恵みと裁きの衝突


恵みと裁きの衝突 マタイ10:26-31, エフェソ2:1-10    1998年に、アメリカのテキサス州で殺人行為の刑罰として死刑を受けた若い女性のことをニュースで聞いた覚えのある人がいると思います。マスメディアが取り上げる前に、私はそのカーラ・フェイ・タッカーという人物や彼女を取り囲んでいた論争を聞いたことがありませんでしたが、死刑執行の2, 3日前から、CNNや他のニュース番組がこの心を痛める出来事を詳しく取り上げました。死刑の時の彼女の様子とそれ以前の彼女の様子との差は実に著しかったのです。この若くて美しく、いきいきした彼女を見る者の誰もが彼女の以前の姿、つまり有罪判決を受けた冷酷な殺人鬼としての彼女を想像できなかったのです。

 この事件は1983年に起きたタッカーとそのボーイフレンドが麻薬中毒になっていて、その堕落した生活スタイルを支えるために盗みを犯し、二人の人物を殺害したことから始まりました。私が見た報道では、そのボーイフレンドの方に何が起こったのか話題にされませんでしたが、おそらく彼女と同じように数年前に死刑にされていたのではないかと思います。とにかく、タッカーさんは自らの犯した犯罪を全て認めましたが、果たしてそれがキリストへの信仰が芽生えた後なのかそれ以前だったのかも報道されませんでした。どちらにしろ、この死刑は無実な人間が犯してもいない犯罪のために死んだのではありませんでした。いいえ、彼女は確かに有罪であり、彼女自身もそれを認めていたのです。

 アメリカでは死刑判決は長年議論されてきています。昔は死刑はよくありましたが、しばらくの間廃止されていました。しかし、1974年に最高裁判所が再び有効にし、それ以来、テキサスやフロリダなどを中心に多くの州が死刑判決を下しています。このケースが注目を浴びた理由はタッカーさんが1863年以来テキサス州で処刑された最初の女性であり、死刑が許されるようになってからのアメリカ全体での二人目の女性であったばかりか、彼女は明らかに社会復帰に値するほど危険な存在ではなくなっていたからです。もしも彼女がたとえ、終身刑の身であったとしても、生きることが許されたのであったなら、彼女は他の囚人達に伝道することもできたのです。その上、テキサス以外の場所であったならば、彼女の命は確実にあったのだという不公平な面もあり、またアメリカや日本を除く殆どの国が死刑判決を廃止しているか、少なくともこのような場合に執行することはまずありません。

 さて、私が、この課題を取り上げたのは決して死刑そのものの利点と欠点を討論するためではありません。聖書を通して教えられる原理から両方の立場を裏付ける納得できそうな論点を作り上げることができ、敬虔なクリスチャンがこの難しい問題の両側の立場を取ります。この問題を取り上げる理由はこの事件が恵みと裁きの間にある緊張感と私たちがまるで神の立場にいるかのようにそのどちらかを与えなければならないジレンマをうまく例証しているからです。そして、タッカーさんが処刑される時に彼女の心の中で働いていた神の力の素晴らしい証を紹介したいので、この課題を取り上げました。おそらく、この事件以来アメリカを中心に数多くの教会でこの出来事が説教の種となったのではないかと思います。私も挑戦してみました。

 死刑が執行された時、CNNは90分の生放送の特別番組を世界中に放映しました。番組中インタビューされた人の中にジェリー・ファーウエルという名が知られているバプティスト係の牧師がいました。彼はマスメディアでは超保守的なリーダーとして描かれています。このファーウエル牧師は犯罪に対する法律を強化するようとよく言っていますし、凶悪な犯罪に対して死刑を強く支持する人として知られています。しかし、このケースでは、慈悲と刑罰の緩和を強くアピールしていました。言うまでもなく、取材人に本当の動機を追求され、死刑囚がもしキリスト教に回心された美しい白人の女性ではなく、イスラム教に改宗された黒人の男性だったら、どうするかと尋ねられたところ、彼は経験のある政治家であるかのようにその仮定の質問に直接に触れず、自分が言いたいことを言いました。それは神の恵みという原理に焦点を合わせました。

 私も彼と同じようなことをしたいと思います。それは典型的な政治家のように回避的な答えをするという意味ではなく、神の恵みという原理に焦点を合わせたいのです。なぜなら、それは福音の本質なのですから。実は、カーラ・フェイ・タッカーの劇的事件は人類全ての人生の例話に等しいものです。神の立場から見れば、神の完全なる神聖さの前に有罪判決を受けない人は一人もいません。ローマ人への手紙に書いてある通りに「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」また、「罪が支払う報酬は死です」というみことばもあります。ですから、恵みなしでは、私たち皆が「死刑執行人」と直面しなければなりません。これは肉体的な意味の死刑執行人を言っているのではなく霊的な意味です。肉体的な意味では、私たちが免れないこのいわゆる「死刑執行人」は時間そのもので、その肉体的な意味の死はいつ訪れるか分かりません。おそらく何年か先のことでしょうが、いつ訪れてもおかしくはないのです。健康な長寿に対する保証は何一つありません。

 未来に対する「保証」として受けられるのは、もう一人の「死刑執行人」に関係することです。即ち、霊的な死をもたらすもので、私たちが恐れるべきなのはそれなのです。イエスが言ったように、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」さて、神の特質のある面を述べようとする言葉は場合によって、混乱をもたらします。例えば、私が今使った「霊的な死刑執行人」ということばを通して、また「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」を「恐れる」といった感じで神を言及する時、愛である神に対するイメージを歪めてしまう可能性があります。その場合は、私たちが何か過ちを犯してしまうと、神はまるで餌食を待っていたかのように天からすぐ罰を与えようと心がけているかのように描いてしまうのです。しかし、イエスは私たちが神を恐れるように言った続きのことばに雀のような小さな命でも神にとって大事であることを言ってこのことばで締めくくります。「だから、恐れるな。あなたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」ですから、表面的に見れば、「神を恐れなさい」と「神を恐れるな」と同時に言っているかのように感じ、それは矛盾に見えますね。

 この言葉上の問題への解決には二つの面があります。第一に、例えば、聖書には「主を畏れることは知恵の初め」というみことばにある「畏れ」という単語は「恐怖」という意味ではありません。英語ではどちらも「fear」ということばで、日本語のように違う漢字でその意味を区別することができません。しかし、日本語でも文字を見ていなければ、発音だけで、その二つの意味の「おそれ」を区別できません。この場合は「恐い」という意味の恐れではなく、深い尊敬と畏敬の念に打たれることを意味します。「畏敬」の「畏」と同じ字ですね。従って、これは神を礼拝することを意味しています。しかし、それでも、全能の神の前に立つ時の恐れ — その感情レベルの恐怖 — を感じることはふさわしい反応である場合もあります。つまり、それは個人として神とどういう関係を持っているかにかかっています。信仰深い預言者であったイザヤでさえ、幻の中で神と出会った時、次のことばで言い表しました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住むもの。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」明らかにイザヤはその恐ろしい光景の前におびえていました。しかし、そこで恵みが現れました。その幻の中で、天使が神の祭壇から炭火を持って天から降ってきて、イザヤの唇に触れさせて言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのように清められなかったならば、イザヤは滅びたはずで、それは彼がよく分かっていました。

 イザヤが神との正しい関係を持つようになってから、つまり、彼の罪が赦されてから、恐怖感も取り除かれました。これこそイエス様が私たちにして下さることです。イエスは私たちが神を恐れるようにと命令して、そしてそのすぐ後に「恐れるな」と言った時に、彼は福音の中心を述べていました。即ち、罪深い人間の立場から見れば、本当に神を恐れるべきです。というのは、自分の功績だけで聖なる神の前に立つと、我々が受けるべき運命は永遠に神から離れるという意味のいわゆる「第二の死」だけです。しかし、イエスが私たちを神のみ前に導くなら、何も恐れることはありません。それは自分の義によるのではなく、キリストの義によってのみ神の前に立つからです。私たちが神に受け入れられるのは自分たちが行った良いわざによるものではなく、それは全面的にキリストが私たちのためにしてくださったことによることだけです。「恵み」はそういうことです。恵みは自分で勝ち取るものでも、値するものでも、当然に受けるべきものでもありません。神の恵みを受けるために唯一できるのはただ信仰を持って、謹んで賜物として受け取ることだけです。

 では、もう一つの聖書朗読のエフェソ2章を見てみましょう。この中で、パウロは私たち全ての人間の「生まれながら」の状態は「罪のために死んでいる」— つまり、神から離れているというふうに説明します。こういう霊的に死んでいる状態は私たちの自然な状態だと言っています。これは創世記2章に神がアダムに「善悪の知識の木の実」を食べないように命令することと関連しています。なぜなら、その木の実を「食べると必ず死んでしまう」と書いてあるからです。創世記の象徴の中に、「善悪の知識の木の実を食べる」ということは神のようになろうとすることを意味します。つまり、自分自身が自分の神になり、真の神を必要としないという意味です。新共同訳にはニュアンスが少し変わりますが、もとのヘブル語では、その実を食べる同じ日の内に死ぬという意味が含まれています。つまり、ただちに死ぬはずでした。しかし、明らかに肉体的な意味では、ただちに死ななかったのです。もしそうであったならば、このことを考える人間はだれ一人もいないはずですね。ここで言われている「死」というのは霊的な死で、神から離れている状態のことです。これこそパウロが言っている「生まれながら」の自然な状態です。その上、パウロは全ての人間は「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と言います。やはり、イエス・キリスト以外の全ての人間はその「生まれながらの自然な状態」にいるからです。

 では、解決は何でしょうか。一つしかありません。それはこの「生まれながらの自然な状態」を取り除くことです。しかし、自分だけでは、そうすることは不可能です。神のみがその道を開けられ、それは全面的に神の恵みによることです。4節から読むと、「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」また8節と9節にこの中心的な教えを強調します。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 問題は人間としてのプライドがすぐ動き出して、少なくとも部分的にそれは自分の努力によってできたことだと認めてほしい気持ちが出てきます。やはり、人間的に考えれば称賛すべきことを他の人のためにやったことがあるかもしれません。そして、それによって神に受け入れられる根拠となれることは人間としてのプライドを高める傾向が強いのです。これで、人間としての健全的なプライドを持つべきではないとは言っていません。というのは、神様にとって私たちがどれほど価値のある存在であることかと考えますと、愛されている価値のある人間として自分を受け入れる権利があることが分かります。神が私たちに示した愛はご自分にとって私たちが無限に価値があることを意味します。そして、自分ができた良い行いに対していい気分になること自体、つまり健全的な自尊心を持つこと自体は悪いことではありません。しかし、それはそれによって天国に入る資格を勝ち得たことを考える根拠となることは決してありません。

 よくある考えですが、「裁きの日」に神が私たち個人々の全ての行いを「正義の天秤」で量り、その良いわざが悪い行いを上回るなら、天国に入るフリーパスをくれるという考えがあります。つまり、自分の行いによって天国に入って行ける権利を勝ち取ることができるのだという考え方です。日本語でなぜこのようなはかりを「天秤」と呼ぶのか不思議に思いますが、何となくその考えに関係があるように見えますね。やはり、「天国」の「天」と書きますから。それはどうかわかりませんが、その考え方自体は神が聖書を通して私たちに教えていることと正反対なことだと言えます。もし、公平な正義に基づいている判断を下すことを意味するこの「正義の天秤で量る」というたとえを使うなら、次のことが神の立場から見る裁きをもっと正確に述べるのではないかと思います。まず、イエス・キリストを救い主として受け入れる人にとっては、「裁きの日」に神に裁かれる時に、このいわゆる天秤に乗せて、すべての行いを量る時、全ての悪い行いが取り除かれて、良い行いだけが量れることになります。悪い行いが全て赦されているので、天秤のそちら側が空っぽとなり、良い方だけが残ります。神はどういうふうに計算するか分かりませんが、神が定めた何かの方法で、それらの良い行いが我々の「天における宝」に換算して下さいます。

 しかし、キリストと彼が提供している救いを拒否した人の場合は、その反対のことが起こることになります。即ち、良いと思われている行いがその計算から取り除かれ、天秤の反対側にそのまま悪が積み上げられていることになります。なぜなら、神の立場から見れば、私たちが良いと考えている行いは聖書の言葉で言い表すなら、全てが「汚れた着物」のようですから。ただし、それはキリストによって清められるまでのことです。ですから、そういう意味では、神が人間を一人々裁く時、キリストの「義の衣」を着ていない人にその「善」と思われていた業を裁かないことはかえって憐れみを示すことになります。私たちが覚えなければならないことは神の栄光のためにしていない「良い行い」と思われている行いは神の目には良い行いではないということです。この「裁きの天秤」の類推の考え直しは実際に行われる裁き方法とちょっと違うかも分かりませんが、私が強調したいことは私たちが神に受け入れられることは全面的に神の恵みによることで、それは私たちが自分の行いによって勝ち取れるものではありません。ただ贈り物として受け入れられるしかないのです。しかし、その無料の贈り物は決して強制的に押しつけられることはありません。人間は一人々その救いという贈り物を受け取らなければなりません。

 カーラ・フェイ・タッカーの話に戻りますが、CNNでインタビューされた時、彼女は迫ってくる死刑執行に対して何の恐れも示していませんでした。かえって、にこやかな顔を持って確信を示していました。自分が慈悲と緩和をお願いしていると認めましたが、イエス様と直接に顔を合わせることは待ち遠しがっているとも言いました。そして、最高裁判などの最後のアピールはどういう判定になったとしても、死刑の緩和よりも神にはもっと偉大な目的があると信じていると言いました。何が起ころうとも全ては神のみ手にあり、神はそれをご自分の目的と栄光のために使うと確信していました。

 注射器を通して毒が体内に入り、命を断つ直前に彼女は最後の言葉として、まず死刑を見守っていた彼女が殺害した人の遺族に向かって、もう一度自分がやったことのお詫びの言葉を語って、自分の死を通して、遺族が心の中の平安と神との正しい関係を見出すことができるように祈っていると言いました。そして、自分の家族に向かって、感謝のことばとどれほど彼らを愛しているかを伝えて、そして次の言葉で最後のことばを締めくくりました、「これから、私はイエス様に会いに行きます。」目撃者はCNNにこのことを伝えて、彼女は最後の息まで、平安のあるほほえみを保っていたと言いました。

 正直なところ、この生放送を見るのは心を乱す難しいことでした。インタビューされた全ての人はその死刑執行に対して、自分の感情的な苦痛を示していました。その刑務所のまわりに数百名が集まってどうなるか見守っていました。死刑を支持していた人が片側に集まり、その反対側に、死刑が執行されないように祈っていたクリスチャンや他の人たちが抗議デモをしていました。彼女を有罪とした検察官自身も自分の人生で最も心が痛む日の一つだと言い、特に彼女の最後のアピールが却下された時死刑を支持していた人たちが歓声を上げたことに対して遺憾の意を表しました。そのようなことに対して歓声を上げることは恥ずべきことだと言いました。

 しかし、正義の歯車は無慈悲に回り続けました。法律は法律であり、誰かを特別扱いするわけにはいけません。国家の立場からは恵みを与える余裕がないように見えます。ですから、権力者は一つの大きなジレンマと直面していました。一方、刑法の制度そのものの根本的な目的が問われてしまいました。というのは刑務所の目的は社会を守りながら、犯罪人を刑罰することか、それとも犯罪者を更生させることなのか。もし犯罪者が十分社会復帰できるまで改心しているのなら、死刑は何の目的を果たすのでしょう。しかし、それはどのような基準で決められるのでしょうか。カーラ・フェイ・タッカーがキリストに信仰を持つようになったことは法的なアピールに何の影響も及ぼさなかった理由はそのような宗教的な回心を判断することは主観的なことで、客観性がないためだと言われていました。もし犯罪人はキリスト教の信仰へ回心すれば死刑にならないと考えたら、それをすぐ見せかけてみると考えられています。そして、囚人は詐欺が上手ですから、どれが本物でどれが嘘か判断しにくくなると言われています。私自身はそれがそれほど主観的ではないと思います。時間をかけて、よく観察すれば、誰の回心が本物であるか判断できると思います。カーラ・フェイ・タッカーがキリストを受け入れた時からの9年間に彼女の信仰は本物であることを大いに示しました。そして、神を賛美しながら死を迎えたことはその究極な証明でした。

 この死刑執行によって明るみに出た法的倫理的問題点は難しいものです。その上、先端技術などが現代の社会に投げかけている倫理的なジレンマが数多くあり、その場に立たされている人間はまるで神のような役割をはたさなければならないことが急増しています。しかし、私たち人間は神ではありません。ですから、もし決断しなければならない指導者たちが神に導きを求めていかなければ、今回の死刑のような疑わしい判断が当然出てきます。

 このようにして、この死刑によっておもてに出た課題を含む我々現代人が直面しているあらゆる倫理的な問題を公に議論する必要があります。しかし、神の礼拝を目的とするこのメッセージでは、私たち一人々の神との個人的な関係に焦点を絞らせます。カーラ・フェイ・タッカーは肉体的な死刑執行人がいつ来るか分かっていました。私たちはそのような死を迎えることがないようにと望んでいますが、ある意味では、彼女は幸運でした。というのは、個人としての裁きの日を迎える前に、きちんと準備をすることができたことです。自分はどこに行くか確信していましたし、心の中に平安がありました。神はもっと偉大なご計画があると彼女が言いましたが、もしかしたら、前例のないその死刑の生放送と彼女が力のある素晴らしい証ができたこと自体がそうだったのかもしれません。

 私自身は誰かが死を迎える時に立ち会った経験はありませんが、死の瞬間霊が体を離れて行く時に何が起こるかを目撃する病院のチャプレンや看護婦の話を聞いたことがあります。別に何も気づかないことは勿論多いけれども、深い信仰を持つ人が死ぬ時に平安のある表情を持って、「イエス様が私の名を呼んでいる」というようなことばを口にして死んで行くことをよく目撃することがあると証言しています。私の父が死んだ時、数日間昏睡状態に陥っていました。しかし、母と看護婦さんがそばにいて、母が少し出かけていかなければならないと言ったとたんに、父の目が急にぱっちり開いて、表情が喜びと驚嘆の表情に変わり、一回の深呼吸をして、そのまま世を去りました。何も声が出ませんでしたが、母によると「WOW!ー すごいなア!」という感じだったと言い、その経験を今日まで大事にしています。

 しかし、他方では、患者が死を迎える瞬間を目撃する人たちは次のことをも証言します。それはその患者が神を明らかに拒絶していた場合、死を迎える時に非常な恐怖のある表情に変わり死の門をくぐっていくことはそう珍しくありません。このようなことを目撃したら、自分自身が救いに対する確信を持てるように神との正しい関係を持たなければならないと納得させます。最後に聖書のみことばで締めくくりたいと思います。ヘブライ人への手紙4:14-16ですが、「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜(じぎ)にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではりませんか。」

 お祈りいたします:天の父なる神様、全世界にいる人たちの心の中にあなたが働きかけるあらゆる方法を感謝し、特に刑務所にいる囚人を覚えて祈ります。カーラ・フェイ・タッカーの証を通して大いに働いて、その悲劇から多くの良いことが生まれますように祈ります。きょうここに集まっている私たちの内にまだ自分の救いの確信がない人がいましたら、その人が信仰を持てるように心の中に働きかけてください。また、私たち皆があなたとの関係に対してもっと自信を持てるようにお助けください。主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン


Updated: 2014 年 07 月 04 日,04:50 午後

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