聖書の世界観によってもたらされた祝福

聖書の世界観によってもたらされた祝福

 2011年2月28日

  2年半ぶりに、このつくば学園教会で礼拝を守り、長くおつき合いいただいてきた多くの友人と再会できたこと、嬉しく思います。つくばを出て関西へ引っ越したのは、3年半も前のことになります。このつくばには、あまり変わっていないところがあれば、随分変わった面もあるように見えます。

今回も、雄子は一緒に来たかったのですが、許されない事情になりました。以前と同様ですが、定期的な入院治療が必要で、ちょうど今、そのため入院中です。でも、つくばの数名の方々とは文通を続けていて、心の一部はこのつくばに残っていると言えます。

私の仕事の内容も随分変わりました。一昨年の夏から、部落解放センターを離れ、関西学院大学の教授となり、現在、その経済学部に所属しています。学位は物理学と神学なのに、何で経済学部になったのか不思議に思われるかもしれません。私のような宣教師を求めていたのが、その学部だったため、そういうことになりました。言うまでもなく、私は経済学そのものを教えているのではありません。

関学はキリスト教精神に基づいている学校で、各学部に宣教師が属しています。それぞれの学部で、チャペルでの礼拝も行っているし、「キリスト教学」という必修科目もあり、聖書やキリスト教の歴史を、学問として教えています。

ここ一年、経済学部のチャプレンが一年間の留学で不在となっていたので、いろいろの業務が私の方に回ってきました。その一つは、「キリスト教学」の授業の一コマを担当することでした。教えたこともない科目で、毎週の講義を準備するのに、随分時間を要しました。全くの専門外とまでは言えないのですが、たとえば、キリスト教の歴史を勉強したのは、三十数年前の神学生時代のことです。教えるためには、自分の方でも多くのことを勉強しなければなりませんでした。その上、大勢の学生の前に立って、彼らにとってさほど関心のない科目を、自分の母国語でない日本語で面白く教えることは、大きなチャレンジでした。でも、一年目が無事に終わり、大変実りのある一年だったと思っています。

さて、本日のメッセージとして、その授業で取り上げたテーマの一つを、皆様と分かち合いたいと思います。「聖書の世界観によってもたらされた祝福」という題ですが、それが何を意味するか、考えて行きましょう。もし、聖書の世界観が現れなかったとすれば、この世はどんなに違うものになっていたでしょうか。そして、聖書の世界観が浸透して行くことによって、どれほど多くの祝福が、この世にもたらされたでしょうか。

これらについて考えるために、まず、先ほど拝読していただいた創世記12章のことばを考えましょう。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしは、あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。』」

このことばによると、神様がこの人を選んで特別な祝福を与えたのは、アブラハムと彼の子孫だけが幸せになるためではありませんでした。それとは逆で、神はアブラハムの子孫を「大いなる国民」にして、「地上の氏族はすべて[彼]によって祝福に入る」と約束したのです。こういうわけで、アブラハムが祝福を受けたのは、他の人が祝福に入るためでした。 結局、私たちもそうです。私たちは信仰において「アブラハムの子孫」なのですから、私たちが神から祝福を得ることは、その祝福を他の人に分け与えるためなのです。このアブラハムとの契約は、聖書の中心的なテーマであると言えます。その約束は、いろいろな形で成就されつつあります。それぞれの成就は、約束された「メシア」によるものです。

それでは、キリストの到来は「地上のすべての氏族が祝福に入る」という結果をどのようにもたらしたのか、考えてみましょう。それには、もちろん、いろいろな面があります。祝福に入るということは、霊的、永遠的な意味だけでなく、この地上での物質的な意味もあります。

聖書に述べられているユダヤ人の歴史、その中での彼らと神様との出会いの記録には、このアブラハムへの約束が何回も出てきます。ユダヤ人たちは、なぜ神に選ばれたのかを幾度となく忘れてしまい、イエスが誕生した時代までには、極めて閉鎖的な民族となっていました。

それは間違っていると、イエスは繰り返して教えたのです。例えば、エルサレムの神殿で何が行われていたかを見て、そのことに憤って、両替人を追い出したり、販売の荷台をひっくり返したりして、こう言いました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」神の神殿は全ての民族が祝福を得るためのもの、「神の民」が全ての民族のために祈るはずの場所だったことを、彼らは忘れていたのです。

また、黙示録に書いてある天国に関する幻の中で、ヨハネは見ていることを、こう述べます。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」

ここで強調したいのは、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から」集まっていたということです。これによっても、アブラハムへの約束の目的が、「地上のすべての氏族が祝福に入る」ことにあったことを、再確認できるのです。この場合、「すべての氏族が祝福に入る」とは、もちろん霊的な意味合いのことで、彼らの霊魂の救いを指しています。このビジョンを実現するために、神は、多くの宣教師を通して、また、もっと広い意味で、ことばと行動を通して福音のメッセージを伝えるすべてのキリスト者を通して、進めておられますし、そのことは約束通りに成就しつつあるのです。 

それでは、キリストの到来は「地上のすべての氏族が祝福に入る」との結果を、どのようにもたらしたか、そのことを考えてみましょう。「祝福に入る」ということには、もちろん、いろいろな面があります。霊的な永遠の意味だけではなく、この地上での物質的な意味もあります。霊的な意味では、個人の霊魂の救いという面がもちろんあります。しかし、もっと広い意味での物質的以外の意味もあり、けさ、強調したいのは、そのことなのです。

私の授業では、「世界観」という概念を強調しています。古代世界を支配していた多神教的な世界観しか存在しないとするなら、つまり、聖書の世界観がなかったとすれば、私たちが生きている現代の世界は生まれてこなかったと結論づけることができます。もし、聖書の世界観が現れなかったとすれば、今日の世界はどれほど違ったものとなっていたのでしょうか。もちろん、それは推測するしかありません。しかし、様々な制度や概念が生まれ出るについては、聖書の世界観を必要としたことを思うと、この違いは極めて重大です。

聖書の世界観の土台となっているのは、人間が「神にかたどって造られている」という思想です。これは自然に、人間の尊厳や人権に繋がって行きます。この世界観が行く手の地固めをしていなかったなら、国連の「世界人権宣言」などの思想も現れなかったと推測できます。もし、聖書の世界観が現れてこなかったら、今日の世界は全く違った世界になっていたはずです。現代社会で私たちが当り前のことと思っている事柄には、その始まりを、聖書の世界観に負っていることが大変多いのです。

私は去年、授業の準備のために、この大変素晴らしい本を読みました。表題は日本語に翻訳しますと、「理性の勝利: キリスト教は、自由と資本主義と西洋の成功を、どのようにもたらしたか」となります。この本の中で、ベイラ―大学の社会科学者、ロドニー・スターク氏は、多くの歴史的事実などを通して、次のような驚くべき結論を述べています。

「キリスト教が西洋文明を作り上げたのです。イエスを支持する人々が人目につかないユダヤ教の宗派にとどまったなら、皆さんの殆どは本を読める能力を身につける教育を受けていなかったでしょうし、字を読める人であっても、手書きの写本しか手に入れることはできなかったでしょう。進歩、そして、道徳的平等に熱心に取り組んだ神学がなかったとすれば、結果として、今日の世界は、言ってみれば、1800年頃の西洋世界の外の世界に近いままだったことでしょう。占星術師や錬金術師は存在しても、科学者は存在しない世界のことです。専制君主に支配されたままの世界で、大学、銀行、工場、眼鏡、煙突やピアノも存在しない世界だったことでしょう。多くの新生児が5歳まで生きることなく、多くの女性が出産によって死を迎える。そういった全くの「暗黒時代」に生きていることになっていたと思われます。近代社会は、キリスト教社会の中だけで発生したのです。イスラム世界やアジアの社会、また、まだ、どこにも存在していなかった「世俗的社会」においてではありません。それ以降、キリスト教社会の外で生じた近代化は、西洋からの輸入で、しばしば、開拓者や宣教師たちによって持ちこまれたのです。」

言うまでもなく、スターク氏の結論は物議を醸す類のものです。けれど、彼は証拠によって裏付けています。ここでは、大学での講義のように、それらを詳しく取り上げて行く時間はありません。しかし、なぜそういうことを断言できるのか簡単に紹介したいと思います。

一番重要なポイントは、古代世界を支配していた多神教的な世界観が、現代科学の誕生を阻んでいたということです。実は、現代科学の誕生は、聖書の世界観と密接に関係しています。ものごとの前提として、聖書の世界観の基本原理が提供されていなかったならば、現代技術や現代社会を可能にしている現代科学は生まれてこなかったはずです。

現代の世俗的、唯物論的な世界観の立場から科学に携わっている科学者達は、自分の研究は神や聖書の世界観とは全く関係がないと考えます。しかし、実際には、従事している研究の土台に、神や聖書の世界観がかかわっているのです。日々、科学に携わる中で、そのことは見えないかも知れませんが、聖書の世界観という基本前提がなかったとすれば、科学は決して誕生し得なかったということです。

それはどういうことかと言うと、自然界は唯一の創造者によって設けられた合理性のある論理的法則によって支配されているという見解があって初めて、自然界を理解しうるものだという認識が生まれてきます。古代から存在していた他の全ての世界観では、自然現象は神々によって支配されている、或は目に見えない神々の領域で起こっている出来事の結果であるという理解を前提としてきました。

一つの分かりやすい例として、日本語の「天気」という言葉を考えてみましょう。国語辞典には、このような解説はもちろん書いてありませんが、その漢字の意味を考えると、きっと、古代世界観に支配されていた昔の人が「天気」ということばを作ったとき、「天」(神々)の「気」(気分)によって、天気は決まるもの。そのように考えていたに違いないでしょう。そう考えると、この原理は分かりやすいですね。嵐やその他の不順な天気になったら、それは天気を司る神々が何かに怒っている表れだと思い込んでいました。

このような世界観の枠組みの中で物事を考える限り、天気といった自然現象を支配する法則というものがあること、また、それらの法則は人間の理性で把握し理解できることとは、思いも付きません。そこでは、呪文や儀式を通して、その現象を支配していると思われる神々をなだめることだけに心を配ることになります。それこそが、私たちが歴史に見ることです。

ですから、自然界を支配する法則の存在、また、人間がそれらを理解して、自然界における将来の展開を予測するためにこれらの法則を利用できるということは現代科学の基礎そのものです。しかし、聖書による啓示といったきっかけもなしに、人類が神々の気まぐれに支配されてきたそれまでの状況から脱出して、これらのことを認識できたとは想像できません。

この結論を裏付けるもう一つのポイントがあります。神が空間と時間に介入して超自然的な奇跡をなされた時は別ですが、その時を例外として、聖書の世界観にあっては、私どもの生きているこの世界には、因果関係が成立している、ということがそのポイントです。私たちは、それらの因果関係を学び、理解することができるのです。

しかし、古代以来の、聖書の世界観以外のすべての世界観においては、因果は連動していませんでした。古代の人達は、結果はこの世界で見ました。しかし、原因はこの世界の外側、つまり目に見えない神々の領域にある。そのように理解しました。原因は人間の理解を超えたところにあると見ていたのです。このように、古代の世界観が、現代科学の基礎的な概念とは対極に位置するものだったことからして、聖書の世界観がどこかで根付かなかったならば、現代科学の芽生えは想像することすら難しいことでした。

こういうわけで、古代中国、インド、エジプトやギリシャのような文明において、科学が生まれてこなかったのです。そういう文明には、数学に基づいている建築などの発達はそれほど制限されていなかったのですが、科学まで発展していく道はほぼ閉ざされていました。なぜ数学の発達が抑制されていなかったかと言うと、それは世界観に大きく左右されないからです。やはり、神や神々についてどう考えていても、つまり、どういう世界観があるとしても、2+2は4になるということは変わらないからです。とにかく、数学などの知識や技術的な進歩は試行錯誤的な偶然な発見によることだけで、科学的な説明や理論に欠けていました。こういうわけで、偶然に発見した何かのことが利用できたら、それを採用して、制限された技術的な進歩を成し遂げることがありましたが、その裏にある原理や仕組みを見出そうとする働きはなく、可能であることすら解らないままで歴史が流れました。それぞれの偶然な発見による進歩を結び合わせるシステムが科学で、それは世界観のゆえに、生まれてきませんでした。それゆえに、たとえば、古代文明において、占星術が大いに発展しましたが、天文学には至りませんでした。

この一つの例を通して、聖書の世界観の登場によって、どれほど世界が影響されたか、また、「すべての国民が祝福された」か。そのことがお分かりいただけましたでしょうか。先ほど触れましたが、人権や倫理などの面においても、同じようなことが言えます。全ての人間に本源的な固有の価値があるという思想は、全ての人間が神にかたどって造られているという概念的土台の上に成り立っています。こういう思想が、自然に「人権」という概念にもつながって行きます。つまり、人権という思想の根拠となったのです。

結論として、アブラハムに与えられた約束、つまり自分の子孫を通して「地上のすべての氏族が祝福に入る」という約束、これは、あらゆる面において、全世界の民族に大きな影響を与え、霊的な面、社会的な面、そして、物質的な面において、大いに成就されつつある。そのように言えます。

こういうわけで、たとえば、聖書の世界観に含まれる概念を否定している人であっても、本人の知らないうちに、その遺産によって、祝福を受けているのです。これは「受動的祝福」と呼ぶことができます。しかし、「能動的祝福」というのもあり、締めくくりに、そのことについて少し考えたいと思います。

「信仰によってアブラハムの子孫」となっている私たちは、「約束の相続人」でもあり、物質的、知識的、霊的、また、思いを超えたその他の形で、祝福を受けています。しかし、その祝福の裏にある理由をも認識しなければなりません。

神は、私たちが他の人間よりもそれらの祝福に値するから、祝福してくださったのではありません。救いに関しては、自分の行いによって、その祝福に値する人間は、だれ一人おりません。だれでも、救われるのは神のみ恵みによってのみです。その恵みを受けられる唯一の方法として定められたのは、私たち人間の身代わりとなって命を捧げてくださった、主イエスの死と復活の他にはないのです。

これこそが究極の祝福です。この人生の最後に至って究極的に意味があるのは、これだけです。しかし、この地上における祝福もあり、結局、それらも神の御恵みによるものです。神は私たちを大いに祝福しておられます。そのうえで、私たちに望んでおられるのは、それらの祝福を、必要としている他の人たちと分け与えることです。私たちは祝福を与えるために祝福されているのです。そのことばを以って、今日の話を終えたいと思います。

私たちは、苦しみの多い世の中で生きています。祝福を与える立場となっている人の助けを必要としている多くの人達が、私たちの周りにいます。祝福を分け与える方法はいろいろあります。私たち一人一人が、自分はどのようにして他の人の祝福となれるか。そのことを、祈りを以って、お考えになられることを、お勧めしたいと思います。覚えていただきたいことですが、あなたは「祝福を与えるために祝福されている」ということです。

最後の祈りとして、有名なアシシの聖フランシスコの「平和の祈り」を祈りたいと思います。これこそ「祝福を分け与える」模範となります。そのことばを、よくお聞きください。お祈りいたします。

主よ、私を平和の道具としてください
憎しみあるところには、愛を、
傷あるところには、赦しを、
疑いあるところには、信頼を、
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を、
そして、悲しみあるところには、喜びをもたらす者とさせてください

聖なる主よ
慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
そして、愛されるよりは、愛することを求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ、
赦すことによってこそ、真に赦され、
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることができるのですから

Updated: 2011 年 10 月 24 日,03:27 午前

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