聖書の中心的な人物も一緒で、この問題を討論していることを想像しましょう。

この議論の細かいところを考える前に、この話し合いがいわゆる「部屋」の中で行われることを認識しなければなりません。すなわち、古代中近東の文化的な世界観という「部屋」です。その時代の世界観は健康、富、多くの子供を設けること、社会的な地位などの人生に於ける最高の価値あるものはすべて神々の崇拝と奉仕によって勝ち取るものだと考えられていました。古代人にとっては選択肢が明らかでした。この様なことがほしいなら、神々に仕えなければなりません。なぜなら、神々に逆らったら、病気となったり子供のない貧しい人生を送ったりすることになると考えられていたからです。聖書時代の文化的な背景はこのようなもので、神がその中で福音のメッセージをイスラエルの歴史を通して伝えてきました。

まず、この文化的な背景の中に、モーセは信仰をどう捕えるか考えてみましょう。彼はもちろんその「部屋」、つまり古代文明の世界観の多くの面に対して異義を申し立てるのです。他の崇めるべき神々の実在を否定し、人間が本当の神と交わるために信仰と信頼をもって、神に仕える代わりに魔法的な呪文などで神を操ろうとすることを厳しく非難します。実はこのような考え方が世界のあらゆる宗教に見られますね。すなわち、自分の願いごとが叶えられるように、儀式や呪文を通して神々を操ろとすることです。つまり、ご利益宗教のことです。その文化的な環境の中にあったこれら、また他の多くの面に対して、モーセは神の霊感によって、強く非難します。 しかし、神に従うかどうかの結果に対してはモーセは彼の古代中近東の隣人とほぼ同じ考えを持っていたということがわかります。モーセとイスラエルの民との関係を述べている出エジプト記、レビ記、民数記と申命記に記録されているのは、モーセを通してイスラエルの民は神と契約を結ぶことになり、その契約に従えば祝福されるけれども、もし従わなければ、呪われることになるということです。そして、それらの結果は直ちに受ける具体的な祝福また呪いによって経験するものです。これらは契約のいわゆる「霊的」な祝福と呪いですが、それらはすぐ現われる健康、生殖力、寿命、そして国としてまた個人としての繁栄と平和などという形で経験するものです。旧約聖書の残りを見ると、この考え方は旧約聖書の大部分の思想の土台となっていることがすぐわかります。このいわゆる「聖書の円卓会議」では、この考え方は「大多数のレポート」と呼びましょう。

しかし、この「大多数のレポート」に対してもう一つの考え方があります。それは「少数派のレポート」ということで、この人生において、正義が行われると必ず祝福を受けることまた、悪が行われれば、自動的に天罰を受けるという考えを否定します。この「悪と苦しみに対する聖書の円卓会議」というたとえ話を通してこの問題を考えたいのですが、それは「大多数のレポート」を代表する聖書のある部分を「少数派のレポート」を支持する他の部分と対立させようとしているという意味ではありません。というのは聖書全体が神のみことばで、この問題に対する聖書の中の対話は人間が神との出会いによってこの問題を理解しようとしている記録なのです。ですから、その対話を通して、私たちが悪と苦しみという難しい問題に対して理解を得て、そしてそれを通して神との出会いという最も大切なことを経験することができます。

さっき言いましたが、旧約聖書の大部分の思想の土台となっているこのいわゆる「大多数のレポート」の反対な面を述べる箇所が多くあります。たとえば、創世記に書いてあるヨセフの物語を読みますと、人が苦しみを受ける様々な原因があるということがわかります。若い時、ヨセフは自分の仰々しい夢を高慢に話したため、お兄さんたちに激しい嫉妬を呼び起こしました。それゆえに、ヨセフが兄弟の手によって、エジプトに奴隷として売られてしまう結果となりました。そこで、結局、牢屋に入れられ、長い間苦しんでから、とても不思議な導きによって、パロ王の次、権力を持つエジプトの総理大臣まで昇進しました。この話から見えるのは、苦労の原因は罪深い自分のせいの場合もありますが、ほかの人の不正な行為による場合もあるとわかります。私たちが苦しむ理由が複雑で、自分の支配に及ばない複数な原因の場合がよくあります。

ヨセフの経験から学べるもう一つのポイントは悪の状況の中にでも、神が見えない形で、ご自分の善である究極の目的のために働いていらっしゃるということです。何年間も後にヨセフが兄弟に言ったように、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」こういうわけで、罪と苦しみ、また服従と祝福の因果関係がはっきりと書いてあるこの神との契約の物語の中に苦しみに対するもっと深みのある理解もあります。

このいわゆる「大多数のレポート」に対して、ヨブも強く反論します。ヨブは自分がどういう人間であるかとどういう人生を送るかという直接な因果関係があるというこの単純化されている考え方を否定します。ヨブがひどく苦しんでいた時、彼を慰めようとした三人の友人はヨブの苦しみは何かヨブ自身がやったことに原因があるという立場からヨブと接しました。しかし、ヨブは彼らに反論して証拠を見るように訴えったのです。すなわち、明らかに悪い人が少なくとも地上における人生のうちに罰を受けずに繁盛する数多くの例と、自分のように良い模範となる人生を送りながら、ひどく苦しむケイスもあることを訴えました。このようにして、ヨブ記は人格と人生の状況の自動的な因果関係を否定します。

ヨブ記には苦しみということは高潔な目的を果たしうることとして受け止めます。天における永遠の命に比べれば、地上における肉体的な人生は極めて短いもので、ヨブはその観点をいつも頭に入れておきます。この人生における苦しみに耐えるために、天国に永遠のいのちがあると信じる必要性を強調します。しかし、ヨブが頭でそれが分かっても、心の中で、ものすごい葛藤を感じていたので、神に自分の心の苦しみを訴えました。ヨブ記から読み取れる大事なメッセージの一つは自分の本当の気持ちを神にぶつけてもいいということで、他の人は私たちが言うべきことだと思い込んでいる宗教にかこつけたことばを唱える必要はないということです。他の人の理想のかたちではなく私たちはありのままで神とお話しできるということです。苦しみの中から、神に対する怒りの気持ちがあったら、それをそのままで神に訴えってもいいということです。なぜなら、神が私たちを理解しているからです。

ヨブ記に見えるもう一つの大事なポイントは神の前に人間のためにとりなししてくださる仲介者の必要性です。ヨブは自分が最後になると義とされることをどうにか感じ取って、自分の偉大な信仰告白を叫びます。「わたしは知っている!わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」その時ヨブがそのことばの本当の意味を理解できるはずはありませんでしたが、神と人間の間に立つ救い主イエス・キリストに対する予言でした。その上、ヨブは自分の苦しみが神に見捨てられたという意味ではないと確信し、問題は地上における人生しか見えない制限されているものとして霊的な世界に何が起きているのかなどの全体的なことがわからないと理解しました。このようにヨブが取り上げる各ポイントはこの円卓会議に「少数派のレポート」に力を与えます。

この時点で、イザヤが議論に加わります。イザヤ書53章には、神のしもべは自分の罪のためではなく、他の人の罪のゆえに苦しむことが描かれています。そして、実際は、他の人の罪のゆえにばかりではなく、その罪の赦しのためにも苦しみを受けるのだと言っています。こうして、他の人の罪を取り除くために苦しむ可能性があるという考えを持ち出します。これもまた主イエスの人生に完全に成就された予言でした。

この原理はもう一人の旧約聖書の預言者であったエレミヤの人生にも実現されました。エレミヤのメッセージは「大多数のレポート」の基礎となった申命記の思想に基づいています。すなわち、契約に従えば祝福されることと従わなければ呪われるということです。しかし、エレミヤ自身はどうなったのでしょうか。彼が神に訴えます、「主よ!あなたのために説教する度に、彼らは私を牢屋に投げ入れるのです!」そして、この本はどういうふうに終わるかと言いますと、かわいそうなエレミヤはエジプトに連れ去られ、行方不明となります。ちょっと矛盾に見えるのではないでしょうか。エレミヤは契約に従順でありましたが、地上の人生には祝福されたとは決して言えません。しかし、この本が聖書に含まれていること自体はエレミヤのメッセージを評価した人々がいたという意味になります。「彼が個人として何を経験したか、気を配るな!彼は聖人だった。彼は本当のことを言った。世間に見捨てられたままで死んだかもしれないが、神は彼と共にいた。」こうして、エレミヤの人生はヨブの経験に加わって「少数派のレポート」を支持します。

そして、同じように詩編の編集者は「少数派のレポート」を支持する詩をいくつも取り入れました。たとえば、長年慢性的な病気で苦しむ人の問題があります。その上、病気であれば、何かの罪を犯したためだと思い込んでいる人がいるため、その経験が一層苦しくなることはよくあることです。詩編39編はその代表的な詩です。 そして、先ほど読んだ詩編73編があります。詩人は自分の周辺を見て、神につぶやきます、「主よ!疑問を感じます。私は良い人だのに、家族が貧しくて、病気がちです。神様!あなたはどこにいらっしゃるのですか。そして、神様、あそこに住んでいる不信心なものが見えますか。彼が住んでいる立派な住宅と家族全員が美しくて健康なものだとご覧ください。その上、彼らがいつも私たちをばかにしているのです。神様!あなたはどこにいらっしゃるのですか。何かが違います!」

その後、彼が神殿に入り、ものごとをもっとはっきり見えるようになります。悪人の場合ついに何が起こるか十分わかるようになったため信仰を持ち続けます。富のある人にとっても人生はどんなに不確実なものであるかをもわかるようになります。そして、自分の嫉妬によって、人生の見方が歪んできたことなどが理解され、自分の本当の姿が見えるようになるのです。その上、この人生の後の旅に対してある程度の見識を受け、次のことばを言います、「地上であなたを愛していなければ天で誰がわたしを助けてくれようか。わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが神はとこしえにわたしの心の岩わたしに与えられた分。」私たちもいつか、「主よ、私には本当に必要なのはあなただけです」ということばを肯定するかまた否定するかのどちらかを決めなければならない時が必ずくるのです。いつまでもどっちつかずにまたがっているわけにはいけません。

「少数派のレポート」を支持する一番強い味方となるのはもしかしたら、「コヘレト」と呼ばれている哲学者でした。彼は自分がどういう人であるかと自分に何が起こるかという直接な因果関係を完全に否定します。彼によると、日常生活に起こるできごとを通して神は私たちをどう思うかということを判明することはまるで太陽まで飛んでいくことに等しいものだと言います。私たちはもちろん神のみ手にいるのですが、私たちが神に愛されているかそれとも憎まれているかわからないのではないかと言います。どうやって神が私たちを愛しているかわかるのでしょうか。決して私たちの身に起こることによってわかるのではない。また、どうやって神が私たちを憎んでいるかわかるのでしょうか。やはり、それもわからないと考えています。こうしてコヘレトは私たちがどういう人間であるかと人生に何が起こるかとの関係を完全に断ち切るのです。しかし、それにもかかわらず、結論として、次のことばで彼の文書を締めくくります、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。・・・『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」

このようにして、「少数派のレポート」は新約聖書の解決を呼び求めるのです。そして、ある意味で、新約聖書への橋渡しの役割をも果たします。こうして、今度はイエスが討論の指導権を取って、結果的に「少数派のレポート」を支持します。ルカ13章にだれかがイエスに問題提起をして、神にいけにえをささげながらピラトによって殺されたガラリヤ人のことを尋ねました。イエスはこう答えました、「そのガラリヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガラリヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

ほかの時、弟子たちが生まれつきの盲人のことを尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスが答えたのは、どちらでもないということで、このようなことはだれが罪を犯したためこうなったというような計算はできないと教えました。そして、イエスが教えたのは、このようなことは神の究極の目的と神の栄光というもっと幅広い視野で見なければならないということです。

そして、イエスが自分の弟子になるように呼びかけた時のことばもあります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」イエスが十字架を背負って苦しみを受けましたので、もし私たちが彼の後に従おうとするならば、どうしてすべての苦しみを免れることができると思うのか。これがマルコの福音書のメイン・ポイントの一つです。彼のイエスに対する証言の中心は十字架のことで、その十字架上の苦しみを軽視すれば、イエス、また神は決して理解できないと主張します。イエスを本当に理解できるのは十字架の立場からのみです。ですから、キリストの弟子になりたいと言いながら、何かの形でいつも苦しむことを免れようとする者は的を外れることになります。そのような考え方は苦しみが神のみ心による人生の一部として見ようとしないものです。

その威厳のあるグループの中に、主イエスの驚くべき人生、その死と復活を通して神の啓示の完成を初めて経験した使徒たちは今度討論に加わります。この人生において起きることによって神が私たちを愛しているかどうかを判明できないというコヘレトの主張に対して使徒パウロやペテロが答えます、「それはそうだけど、大事なポイントを忘れたんじゃない?」。彼らの反論の中心はイエスの十字架です。神が私たちを愛しているかどうかはどうやってわかるのですか?それは苦しみを受けずにすんだという「祝福」を受ければわかるということではありません。また、戦争や自然災害によって、家族や家屋を失わないで幸福な生活をしているからでもないのです。神が私たちを愛しているかどうかはどうやってわかるのですか?それは人間がもっとも必要としていることで、罪とその支配権から私たちを救ってくださったことによってわかるのです。ヨハネの手紙一4:10 に書いてあるように、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪の償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」また、ローマの信徒への手紙8:39 のように、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト.イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

それでは、苦しみと神の正義に対する聖書の円卓会議の結論はどうなったでしょうか。これで、すべてが解決したのではないのですね。「大多数のレポート」は人間の立場から見ればもっと正しく見える面があるでしょう。善を行えば祝福されます。悪を行えば、呪われます。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」これも聖書のことばです。人生のあらゆる面において、これは事実だとだれでもわかるはずです。それは私たちの法律と政治の制度の基礎そのものです。よく働くことによって報われ、法律違反をして、他の人に害を及ぼすなら、刑罰を受けるのです。ですから、聖書の円卓会議で「少数派のレポート」が「大多数のレポート」にまさったことは決して自分の身に起こることは自分の生き方に関係がないかのように人生を送ってもいいという意味ではありません。その逆に、私たちが善を行い、正義のある人生を送るように勧められています。この人生に行なった善に対して報いを受けないかもしれません。場合によって、かえって苦しみを受けるかもわかりません。しかし、天において、必ず報われます。それは具体的にどういうことになるかは私がよくわかりません。しかし、その約束があることは大きな慰めとなります。

いいえ、苦しみと悪の問題に対する答えは単純なものではありません。その「大多数のレポート」と呼ばれている神との契約の単純化された理解の根本的な問題点はその方程式はこの人生における祝福と呪いに限られているということで、それは現実に合わないものだと証明されました。しかし、天における永遠の命の立場から考えれば、つまり、来世における報いと罰を計算の中に入れれば、それは正確な方程式だと言えるかもしれません。 とにかく、ヨブが発見したように、神が私たちと共にいるばかりではなく、私たちの強い味方にもなってくださることは使徒たちが「少数派のレポート」の締めくくりとして言います。私たちが苦しむ時こそ、神が私たちを慰めてくださいます。そして、やがてご自分の目的に達するようにその中に働きかけるのです。それは福音の良い知らせです。そして、これは決して悪の問題を言いくるめるための聖書的なごまかしではありません。人生というものにはいつまでも深い奥義の面が残るのは確かなことです。しかし、それでも神が私たちと共にいることを確信して、人生の道を歩むことができます。そして、み旨に従っていく決心をして、自分のすべてを神にささげながら、神が私たちの苦しみの中にでもご自分の目的を果たしていきます。こうして、私たちは信仰の土台を主イエスの十字架に置いて、私たちの強い味方である神は私たちを愛してくださることと、私たちのために主イエスが命をささげて、甦ってくださったことを覚えれば十分です。

最後にアメリカで有名になったある詩を皆さんと分かち合いたいと思います。「足跡」という題ですが、日本語に訳しますと、こうなります。「ある夜、わたしは夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く、悲しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心した時、あなたは、すべての道において、私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません。』主は、ささやかれた。『私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。』」

人生の歩みには、私たちも苦しみの時期を通らなければならないかもしれません。場合によって、耐え難い試練に遭わせられるかもしれません。しかし、どんな場合でも覚えておきましょう。神がいつまでも私たちと共にいらっしゃるので、私たちの信仰は決して無駄には終わりません。

お祈り致します。主よ、この人生の歩みには、わからないことが多くあります。私たちが霊的な意味においては、目の見えないものに等しいです。どうか、主よ、導きを必要としている私たちを導いてください。そして、試練に遭う場合、それを肯定的に受け止めて、成長するチャンスとして迎えられるように私たちを強めてください。これらのことを主イエス・キリストの名によってお祈りいたしたます。アーメン

Updated: 2012 年 02 月 25 日,11:25 午後

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