聖書から見たノアの大洪水


ノアの箱舟に対して多くの人が持つイメージは、子供の絵本に描かれているように、丸い底の船の窓からキリンや象などの動物園の動物が頭を出しているというものでしょう。この論文では、聖書に実際に記述されていることを手掛かりに、人々が箱舟や大洪水という歴史的出来事に関して抱いているこのようなイメージが、どれほど正確さに欠けているものであるかを検証してみます。地球科学という立場からも少し考えますが、創世記と他の聖書の箇所に実際に記されている大洪水の記述を忠実に辿ることによって正当に推論される光景を、中心的な論点にしました。

大洪水の規模と目的に関する理解は、天地創造と地球年令に関する見解と密接に関連しています。[1] もし創世記1章にある天地創造の記事を、6,000〜10,000年前に、神が六つの連続する24時間の日に地球を創造されたと解釈するなら、海底に蓄積したことによってできた何千メートルもの分厚い堆積岩を説明するのに、大洪水を地球規模のものであったと解釈せざるを得ません。

(6,000-10,000年前に誕生した)若い地球を信じるなら、大洪水を局地的なものであったとする見解とは大きな矛盾があります。しかし、その反対は必ずしもそうではありません。というのは、地球の古い誕生を受け入れながら、地球全体をおおう大洪水があったという見解を持つことは論理的には可能なのです。だたし、そのように考える人は少ないのが実情です。聖書(また、自然界の記録)が教えているのは古い地球であると解釈する殆どの人は、大洪水は局地的であったという見解を持っています。

以上の問題点に関する聖書の教えを詳細に検討するために、二つの大前提が必要です。第一は、宇宙を創造した神と聖書のメッセージを伝えた神とは同一であるということです。聖書は特定の文化的背景を持つ人間の手によって書かれたものではありますが、それはご自分のメッセージを伝えるために神が意図されたみことばなのです。第二の大前提は、聖書のみことばを啓示された神と自然界を創造した神は同じですから、双方の記録は内容的に互いに矛盾するはずがないということです。もし、矛盾があるように見えるなら、それは片方、もしくは両方に対する私たちの見解を修正する必要があることを意味します。

この二つの記録に関しての解釈が合致していないようにみえる場合、どこに間違いがあるのかを見分けるという厄介な問題があります。神学的に保守的な人たちは自分の伝統的な聖書理解を優先する傾向が強く、科学的証拠との外見上の矛盾を「過ちを犯しがちな進化論的科学者の言葉と誤りのない神のみことばの対立」として片付けようとします。他方では、神学的にリベラルな人たちは一般的に自然界の記録に対する科学者の見解を無批判に受け入れるので、この二つの記録を合致させようとして、聖書を解釈し直すことが多いのです。証拠をありのままに受け入れて、本当に真理を求めるという立場から、これらのアプローチは両方とも条件反射的な反応であるために適切ではないのです。

先ず必要とされることは、個々の証拠を注意深く評価して、両方の領域における欠陥のある解釈を摘出することです。それから、すべての証拠を説明できる最善の仮説を立てることです。神のみことばと自然の記録は両方ともに絶対的に信頼できるものですが、それらの解釈は絶対的なものではありません。ですから、これらの記録は双方とも当然受けるべき尊敬と謙遜をもって取り扱われるべきです。この論文は主に聖書の資料を取り扱うものですから、そのような側面に焦点を合わせます。ノアの大洪水に関する聖書の教えを正しく解釈するためには、聖書のそれぞれの箇所における原語や文化的背景をも考慮しなければなりません。そして、ノアの大洪水の主要な記事が載っている創世記6〜9章の理解を助ける他の聖書の箇所をも考慮する必要があります。

大洪水の範囲

日本語聖書の創世記の大洪水記事を単純に読むと、それは全地球に及んだ洪水だったという印象を受けます。しかし、そういう理解が正当かどうかを確かめるために、原語であるヘブライ語の単語のニュアンスを考慮した上で、創世記や聖書の他の箇所に見られる、大洪水の規模を示す手掛かりを検討する必要があります。例えば、聖書の原文を読んだ古代ヘブライ人は、彼らに知られていた中で最も高い山であるヘルモン山(2813メートル)が洪水に覆われたと理解したのでしょうか。もちろん、古代ヘブライ人に直接尋ねるわけにはいきません。これに関してできることは、原文でのすべての語句のニュアンスを考慮しながら、実際に聖書に述べられている出来事の全体的な光景を組み立てて、神が人間の著者を通して御自分のメッセージをどう理解してほしかったかを推理することだけです。

ここで、わずかでも歴史的視点を持つ必要があります。地球全体を覆った大洪水という構想自体はかなり最近のことです。それ以前には、そのようなグローバルな観点はなかったからです。聖書時代の人間は彼ら自身の「世界」しか知らなかったので、ノアの大洪水が彼らの遠い先祖の世界を滅ぼしたと理解したことでしょう。ですから、その大洪水が「地球全体」を覆ったかどうかは、彼らにとって争点ではありませんでした。世界中のいろいろな民族には、彼らの遠い祖先が世界を壊滅させた大洪水を生き延びたという何百もの洪水伝説が存在します。それらの伝説の多くはかなり神話的な内容ではありますが、創世記の洪水記事との著しい類似点があります。この事実は、これらの民族のすべてが大洪水を生き残ったノアの家族を共通の先祖に持つ子孫であるという聖書の主張の信憑性を支持しています。しかし、その洪水の規模を明白にするわけではありません。

この問題点を解決するために、大洪水記事に使用されている各語句を注意深く見極める必要があります。一見して、創世記7:19はその規模を明白にしているように思えます。「水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山はすべて覆われた。」しかし、次の節では、山々の頂きは「15アンマ」(7〜8メートル)の水の下にあったと述べられています。この記述を、すべての山の頂が7メートルの水を冠っていたと理解するなら、おかしくなります。というのは、そう理解するなら、当時の「天の下にあるすべての山」はほぼ同じ高さであったことになるからです。いろいろな高さの山が水面の下に沈んでいるなら、それぞれが冠っている水の深さは異なります。原語のヘブライ語では、その深さが「十五アンマ以上」と理解できるので、それは最低の深さだったと解釈できるのです。このように理解するなら、低い山は深さ何百、あるいは何千メートルかの水に覆われたという意味になります。水面に浮かんでいた箱舟の喫水は15アンマぐらいの深さだったはずですので、ある学者が地球規模の大洪水の見解から、その記述は箱舟がどこにも座礁しないほどの水の深さだったという解釈をします。全地球規模の大洪水の立場から言えば、これは妥当な解釈でしょう。しかし、他のすべての関連する聖句とも矛盾しない一貫した解釈をすることが私たちの目標ですから、原語のヘブライ語の文脈に許容される、他の解釈が可能なのかを考慮する必要があります。

この「十五アンマ以上」の水に「覆われていた」という語句の他の解釈には後で触れることにして、先ず大洪水記事の中にその規模をほのめかす他の手掛かりを探してみましょう。第一の論点は、「全地」や「全世界」などと翻訳されたヘブライ語の意味です。「コル・エレツ」(kol erets)というヘブライ語の語句は、旧約聖書には205回も使われていますが、それらのうち40の事例だけが全地球を意味する可能性があります。他の165の事例では、明らかに限定的な地域を指しています。場合によって、「コル・エレツ」は具体的な地名に付帯して使用されています。そういう例は創世記2:11に見られます。「第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域(コル・エレツ)を巡っていた。」

「コル・エレツ」は地名に付帯しない場合でも、多くの場合地球全体を意味するわけではありません。例えば、創世記41:56-57には、「飢饉は世界各地(コル・エレツ)に及んだ。…また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地(コル・エレツ)の飢饉も激しくなったからである。」前後関係から考えれば、これはエジプト近辺の国々に限られているのは明らかです。この文章を読んで、縄文時代の日本人やアメリカのインディアンたちが穀物を買うためにエジプトまでやって来たと想像する人はいないでしょう。しかも、この語句は、大洪水の記述に見られるものとまったく同じ表現なのです。

同じように他にも「コル・エレツ」という語句が限られた地域を意味している多数の例があります。それでも、この同じ語句が地球全体を指している場合もあります。例えば、創世記1:26に神が人間を創造した時、「全地」を支配させると言ったことは全地球を意味すると解釈してもよいでしょう。とにかく、大洪水の記事に現れる「コル・エレツ」という表現がその規模を明白にしないというのが、実情です。ヘブライ語においては、この語句は洪水の規模が全地球的なものであっても、局地的なものであっても使用される表現です。

同じように、「天(シャマイーム)[shamayim]の下にある高い山はすべて(コル)[kol] 」という表現も、いろいろな用法が考慮されるべきです。日本語訳では「すべて」と「天」は離れていますが、原語のヘブライ語では、隣接して出てきます(英語では、”entire heavens”です)。「コル・エレツ」と同じように、「コル・シャマイーム」は地球全体を意味する「天の下」の場合もあれば、ある地域に限定される場合もあります。例えば、この同じ表現が申命記2:25に使われています。「今日わたしは天下(コル・シャマイーム)の諸国民があなたに脅威と恐れを抱くようにする。彼らはあなたのうわさを聞いて、震えおののくであろう。」この場合、「天下」は明らかに地球全体という意味ではなく、イスラエルの民が「約束された地」を征服することによって追い出される諸国民が住んでいた限定的な地域を意味しています。こういうわけで、この二つの語句の用法を考察するだけでは、大洪水の規模を決めることはできないのです。それを決めるためには、他の証拠を探す必要があります。

創世記のテキストに含まれる、大洪水の範囲を決める手掛かり

創世記の大洪水記事の中には、その規模の手掛かりを示す箇所があります。第一に、箱舟が「アララトの山」に座礁してから、ノアが放した鳩を考えてみましょう。8:8によると、鳩を放した目的はその近くに乾いた地が現れたかどうかを確かめることでした。5節によると、少し離れた山の頂きが既に水面から顔を出していました。しかし、9節によると、その「鳩は止まる所が見つからなかったので」戻ってきました。その理由として、「水がまだ全地の面を覆っていたからである。」この場合「コル・エレツ」は明らかに全地球を意味しません。なぜなら、乾いた地が既に現れていたからです。しかし、ノアが見たその乾いた地は鳩が飛べる範囲内ではなかったので、鳩の立場からは水がまだ「全地」(コル・エレツ)を覆っていました。その後の11節と12節によると、更に一週間を待ってから、ノアは再びその鳩を放したところ、その同じ日の内に、新鮮なオリーブの葉をくちばしに加えて戻ってきました。

このことが意味することは、箱舟が座礁した場所にかなり近いところに洪水を生き残ったオリーブの木があり、それが新鮮な葉を出していたということです。このようなことは、地球の最も高い山をさえ覆う洪水には可能なことでしょうか。現在では、オリーブの木の生息地は標高の低い地域に限られていますが、おそらくノアの時代にも同じことでした。ですから、地球規模の大洪水説が説明しなければならないのは、数ヶ月もの間オリーブの木が数千メートルの深さで塩水に覆われた上に、厚い堆積層に埋もれていたにもかかわらず、生き残ったことです。大洪水以前の世界では、オリーブの木がその近辺の最も高い山であるアララト山の頂上で生息していたと仮定しても、神が奇跡的な介入をされて、その木を特別に守ったか、あるいは堆積層の泥の上部にオリーブの種を埋まらせ、発芽して生育させた結果、鳩が摘み取るほどに大きな葉を付けるまで長くてたった三ヶ月以内であったとしなければならないのです。

実際、地球規模の大洪水説には、他にも数多くの局面において聖書本文には言及されていない神の超自然的介入(奇跡)が不可欠なのです。だからと言って、神が大洪水の目的を果たすために自然界のプロセスを迂回することがおできにならなかったとか、そうされなかったという意味ではありません。しかし、実際に原文に言及されている奇跡的介入はすべて、自然的プロセスを利用したものなのです。この神の直接的な介入がなければ、このような現象は決して起らなかったことでしょう。例えば、自然で観察される気圧配置は、メソポタミアのようなところでは40日間も継続する集中豪雨を降らせることは決してありません。[2]

聖書本文では、神が一旦造られた自然法則を破ったという示唆は、どこにも見当たりません。例えば、気圧配置の場合、雨を降らした雲をメソポタミア上空に停滞させて、40日間も連続的に湿った空気を次々に流れ込ませるような神の介入が必要です。しかし、神が上空に造られ、その時点まで奇跡的に上空に保たれていた「水蒸気の天蓋」から、洪水の雨が来たという超自然的現象を裏付ける証拠は自然界にも聖書にも見られません。聖書本文にはそのようなシナリオを裏付けるものがないばかりか、宇宙が創造された時に神が設立された自然法則を侵害することにもなります。

聖書本文に述べられているところでは、洪水の水源は「大いなる深淵の源」であって、そこに蓄えられていた水が破られて地表に吐き出されたのです。ヘブライ語の「ラブ・テホム」[rab tehowm]はここでは「深淵」と訳されていますが、「深海」から「豊富な地下水」までの広い意味があります。それでは、この聖書の言葉の本来の意味を、どうすれば正しく理解できるでしょうか。聖書を正しく「釈義」する上での基本的な原則は、聖書本文そのものが語っていることを読み取ることであって、本文に自らの先入観を読み込んで予め考えていた結論に導くことではないのです。

地球規模の大洪水説に一貫性を持たせるためには、メソポタミア平野の「豊富な地下水」を遥かに超える水源を考える必要があります。こういうわけで、海そのものや海底の下にあったとする膨大な水源を仮定する数多くの仮説があります。その仮定の一つによると、地球が創造された時に、神は海底の下に巨大な洞窟を造られました。これらの海底下の洞窟は構造的に不安定で、天井にひび割れが起こり始めるとすぐに全体が崩落し、落下した岩石の重みで、海底下の地下水が噴水のように吹き出て、地球全体に注ぎ出たとします。[3]

しかし、このようなシナリオの着想には、地球がほぼ瞬間的に創造され、始めから織り込み済みの大洪水のために、上空の「水蒸気の天蓋」と巨大な「地下洞窟」が用意されていたことを想定しなければなりません。それら両方は神がデザインした自然法則に違反したままで、大洪水の時まで保たれたことになります。神がこのようなことをされたのでしょうか。もちろん、全能の神にはできたはずですが、実際にそのようなことをされたのでしょうか。聖書にはそのような空想的なシナリオを示唆するものは何もありません。それだけでなく、自然界の記録とも調和しないのです。このようなシナリオが考え出された唯一の理由は、地球全体を覆う水がどこから来たか、また洪水後それがどこへ行ったかを説明するためです。[4]

洪水が退いて、どこに流れ去ったのでしょうか。地球規模の洪水説を支持する人たちは普通、洪水の水が流れ込んだとされる場所を創出するために、急激な山脈隆起と海底の沈下という地形の激変を想定します。しかし、創世記8:1には、その水がどこに消えて行ったかをほのめかす強力な手がかりがあります。それによると、神は「地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」のです。地球規模の洪水説の立場からは、これは道理にかないません。なぜなら、地球全体を覆っていた海の上にある大気はどこへ行っても湿度が高く、蒸発は殆ど起るはずがないからです。その上、どこにも水があったので、風が水をどこかに押し流すはずがないのです。従って、地球規模の洪水説では、神が送ったこの風は何も成し遂げないことになります。しかし、局地的な洪水説の場合、乾いた強風は蒸発を大いに加速するだけではなく、ちょうどよい方向から吹くなら、その水を海の方へ押し出すことにもなります。

幅300〜400km、長さ1000kmほどの極めて平らな平野であるメソポタミア平野の地形は、この解釈とよく調和します。また、ペルシャ湾は浅く、平均水深はたったの25mです。また、幅70kmの狭いホルムズ海峡では、最も深いところでも100mしかありません。ですから、氷河時代の場合、海水面の低下によって、それは殆どメソポタミア平野と陸地続きとなります。このような地形では、水深200m程度の洪水でもあまりにも広い地域を覆うことになるので、その中心の近くを漂っている船からは、どんなに晴れ上がった日でも、陸地を見ようとしても全く海しか見えません。ノアの立場から、「およそ天の下にある高い山はすべて覆われた」ことになったはずです。

ここでは、「高い山」と訳された原語のヘブライ語に注目しましょう。「ハル」[har]というヘブライ語の単語は、ちょっとした丘から高い山までの幅広い意味を持つ単語です。実際、長く愛用されてきた英語聖書であるキング・ジェームズ訳では、「高い丘」(“high hills”)と訳されています。こういうわけで、原語のヘブライ語の「ハル」は、エバレスト山のような高い山に限定されないのです。ちょっとした低い丘にも当てはまります。

それでは、創世記7:19-20にある「高い山(丘)」が「十五アンマ以上」の水に「覆われていた」という記述に戻りましょう。局地的洪水モデルによって、この記述を説明する必要があります。まず「覆われていた」という表現は、どういう意味で使われているのでしょうか。「カサー」(kacah)というヘブライ語の単語は通常「覆う」と訳され、何かを隠して見えないように覆うというニュアンスがあります。例えば、洪水後、ノアが葡萄酒を飲み過ぎて酔った時、裸となっていた彼に着物をかけて(カサー)その裸を隠しました。創世記7:19-20には、「高いハル」が何によって覆われたかは特に述べられていませんが、「水によって」覆われたと考えるのが自然です。

これらの節において、原語であるヘブライ語の意味には二つの可能性があります。”Theological Wordbook of the Old Testament”(旧約聖書の神学辞典)では、その一つが指摘されています。それに従えば、「創世記7:19-20によると、丘は『覆われていた』。何によって覆われていたかはヘブライ語では書いてありません。NIV訳には、ヘブライ語にはない『水によって』が付け加えられていますが、ヘブライ語の表現では、嵐によって、山が隠されていて見えなかったという意味である可能性もあります。」[5] 直訳に近いキング・ジェ-ムズ訳では、この点がもっとはっきりしています。それを翻訳しますと、「地上に水が極端に優勢となり、天下の全ての高い丘が覆われた。十五キュビット(アンマ)以上水が優勢となり、山は覆われて(隠されて)いた。」

深さが特定されているので、その地域の最も高いところでも、箱舟が座礁しないほどの深さがあったと理解できるでしょう。箱舟の高さは三十アンマでしたので、ノアは海面より箱舟がどのぐらい出ているかを測って、水の最低の深さを簡単に計算できたはずです。この解釈が正しいなら、箱舟の喫水は十五アンマ(高さの半分)となり、これは妥当な数値です。

もう一つの可能性とは、山を「覆い冠っていた」水の深さが雨量の参考になることです。もし水が雪として降ってきたのなら、十五アンマ(7メートル以上)の降雨量は文字通りの「覆い」となります。しかし、少なくともその近辺の最も高い山以外の広い地域では、雨として降ってきたでしょうから、すぐ低いところへと流れて行ったはずです。このような場合、ノアは降雨量をどのようにして知ったのでしょうか。

原文では言及されていないのですが、ノアは山を「覆っていた」水を直接に測ったのではなかったと推定できます。そのような情報を知る方法としては、神がそれをノアに、(あるいは、文書にしたモーセに)伝えるしかなかったことでしょう。この7メートルあまりの深さに「覆っていた」水という記述と大洪水に関するほかの記述とが調和するように理解するなら、その地域の「高い丘」の上を「覆っていた」この「十五アンマ以上」の水は、40日間に降り続いた雨の総量であるというのが、最も合理的な解釈だと思われます。それは一日平均200ミリほどの雨量となります。日本でも、そのような大雨の日はそれほど珍しくないことですが、それが40日間連続することはかつて起きたことのないことでしょう。

これら二つのシナリオのどちらをも説明できるのは巨大な嵐だけで、神が設定した自然法則の範囲内で十分考えられることです。ただし、神が気圧配置をコントロールするために介入されたことが前提となります。自然のままでは、それが起こることはないはずです。このようなシナリオが可能であるのは、メソポタミア平野の西側に停滞している極めて強い低気圧に向かって南東から湿った空気が継続的に送り込まれる場合です。ペルジア湾に沿った強風によって引き起こされた巨大な高潮は、内陸まで流れ込むでしょう。分水界全体に降り続ける大雨と高い山の雪解けによる大量の水を合わせると、その広い平野全体が100メートル〜200メートルの深さに水没すると考えられます。平地の傾斜はあまりにもなだらかであるので、高潮を起こしていた強風が収まっても、水が海に流れ去るスピードは遅く、山から流れてくる洪水がしばらく続いたはずですから、嵐が収まっても、箱舟が数ヶ月も漂っていたことは十分考えられることです。

箱舟の座礁した場所

新共同訳の聖書では箱舟が「アララト山」に座礁したと書いてあることから、多くの人はその5000メートルほどの山頂付近に漂着したと考えています。(新改訳では、「アララテの山」となっています。)しかし、創世記の原文に実際に書かれているのは、「アララトの山々」という複数のかたちで、それは「アララト地方の山」のどこかという意味です。それはかなり広い地域で、メソポタミア平野の北端にある山麓から始まり300キロメートル北の最高峰のアララト山まで続きます。地質学的研究によると、アララト山は火山で、以前から存在していた堆積層の下から溶岩が割れ目に沿って貫入し、その堆積層の上に形作られた山です。しかし、地球規模の大洪水説によると、それらの堆積層は大洪水によってできたはずです。すなわち、この説に従えば、大洪水によってできた堆積層の後に形成された山の上に箱舟が漂着したという実際にはありえないことが起こったことになるのです。しかし、原文では、広い地域を意味するので、これだけでは、地球規模の大洪水説を排除できるわけではありません。では、他の手がかりがあるのでしょうか。

まず取り上げたいことは、地球規模の洪水説によると、地球の堆積層の殆どはノアの洪水の時かその直後に堆積されたと推定していることです。従って、堆積層に蓄積されている石油と石炭は、大洪水の直前に生存していた生物からできたと考えています。しかし、創世記の原文では、大洪水以前に石油が存在していたことがほのめかされています。ノアが神の指示に従って箱舟を作っていた時,防水のためにタールを全体に塗りました。ここでは、「タール」と翻訳されているヘブライ語の単語は「コフェル」(kopher)で、聖書では、このようにこの単語が使われているのはこの箇所だけです。ですから、「コフェル」とは、いったい何でしょうか。それが「アスファルト」であることで、聖書学者たちの意見は一致しています。「アスファルト」は、地上に染み出た石油の軽い成分が蒸発して残ったものです。しかし、地球規模の大洪水説によると、その石油は、大洪水によってできた堆積層の中でできたはずで、大洪水後に十分な時間が経ってから初めて利用できるようになったことになります。

「新改訳聖書」において、この「コフェル」という単語が「木のやに」と翻訳されたことは注目すべき点です。これはニュアンスがかなり違います。地球規模の洪水モデルでは、洪水以前の世界で、箱舟の外側と内側の両方を塗るのに必要な大量の樹脂を作ることは不可能ではないことですが、かなり大変な作業だった筈です。しかし、石油が豊富なメソポタミア近辺では、アスファルトは簡単に手に入るもので、大洪水以前にノアの手の届くところにあったとすれば、それを防水のために利用することは遥かに道理にかなうことだったでしょう。

紀元前3世紀にできた「七十人訳聖書」と呼ばれているギリシア語訳の旧約聖書では、「コフェル」を英語の語源となった「アスファルトス」というギリシア語の単語が使用されました。その上、私が調べた全ての英訳聖書では、「アスファルト」やそれと同様な意味のことばが使われ、このことは日本語の口語訳(アスファルト)と新共同訳(タール)でもそうです。従って、「コフェル」が「樹脂」という意味であったことはありえないことではないけれども、その可能性は極めて低いと思います。しかし、地球規模の大洪水のモデルに固執するなら、ノアが箱舟を建設していた時にアスファルトがまだ存在していなかったと推測されるので、「樹脂」として解釈するほかありません。[6]

もう一つの点は、当時の大半の人間が住んでいたと考えられているメソポタミアの肥沃な平地で箱舟が作られたと推定すると、アララトの山々は箱舟が作られた場所より北西方向にかなり離れたところにあることです。従って、海へとゆっくり流れていく水の向きとは反対の方向に漂うことになります。40日間の嵐が目的を果たすために、気圧配置を直接的にコントロールされたのと同じように、神がその後の数ヶ月間、南東の風を送り続けられたなら、それは海に流れ去る水の流れを妨げただけではなく、水面に出ている箱舟を「アララトの山々」に座礁するまで、北西方向に漂わせることにもなります。箱舟の漂流が比較的に近いところに限定されたこと自体が、地球規模の大洪水説を否定します。というのは、地球全体の大洪水に伴う強い潮と風は、箱舟を遠くまで運ぶ可能性が大きいはずだからです。ゆっくりした漂流でも、数ヶ月続いたら何千キロにも及びます。しかし、流れに逆らって南東の風が箱舟を漂わせたら、座礁した場所も座礁までの長い時間も容易に説明できます。

もう一つ考慮すべき点は、「地」が「すっかり乾く」までの時間です(8:14)。[7] 乾燥するのに随分時間がかかったように思われますが、他の観点から考えれば,驚くほどの速さで乾燥したことが分かります。原文によると、座礁してから、周りの「ハル」(丘/山)の頂上が現れるのに2ヶ月もかかりました。箱舟は5節に言及されている「ハル」より高い位置にあったはずです。この事実は局地的洪水説で説明できるでしょうか。明らかに、その記述は、箱舟がその地域の最も高い場所に座礁した後に、もっと低い周りの山の頂きが現れるまでに2ヶ月もかかったように見えます。

これと関連のある問題があります。それは、「アララトの山々」が始まる,現在のイラク北部とトルコ南部の低い山々の地理的条件のことです。もしアララト地方の境が一般的に考えられている通りであれば、この辺りには、箱舟が座礁し、そこから北の方に更に高い山が視界にないような孤立した低い山はないようです。局地的洪水説は、この点において聖書の記述と調和するのでしょうか。北の水平線に高い山の頂きが見えたと原文に書いてあるなら、問題はないのです。しかし、それに触れていないということは、ノアが50〜100キロメートル離れたところに山を見なかったということを必ずしも意味するものではありません。そのように遠く離れた山は彼らにとっては無意味だったので、言及していないという可能性があります。5節にある「ハル」の頂上は数キロメートルしか離れていない小山の頂上だったかも知れません。この理解を裏付ける手掛かりが7節にあるかも知れません。それによると、放された烏は「地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。」英語の聖書では、その烏は「あちらこちら飛び回った」と訳されており、原文のヘブライ語の表現は、両方の訳が可能です。9節の鳩のように、飛べる範囲内に箱舟以外止まる場所がなかったとは限りません。そのように書いていないことは、烏が飛べる範囲内に地上が現れていて、一時的に止まることができたという可能性があったことを意味します。(原文でははっきりしないことですが)箱舟に帰って来たのは、餌をもらうためだけだったという可能性があります。

もう一つの可能性は、この「アララトの山々」が現在のイラク北部の小さな山々の多い地域を含んでいたことです。それなら、一般的に認められていたアララト地方よりもう少し広い地域で、北の方にあるもっと高い山を視認できないほど遠く離れている小山がその南側にあります。例えば、モーセル市(古代のニネバ)の南に周りの平地より200メートルほど高い小山があります。ここが古代の「アララトの山々」に含まれていたなら、聖書の記述と合致する場所となります。もし、箱舟がこのような孤立した小山の上に座礁したのなら、遠く離れているもっと高い山が見えず、洪水がさらに引くと、数キロメートル離れたもっと低い丘が徐々に現れることになります。このシナリオは創世記の記述に合致はしますが、この地域がアララト地方の一部であった証拠は何もないので、推測に過ぎないことを認めざるを得ません。

どういう説明にせよ、座礁した場所の周りの「ハル」の頂上が水面から顔を出すのに2ヶ月もかかったということに答えなければなりません。推測しかできませんが、考慮すべき点の一つは、海まで非常に遠いこととその海に広がる海門は狭いホルムズ海峡だけであるということです。その上、地面の傾斜は極めて小さく、重力だけでは、水の流れは遅かったはずです。これらの事実を考えると、局地的洪水説でも、神の介入なしでは、こんなに早く水が引くことの説明はできません。そのことが、神が風を送られた理由です(8:1)。それは大量の水を蒸発させるだけではなく、北西からの風なら、その水を効率よく海の方へと押し出して、小さい傾斜による遅い流れを速めることになりました。その風がなかったなら、水がなくなるまでもっと時間がかかったはずです。

洪水の目的

洪水を送った神の目的も考慮すべきです。その直接的な理由は、ノアの時代にはびこっていた罪悪を裁くためでした。原文によると、ノアと彼の家族以外に正しい人はもういませんでした。ノアの周りにあった堕落した暴力的な社会を考えると、神の守りがなかったなら、長い年月をかけて箱舟を作っていた間に、彼らも殺される可能性が高かったはずです。実は、ノアが長寿であったことや当時の夫婦が多くの子供を設けたことを考えると、ノア夫婦に子供が三人しかいなかったとは考えにくいことです。このことに関して直接的に知ることはできませんが、ノアにはもっと多くの子供がいたが、彼らは殺されたか、もしくは神に逆らっていた他の人たちの仲間に加わったかもしれません。それがどうであったにせよ、洪水によって人類を裁いた目的が、人間が完全に自滅しないように救うためだったことは、明白なことです。そして、この主要な目的の他に、神はそれ以降の全ての人間に、罪悪が社会全体にまん延することの深刻さとその状態から救出してくださる神の方法の具体的な例証として、この出来事を利用されました。

聖書から読み取れる一般原理の一つは、神が罪を裁かれる場合、罪を犯した人間とその人間と密接に関わっていた動物に限定されることです。例えば、ソドムとゴモラが滅ぼされた時や、イスラエル、あるいはイスラエルに対抗していた周りの国々などに対する裁きは、そのような限定的なものでした。確かに、大洪水の裁きは違ったタイプのものだったと論じることができるでしょう。なぜなら、大洪水は全人類的な裁きで、エデンの園における最初の裁きと世の終わりの「裁きの日」という世界的な裁きを除いて、聖書に見られる他の全ての部分的な裁きとは異なっているからです。実は、地球規模の洪水説は、これらの裁きが全く違うタイプの裁きとして見なされることを必要とします。なぜなら、人間と全く関係を持たない動物までその裁きを受けることになるからです。箱舟に乗せられた代表以外の陸上動物全てが地球規模の大洪水によって滅ぼされるので、このシナリオは必然的に多くの問題点を抱えてしまいます。例えば、遠く離れた特殊な環境に生息する動物の代表はどうやって箱舟まで辿り着いたのか、あるいは、そんなに多くの動物がどうやって箱舟に入ったのか、あるいは、8人だけの人間がどうやってそんなに長い間そんなに多くの動物の世話ができたのか、さらに、メソポタミアから遠く離れた特殊な環境にどうやって戻れたかなど、いろいろな問題があります。[8]

確かに、神の奇跡的介入を持ち出すことはいつでもできます。しかし、神は箱舟の寸法をノアに伝えたのですから、その寸法を考慮に入れて何が可能であったのかを綿密に調べることができます。空気呼吸する全地球の陸上動物の一つがいとそれらが食べる餌を収容できるほどの大きさが箱舟になければ、洪水が全地球的規模ではなかったもう一つの証拠となります。

原文では、箱舟に入った動物は、「清い」動物と「清くない」動物の二つの範疇に分けられます。この区別は、後のユダヤ教の儀式において、食用やいけにえの供え物として使用してよいかどうかを意味しました。7:2-3によると、ノアは神の命令に従い、7つがいずつの清い動物と鳥、そして1つがいずつの清くない動物を箱舟に入れました。これは動物を絶滅から守るという目的だけではなかったことを意味します。というのは、洪水後神にいけにえを捧げるための儀式上の清い動物を用意するだけではなく、ノアと家族が早く生計を立て直すために必要な家畜を備えるためでした。もし、そういう準備をしなかった場合、清い動物が被害のなかった地域から被災地に自然に広がるのに何十年もかかっただろうし、さらに初めから飼い馴らす必要も出てきます。

大洪水で滅ぼされたり、箱舟を通して救われたりした動物や人間を描写するのに使用されているヘブライ語の単語は次の通りです:ヤクーム(yequwm)、チャイ(chay)、ベヘマー(behemah)、レメス(remes)、オーフ(owph)、バサル(basar)。ヤクームとチャイは一般に「いのち」を意味し、何かを特定する場合には使用されません。ヤクーム(7:4, 23)は「生き物」と訳され、おそらく植物をも含まれていたでしょう。なぜなら、それらも滅ぼされたからです。水生生物はどうだったかというと(これらの多くも滅ぼされたはずですが)、「地の面から」という表現が使われているので、おそらく滅ぼされるものにこれらは含まれていませんでした。[9]

「チャイ」という単語は、7:14, 21; 8:1, 19; 9:2, 5では「獣」と訳されていますが、場合によって、一般的に「生命」か「生涯」(life)を意味します(例:7:11の「ノアの生涯」)。実は、この同じ単語が、6:19では「命あるもの」、8:17では「動物」、8:21では「生き物」と訳されています。また、洪水の後において、9:10, 12, 15, 16では、「チャイ」は「ネフェシュ」(nephesh)という単語と一緒に使われて「生き物」と訳されています。しかし、これらの用語がどの程度、意図的に区別されているかは不明です。「ネフェシュ」は単独で使われると、多くの場合、人間の「魂」を意味しますが、ここでは「チャイ」と一緒になって、「魂のある動物」、つまり知性や意志や感情のある動物を意味します。創世記1章と2章では、鳥や哺乳類の創造を記述する時に使われている表現です。9:4では、「チャイ」と「バサル」が一緒に用いられていて、神がノアに食べることを禁止された、動物の「血」を意味します。

「ベヘマー」や「レメス」や「オーフ」はもっと対象を特定する用語で、その意味が容易に理解されます。「ベヘマー」は「家畜」で、「オーフ」は「鳥」です。「レメス」にはかなり幅広い意味があり、地上を素早く動く、足の短い動物のことで、ウサギやネズミのような動物を指しています。また、場合によって、ヤモリのような爬虫類も含まれます。しかし、神が箱舟の外にいた全ての人間と彼らの動物を滅ぼした局地的大洪水においては、爬虫類は、人間の生計と関係がなかったので(とすれば)、含まれていなかったのでしょう。 おそらく、ヘブライ語に関する問題点として最も解明が必要とされることは、この文脈での「バサル」の意味です。「バサル」は幅広い意味を含む単語で、多くの場合「肉」と訳されています。例えば、アダムがエバを「わたしの肉の肉」と表現した時、この単語が使われています。こういうわけで、多くの場合、これは一般的に動物を意味するのではなく、人間を特定することばです。

創世記6:12の「すべて肉なる者(バサル)はこの地で堕落の道を歩んでいた」という文章では、「バサル」は明らかに人間を意味しています。神に逆らって罪を犯せる「肉」は人間だけです。次の13節でも、「バサル」は明白に人間を指しています。というのは、「地に満ちている」「不法」(暴力)を「肉なるもの」(バサル)のせいにしているからです。しかし、その後の何カ所かでは、この同じ「バサル」は箱舟に入れられた動物を意味しています。これらの「バサル」は「命の息」(ルワック・チャイ)(ruwach chay) を持つものとして描かれているので(6:17, 7:15)、これらの動物たちとは、高等動物(鳥と哺乳類)を指していると思われます。7:22では、この「命の息」を表すのに、(ネシャマ・ルワック・チャイ)(neshamah ruwach chay)という表現が使われています。これは2:7に神がアダムに「命の息」(ネシャマ・チャイ)を吹き入れて、「生きる者」(ネフェシュ・チャイ)とならせたという表現と似ています。「ルワック」と「ネシャマ」の両方は、前後関係によって、「霊」と「息」を意味し[10] (場合によって「ルワック」は「風」を意味することもある)、これは箱舟に入っていた動物は人間と関わりを持てる高等動物で、人間が生計を立てるために必要な動物だったという解釈を裏付けます。

地球規模の大洪水説に伴う神の目的に関するもう一つの問題点は、人間の罪が全く影響を及ぼしていない地域を破壊する目的は何であったかということです。もし、神の目的が人間の罪悪を裁くことだったら、その罪悪が及んでいなかった地域(地球の大部分)まで破壊することには何の意味もないはずです。[11]

最後に

創世記の大洪水に関するこの論文の締めくくりとして、局地的で、しかも、(人間に関しては)普遍的な大洪水説を裏付ける、他の二つの聖書箇所を簡単に紹介したいと思います。詩編104篇は創世記1章と類似している詩ですが、明らかに創世記1章の6つの「創造の日」の内に起きた出来事に言及しています。神が地球を創造し、「水は山々の上にとどまる」ように「深淵は衣となって地を覆う」と記述してから、その水「のために設けられたところに」流れて行くようにさせたと書いてあります。そして、9節に、神は「境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」と書いてあります。(箴言8:29に同じことが書いてあります。)

地球規模の大洪水説では、この箇所がノアの大洪水に関する言及である必要があります。しかし、大洪水を言及している他の全ての箇所と違って、この詩は神の裁きに一切触れていません。更に、その文脈は明らかに天地創造なのです。大洪水の際、神は「天を幕のように張り」、「地をその基の上に据えられた」ことはありませんでした。この聖句に、神が(第三の創造の日に)大地を隆起させてから、水が地球全体を覆うことがないようにさせたと書かれているのは、明らかなことです。従って、大洪水は全地球に及ばなかったはずです。この文脈の中では、「地」(エレツ)は明らかに全地球を意味します。

もう一つ考慮すべき聖書の箇所はペテロの第二の手紙で、そこには大洪水が二回も言及されています。2:5では、ペテロはこう言います:「神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界を洪水に引き渡し、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。」その「不信心な者たちの世界」は彼らの住んでいた世界の意味ですから、それが限定的な地域であるなら、その地域だけの洪水が示唆されます。また、ノアは「義を説く」人として描かれているので、神が箱舟を作らせたもう一つの目的を暗示します。それはノアの「説教壇」となって、箱舟を建設している間に、彼らが悔い改めなければどうなるかという神からのメッセージをそこから宣べ伝えることができました。そのメッセージを信じて、悔い改めた人がいたとすれば、その人も箱舟に入ることが許されたはずです。

もう一カ所の3:5-6では、ペテロは地球が「水によってできた」ものだと言い、6節に「当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」と書きました。この「当時の世界」という表現も、ノアの時代の人間世界を破壊した局地的で普遍的な大洪水の見解を裏付けます。それはメソポタミア近辺に限っていた地域だけだったようです。

聖書が若い地球の創造論と地球規模の大洪水説を教えていると主張することは、場合によっては、イエス・キリストを信じて自分の主であり救い主として受け入れる可能性のある人にとって大きな躓きとなり兼ねません。全地球規模の洪水説でも局地説でも、聖書本文のあらゆる点を完全に説明するのが困難であることは事実です。しかし、これまで述べてきたように、創世記や聖書の他のどの箇所でも、地球規模の洪水説と調和しない、数え切れないほど多くの記述あるのです。一方で、局地的大洪水説と聖書本文との調和における主要な難点は、箱舟が座礁した場所の記述を説明することだけです。しかし、このことは、聖書本文に記述されていることよりも、記述されていないことにおける問題なのです。この問題を解決できる信憑性のある二つのシナリオを提案しましたし、他にもあるのかもしれません。ですから、結論として、大洪水に関して聖書に記述されている全ての箇所を通じて一貫性のある解釈として、ノアの時代に人間が居住していたすべての地域を滅ぼした局地的大洪水が強く支持されると思われます。もし、私のこの見解にどこか間違っている部分あれば、それを指摘していただければ、喜んで修正します。同様に、地球規模の大洪水説を支持する、主にある兄弟姉妹にも洪水に関する聖書解釈を再評価する勇気と謙遜さを持ってほしいのです。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」(テサロニケの信徒への手紙 一5:21)

脚注

1 聖書から見た地球の年齢参照。

2 地球の最も雨の多いところは同じ規模の年間雨量がありますが、これほど集中していないし、雨が降る範囲ももっと限られています。

3 ケント・ホーバインド氏が作成した“The Hovind Theory”というビデオ。

4 その上、聖書本文や実際的な面で多くの難点があるにも関わらず、地球規模の洪水説を支持する人たちが自らの解釈が正しいと言い張る主な理由は、創世記1章の「若い地球説」(24時間の創造の日)がそれを必要とするからです。そして、この「若い地球の創造論」は、「完全なるパラダイス」という神学的枠組みに必要とされています。それは、「アダムの堕罪以前にあったとされる何百万年にわたる動物の死と苦しみ」を、神が「とても良い」と呼ぶはずがないという前提から出たものです。このテーマを詳細に取り扱った、推薦される本は“Peril In Paradise” by Mark S. Whorton (Authentic Media, 2005) です。

5 Theological Wordbook of the Old Testament, p. 449

6 確かにいつものように奇跡的介入を持ち出して、ノアが使用できるように、神が直接的にタールを創ったことにすることもできるでしょう。しかし、これは聖書の本文に何の根拠もない、完全にその場しのぎの議論でしかないのです。

7 ヘブライ語では、「地」と訳された単語(エレツ)は洪水となった同じ「地」(エレツ)ですが、この聖句の意味を地球全体が砂漠となったと考える人は誰もいないでしょう。この文脈では、「地」は明らかに箱舟が漂った場所の近辺を意味しています。

8 これらの課題を詳細に論じることは、この論文の範囲を超えているので、割愛させていただきます。もっと詳しく調べるためには、以下の英語の論文をお薦め致します。Rapid Post-Flood Speciation: A Critique of the Young-Earth Model by Greg Moore

9 魚類やその他の水生生物に関して、地球規模の大洪水説が説明し難いもう一つの問題は塩水生性生物と淡水性生生物の両方が生き残ったことです。地球全体を覆う海の中で、塩水が淡水の領域に混ざらないままで残ることは(奇跡的介入なしでは)あり得ないことですので、淡水生性生物は絶滅したはずです。それらは塩水の中では長く生きられないからです。

10 こういうわけで、新共同訳では、「命の息」のあるものと共に、「霊のあるもの」をも付け加えました。定義の問題となりますが、「霊」は「神にかたどっている」人間しか持っていない永遠の霊(霊魂)という意味であれば、これは高等動物には当てはまりません。ただし、この場合、これは箱舟の外にいた、滅んだ人間を意味しているとも受け取れます。

11 この疑問に対して、地球規模の大洪水説を支持する人たちが、宇宙全体がアダムの堕落によって影響を受けたのだと答えるのも確かです。しかし、それが事実であったとしたら、宇宙全体を裁く必要があったわけで、なぜ地球だけにとどめられたのでしょうか。若い地球の創造論/地球規模の洪水説が「完全なパラダイス」(perfect paradise)モデルであることが問題なのです。このモデルでは、人間の堕落以前には崩壊や死が存在しなかったことを想定しています。従って、この見解では、人間の堕落によって自然法則そのものが変更されたことが結果として帰結されるのです。しかし、これはエレミヤ書33:25と矛盾することになります。というのは、それによると、神が定めた「天と地の諸法則」(自然法則を含む)は変わることがないと書いてあるからです。英文ですが、このことは次の記事に詳しく述べられています。Creature Mortality: From Creation Or The Fall?

Updated: 2008 年 07 月 20 日,03:58 午前

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