The Future Isnt What It Used To Be

「未来は以前のものと違う」

神戸ユニオン教会…2019年6月30日

創世記3:1-5

説教者: Rev. Tim Boyle

人間の最も普遍的な特性の一つとして、未来はどの様になるかということを知りたい気持ちがあるでしょう。場合によって、それは未来に対する希望という形になりますが、多くの場合、未来に対する恐れになってしまいます。人類の始まりから全ての人間が未来に対して考えて来ました。しかし現在は以前の世代が直面した状況と基本的に異なる点があると思います。こういうわけで、今日のメッセージのタイトルは「未来は以前のものとは違う」という題にしました。このメッセージをしようと考え始めたきっかけはこの発行されたばかりの本を読んだためでした。それは「今までの生活ぶりが終わる」と題し、副題は「科学の先端からの末恐ろしいニュース」とされています。

そして、もう一つの新しい本も読みました。これはまだ正式に発行されていない本ですが、近いうちに手に入ります。私が関係している団体、Reasons To Believe (信仰の根拠)が出版する本で、早く入手することができました。「ヒューマン2.0」という題ですが、これらの二冊の本は、いずれもキリスト者である科学者によって書かれました。両方は現代社会を大きく変えて行こうとする遺伝子組換えや、人工知能、そしてロボットのような新しい技術に伴う複雑な課題を取り上げています。

この課題を取り上げたのは、単なる未来の技術に関する講義をするためではなく、神がどのような未来をこの世に計画しているのか、それを聖書はどの様に教えているのかをつなげて考えるためです。これは聖書の預言と明らかに関連するので、本題に入る前にこの物議をかもす課題について少し言及したいと思います。自分の経験を振り返ると、大学時代とその直後にこの課題についてすごく興味を持った時期があったのを思い出します。そして、ハル・リンゼイとういう聖書学者が書いた「死んだ惑星地球」と題した本に感銘を受けたことを覚えています。それはほぼ50年前のことで、世の終わりについての聖書預言に関する彼の解釈と、実際はどうなのかを比較することができます。それぞれの預言の解釈がどれほど正確に成就したかを調べてはいないのですが、彼は特にダニエル書と黙示録に書いてある、多くの象徴を用いた預言をその当時の国や同盟国に結びつけようとしました。彼が描いたシナリオの中心には当時まだ成立していないE.U.がありました。それは10カ国によって形成されると宣言し、その本部はローマにあるはずでした。また、ソ連がイスラエルを攻撃して、ハルマゲドンを引き起こすとも書いていました。言うまでもなく、それらの予測はあまり正確ではありませんでしたね。それは世の終わりに関する聖書の預言が成就しないという意味ではありません。成就すると私は確信しています。しかし、具体的にどういうふうに、そしていつ成就するかに対して私達の憶測はもっと注意して謙虚になるべきでしょう。

この課題を考える良い方法は、約束されたメシアに関する旧約聖書の預言と、まだ成就されていない世の終わりに関する預言を比較することです。強調したい二つのメインポイントがあります。第一に、約束されていたメシアに関する旧約聖書の預言の成就は、聖書が神の霊によって書かれたこととその驚くべき正確さが力強い証となることです。死海写本から分かるように、これらの文書は預言が成就する遥か以前から存在していた証拠であり、歴史的な事実はそれらの預言がその通りになったことを物語っています。要するに、成就した預言は聖書の真実さの強力な証拠となりました。

もう一つのポイントとして、私達がこの世の終わりに対する聖書預言をどう理解すべきかについては、イエスの時代のユダヤ人が待ち望んでいたメシアに対する聖書預言をどう理解すべきかと同じような立場になっています。彼らは私達より旧約聖書を遥かによく理解していたのに、誰一人としてそれらの預言を正しく理解していませんでした。預言が成就した後に始めて分るようになったわけです。今から思えば、これらの預言の多くは分かりやすく明らかであったと思うかもしれませんが、当時は、誰も正しく理解していませんでした。もちろん、彼らには問題をより複雑にしてしまうことがありました。それはイエスの来臨と2回目の再臨に関する預言が混在していたので、区別が難しかったのです。私達にはその問題がありません。しかしそれにしても、メシアの来臨に関する1世紀のユダヤ人の立場と、世の終わりに関する預言に対する私達の立場がよく似ています。彼らは各々の預言が目の前で成就していたことが全く見えていませんでした。実現してから、そして、預言と成就した事、二つをじっくり振り返って見て、初めて分かってきたのです。

広い意味で言えば、私達は現在この世の終わりの時代に突入していると考えています。しかし、その時に私がまだ生きているかどうか分かりません。それは私個人の人生がいつ終わっても不思議ではないだけではなく、イエスの再臨が何十年も先のことという可能性もあるからです。ここにいる人の殆どが、もしくは全員が亡くなった後のことかもしれません。それにしても、この世があまり長く存続しない兆しが多くあります。それでは、先ほど言及した「今までの生活ぶりが終わる」という本の話題に戻ります。著者が言っているのは生命そのものの終わりではなく、現在の私達の日常生活が近いうちに劇的に変わるということです。それは生活がどの様な形になろうとも、現在のような生活ではないということです。

この本の結論は未来が現在の状況の延長線ではないということです。これらの先端技術にどう対応するかによって、天国みたいなユートピアになるか、それとも逆で、地獄のようなディストピア(絶望郷)になるかもしれないということです。著者であるマイケル・グイリン氏はその組み合わせだと考えています。私もそう思います。ただし、罪深い人間性のことを考えると、そして、全ての人間が神にかたどって造られているという概念に基づいている倫理観が薄らいでいるという状況下では、未来が地獄のような所になる可能性が高くなるでしょう。

これはもう一冊の本「ヒューマン2.0」のテーマでもあります。その本の著者は生化学者であるファーズ・ラナ氏と神学者であるケン・サンプルズ氏です。今は現物をお見せすることはできません。それはまだ出版されていないからです。持っているのはディジタルコピーで、全てのページに「コンフィデンシャル」と書いてあります。出版前にもらった私達は他者に回すことが禁じられてはいますが、それを宣伝するように勧められています。特にキリスト教の世界では、この本は極めて重要な本になると思います。両方の本はこれらの創発的な技術が私達の住み慣れた社会を極度に変えていくことを述べています。ロボットやそれに含まれている人工知能がいろいろな方法で人間を超えていくことになります。今まで人間がした仕事はロボットによってより早く、より安くてできるようになります。もちろん、ロボット開発、製造や整備に関する新しい職業も増えていきますが、それらもだんだんとロボットによって置き換わるようになるでしょう。2050年までにロボットの導入によってあまりにも多くの仕事が奪われるために、失業率が50%程度になってしまうと推定されています。その他の要素に加えて、既に開いている格差がさらに大きくなり貧困層が増え、社会の中で様々な緊張感を作り出し、こじらせるでしょう。

70年代のアメリカの人気番組を思い出します。「600万ドルの男」と題していましたが、そのシナリオによると、宇宙飛行士スティーブ・オスティンが乗っていた宇宙船が墜落し、彼は大怪我をしました。政府が「バイオニクス」を取り入れて、彼の命を救ったと同時に、彼をスーパーヒーローに変身させました。これはもちろんサイエンスフィクションでしたが、こういう空想科学が場合によって将来、現実のものとなっていきます。今はそこまで進んではいませんが、その番組に描かれていた機能の高度化がどんどん可能になりつつあります。その時代からのインフレを考えますと、今は「6千万ドルの男」という名称に変えなければならないかもしれませんが。「サイボーグ」人間と機械のコンビネーションである改造人間はそれほど無理な話ではなくなってきました。腕や足をなくした人にハイテク義肢を付けることが既に始まっていますし、そのようなハンディキャップを持つ人に希望を与えます。しかし、その技術があまり進むと、色々な倫理的ジレンマが生まれてきます。例えば、「改造人間」と普通の人間とのギャップとそれに伴う人権の問題、そして、人間の定義そのものも危うくなること。また、遺伝子組み換えの技術が様々な遺伝子疾患を直して、多くの苦しみを和らげる未来はそれ程遠くないことです。同時にアンチエイジング技術は人間の寿命を延ばし、老人の健康状態を飛躍的に向上する見通しが出てきました。

「メトセラ財団」という組織は「2030年までに90歳を現在の50歳にする」ことを目標にして活動をしています。社会の一部の人々にとって、その目標を実現する可能性があるでしょう。ところが、その財団の名称である「メトセラ財団」は969歳まで生きていた聖書の人物に由来します。その団体は聖書の人物の名前を取り入れているのですが、彼らは聖書の世界観を持っているわけではありません。彼らは「トランスヒュマニズム」という思想を促進しています。「ヒューマン2.0」という本はトランスヒュマニズムを次のように定義します:トランスヒュマニズムは科学技術を通して人間の状態を変えようとする知的、文化的運動です。その大胆な未来像は「脱人間」という飛躍的に改善された状態になるまで人間を進化させることです。この変質は改造人間の技術を通して、人類が生化学的制限を突破して能力を飛躍的に向上させる時に完成するのです。これらの改善は人間の寿命を延ばして、世界から痛みと苦しみを無くすことを目指しています。トランスヒュマニストたちは近い未来に人間が根本的に変身し、先端技術によるユートピアになると期待しています。その変身は人間の全て精神的、知能的、及び肉体的な面に及びます。

このビジョンに多くの人が引きつけられるのは当然なことでしょう。痛みと苦しみの終わりを願わない人はいないでしょう。トランスヒュマニストたちが描いているユートピアをもたらすと期待されている様々な技術は、私達の日常生活を改善する可能性が非常に大きいものです。しかし、注意して正しく利用しないと悪をもたらす可能性も大きいのです。こういうわけで、聖書的世界観に基づいている倫理観が不可欠になります。私達は今、社会を急速に変えようとしている技術に伴う難しい問題に直面しています。このメッセージの残りで、この問題について、聖書は私達に何を教えているかを見ていきたいと思います。まずは、今日の聖書の箇所をもう一度読みましょう。創世記3:1-5:

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

この出来事は具体的にどのように起きたか分かりません。というのは「善悪の知識の木」というシンボルは単なる果実だけという意味ではありません。また、よく言われている「リンゴ」ではなかったはずです。というのは、エデンの園は熱帯地域だったはずで、私達が知っているリンゴは育ちません。「蛇」というシンボルは誘惑者であるサタンを象徴し、アダムとエバが「神のようになる」という願望を利用して、サタンは彼らを騙したわけです。サタン自身が天使の領域で同じことをしようとしていたと書いてあります。詳しくは書いてありませんが、「光の天使」であったルシファーは天使の中で最高の地位にいましたが、まるでクーデターを起こそうとして、神の座を奪おうとしたという風に説明されています。天使の3分の1がその反逆に加わり、それがサタンと悪魔の起源だと書いてあります。とにかく、創世記物語のメインポイントは人間も同様に「神のように善悪を知るものとなること」を望んでいたということです。その木の実は「賢くなるために」望ましいものだと述べられており、その最初の人間は判断力に欠けて、感情だけに従ってしまいました。「知恵」がまだついておらず、その同じようなシナリオが人類の歴史に何回も繰り返されます。

例えば、その後の創世記の話には、バベルの塔というもう一つの反逆が起こります。人間が統一して「天まで届く塔」を作ろうとした時に、神がこう言われました、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」何千年も後の現在では、この同じことがトランスヒュマニズム運動に当てはまります。文字通りの「何を企てても、妨げることはできない」とまでは言えないかもしれませんが、トランスヒュマニストがしようとしていることはそれに近づいています。「ヒューマン2.0」は次のように説明しています:

トランスヒュマニストのビジョンは人間の状況を改善するために科学技術の進歩に頼っています。これによって、痛みと苦しみをなくして、ユートピア的な未来をもたらそうとします。究極的に、人間が不老不死というところまで改善しようとします。これは「テクノ信仰」という宗教的な思想になってしまいます。このいわゆる「新興宗教」においては、科学技術が私達の救い主となるのです。無神論的、唯物論的な世界観を持つ人にとっては、トランスヒュマニズムは終末論的な役割をはたします。こういう意味で、トランスヒュマニズムは福音の競争相手となります。私達の救いはキリストの十字架によるものだと思う代わりに、またキリストの再臨に私達の望みをかける代わりに、人は科学技術が人類の救い主で、唯一の望みだと考えるようになるのです。

ちょっと難しい言葉でしたが、その中の「終末論」という言葉は世の終わりに関することです。聖書では、神がお造りになったこの宇宙の目的が達成され、「新しい天と新しい地」が創造される時のことです。ですから、トランスヒュマニズムが「終末論的な役割を果たす」ということの意味は、このいわゆる「テクノ信仰」という「新興宗教」の中で、人間中心の「地上の楽園」という夢にとって、科学技術が唯一の救いと望みとなるのです。本物の替え玉です。

「ヒューマン2.0」からもう一つの箇所を引用します: 多くの人は自分がトランスヒュマニストだと断言しないかもしれませんが、トランスヒュマニスト的な思想を取り入れるだろうと私達は予測します。要するに、健康寿命を維持し、長寿を目指すために、医用生体工学に望みをかけることです。ますます世俗的になりつつあるこの世の中では、この「テクノ信仰」の一種を受け入れるでしょう。これは合理主義と科学技術に救いを求める別の「福音」です。トランスヒュマニストのビジョンは「進歩という神話」を信じ込んでいる世俗的な人にとっては魅力的に感じるでしょう。こういうわけで、トランスヒュマニストのビジョンはキリスト教の信仰の福音に力強い競争相手になるのは時間の問題です。

人類の歴史を振り返って見れば、同じようなことが何回も繰り返されていることが分かります。つまり、人は真実な神を中心にする代わりに、要求もしないより好ましい「神の替え玉」にすり替える人間の試みです。古代では、その「神の替え玉」となったのは偶像や人間が作った神々でしたが、近代になると、違う形の「偶像」となりました。しかし、どの形になったとしても、使徒パウロがローマ人への手紙1:21に書いた通りのことをしました。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」現代にアプデートしますと、「滅びることのない神の栄光」を文字通りの動物などの偶像に取り替えなくても、トランスヒュマニズムは人間の「進化の主導権」を取って、神抜きに自分の運命を支配しようとすることです。トランスヒュマニズムは急速に世俗的宗教になりつつあることで、対抗するキリスト教やその他の全ての思想を、彼らのヴィションと「彼らの福音」の実現に邪魔をしているとみなすのです。

このような挑戦を受けている私達クリスチャンはどうすればいいのでしょうか。科学技術そのものを非難すべきではありません。ある意味では、トランスヒュマニズムのアジェンダを進めようとしている人たちは、私達が科学に対し非難をして欲しいのです。というのは、そうすれば、私達をさらに無知な無用な者扱いにする便利な言い訳になるからです。科学技術そのものは問題ではありません。その乱用だけが問題です。人間は神にかたどって造られたので、私達に「ミニ創造者」となる能力をも与えられています。また、責任を持って自然界を上手に管理する使命も与えられているので、創意工夫し与えられた資源を全ての人間の益のために利用すべきです。しかし、その大前提は私達がする全てのことは神に感謝しながら、私達の創造主の主権の中で行うことです。神から独立してするのではありません。

こういうわけで、教会関係の若者をこのような先端技術に関連するキャリアに入ることを勧めることはいいことです。また、教会関係の学者や指導者がこれらの技術を正しく利用して乱用を防ぐ議論に積極的に参加することも大事です。「思想の市場」に聖書の世界観に基づいている倫理を促し、他の倫理システムに勝ることを証明すべきです。しかし、クリスチャンとして、第一に私達が絶えずイエス・キリストに目を向けて、全てが彼にかかっていることを認識すべきです。世の中がどんなに暗くなるとしても、最終的に私達が勝利するチームの一員だと覚えておきましょう。ある意味で、私達には自分の「トランスヒュマニズムのビジョン」があります。このビジョンは人間の創造性だけに頼るのではなく、創造主ご自身が保証しているものです。そういう意味では、キリスト教の信仰は「本物のトランスヒュマニズム」です。というのはイエス・キリストに自分の信仰と信頼を置く全ての人がやがて到来する新しい天と新しい地に現在の肉体を超える新しい霊的な身体を受けることになります。痛みと苦しみを経験しない不老不死の身体となり、「新しいエルサレム」と呼ばれているユートピアに暮らすことになります。

最後に、黙示録21:1-5に記録されているヨハネの言葉を読んで締めくくりたいと思います。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

世俗主義者のトランスヒュマニズムは結局偽物の福音で、空虚な望みです。そのようなトランスヒュマニズムにおいて、死はまだ最終的な威力を持ち、トランスヒュマニズムに対して勝利するのです。神を無視する人たちの手にはトランスヒュマニズムは儚い望みで、多くの試練をもたらす結果となります。しかし、聖書に約束されている本物のいわゆるトランスヒュマニズムは本当の福音でそれだけが人類の唯一の望みです。それは最後の賛美歌のテーマです。「イエスの血と正義にのみ望みをかける。」

Updated: 2019 年 06 月 30 日,01:44 午後

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