出エジプトの謎を解く:追加


追加

ハムフリズの本の書評と彼の仮説の解説をホームページに載せた後で、手に入れた三つの DVDによって、他のシナリオの存在を知りました。それらは、出エジプトが史実であることやシナイ半島の南端とされるシナイ山の伝統的な位置が間違っていることでは、ハムフリズに同意しているのです。しかし、シナイ山の位置と紅海の横断の場所とタイミングが相互に異なっています。

これらのうち二つのDVDは多くの共通点がありますが、残りの一つは大きく異なっています。『明らかとなった出エジプト:紅海横断の探索(“The Exodus Revealed: Search for the Red Sea Crossing” , Discovery Media Productions, 2002) と『火の山:本当のシナイ山の発見』( “Mountain of Fire: The Discovery of the Real Mount Sinai”, Ardustry Home Entertainment, 2005)という二つのドキュメンタリーでは、ハムフリズ氏と同じく、シナイ山がサウジアラビアにあると考えていますが、ハムフリズ氏が提案した山とは異なります。両方は「ジェベル・アル・ラズ」(Jebel al-Lawz) という、その地域で最も高い2500mの山を支持しています。この山はハムフリズ氏が考えていた山より、モーセが住んでいたメディアンにかなり近い場所にあります。何かの理由で、周りの地形に比べると、この不思議な山は、黒く焦げ付いているように見えます。その上、その地面にある石を砕くと、その中の色は周りの山々の岩と同じいような薄い色で、表面だけが黒くなっています。これは「主が火の中を山の上に降られたから」と結論しています。この山が黒くなったのは、神がモーセとイスラエルの民にこの山で出会ったからだと結論するのは、もちろん暫定的なものですが、明らかに珍しい現象です。地質学者によるこの岩石の分析とその山の表面だけが黒くなった科学的な説明を待ちたいと思います。

この山が本当のシナイ山であることを裏付けると結論している他の事実も提示されています。その中には、山の麓にある、積み重なった平たい大きな丸石に、数多くの刻まれた牛の絵があります。彼らの結論は、この場所こそ金の子牛が鋳造(ちゅうぞう)された場所だということです。出エジプト32:4によると、イスラエルの民はこれを見て、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言いました。金の子牛の像は一つしかありませんでしたので、石に刻まれた複数の牛はこの複数の「神々」の表現に合致すると考えています。(しかし、もしそうであれば、モーセが金の子牛の像を完全に打ち砕いたのに、これらの偶像をなぜそのまま残したかという大きな疑問点もありますね。)

双方のドキュメンタリーで展開されたこの主張を裏付けるもう一つの共通するポイントは、その山の近くにある低い丘の上から突き出る奇妙な岩です。数十メートルにそびえるこの細長い岩の真ん中に下から上まで割れ目があり、まるで、二本の切歯のように見えます。その割れ目のところから、以前に大量の水が湧き出た跡がはっきり見えます。丘の頂上から突き出ている岩の根元から水が湧き出て、下にある平地に流れた痕跡がまだ残っているので、極めて珍しい現象だと言わざるを得ません。その丘のどこかから地下水が湧き出るとしたら、丘の頂上からではなく、そのふもとに近いところからの可能性がはるかに高いはずです。とにかく、この場所は出エジプト記7:1-7に記録されている、モーセが主の命令に従って岩を打ったことによってできた泉だと推定しています。しかし、今日でもその痕跡が見えるということは、干上がってからそんなに年数がたっていないのではないかと思われます。砂嵐などによる風化によって、長くても数百年のうちに完全に消えたはずですから、もしこれが本当に出エジプト時代の湧き水だったとすれば、比較的に最近まで、流れていたことになると思います。言うまでもなく、これは注目すべき状況証拠かもしれませんが、注意深い発掘調査によってのみ、この干上がった泉を歴史的な出来事に結びつけることができるのです。

この二つのドキュメンタリーにおいて、焦点が相互に多少異なっています。『明らかにされた出エジプト』の方は紅海の横断に焦点を合わせるので、ジェベル・アル・ラズ山が本当のシナイ山だという共通した結論を裏付ける証拠を簡単に提示するだけです。『火の山』というもう一つのDVDには、その他の証拠も説明しています。例えば、山の中腹にある大きな洞穴を指摘します。列王記上19章には、エリヤがホレブ(シナイ山)まで行って、その山にあった洞穴の中で夜を過ごしたことが述べられています。(ところが、伝統的なシナイ山には、そのような洞穴は一つもありません。)その上、ジェベル・アル・ラズ山に上って行くルートには、出エジプト15章に記録されている、シナイ山に向かうイスラエルの民が通過した、飲めない苦い水の泉や十二の泉と多くのなつめやしの木があるオアシスと同じような場所があることが指摘されています。

『火の山』のDVDでは、紅海の横断をアカバ湾の入り口であるティラン海峡に位置づけられています。いくつもの小さな島もあり、アカバ湾や紅海の海底に走る深い溝に比べると、比較的に浅い海です。この海峡は彼らが考えている出エジプトのルートに合致しますが、問題は浅いところがノコギリ歯のような珊瑚礁に覆われているし、極めて険しい谷間をも渡らなければならないのです。ですから、例えば、水が奇跡的に取り除かれたとしても、横断するルートとしては極めて難しい場所です。

『明らかにされた出エジプト』では、横断場所をアカバ湾の入り口と奥の中間にあるヌウェイバという場所に位置づけられています。そこには、砂質の広い半島が海に突き出て、アラビア側まで広い峰として続いています。傾斜が緩やかで、海底はなめらかですので、水がなければ、横断する場所としては、最適です。しかし、一番深いところで、およそ800メートルの水深があり、このような深いところを横断場所とするシナリオにとっては、大きな難点となります。聖書には、神が海水を押し返すために一晩中強い東風を起こしたと明確に書いてあるのですが、このような海の深いところなら、自然法則を超越した「命令奇跡」を必要とします。もしそうであれば、風は不要となります。なぜなら、どの方向からでもどんなに強い風が吹いても、800メートル(8メートルでも)の水を支えることができないからです。神様が利用する二種類の奇跡(即ち、自然法則を破ることなしに、自然現象のタイミングと規模が超自然的にコントロールされる奇跡と自然法則の一時停止を必要とする命令奇跡)のうち、聖書に示されているのは最初のタイプなのですが、このようなシナリオは二つ目のタイプの奇跡を必要とします。

この場所が横断ルートであったことを裏付ける証拠として、このDVDは興味深い画像を提示しています。そのヌウェイバ海岸の沖合に数多くの奇妙な物体があり、古代エジプトの二輪戦車の痕跡だと断言します。珊瑚が育つためには、固定している物体に付着する必要があります。その地域の海底は沈泥に覆われているので、珊瑚は沈泥から突き出ている物体にしか育ちません。ところどころに散乱している珊瑚の中で、丸い平たい珊瑚から直角に出る細い柱のような不思議な形の珊瑚礁があり、金属探知器をそれに当てると反応したと断言しています。また、珊瑚が付着していない金の車輪が砂から顔を出している写真も含まれるのです。その中にあったはずの木が腐ってなくなっているので、非常にもろいと判断し(そして、無許可に取り出すのは法律違反ですので)、そのままにしたと語っています。

これらの物体の考古学的な発掘調査ができれば、古代エジプトの戦車の痕跡かどうかが判明するはずですが、それまでは疑問視せざるを得ません。もし、実際にそうであれば、この場所こそ紅海横断の場所だったことになり、神が実際に「命令奇跡」によって超自然的に海の水を取り除いて海水の壁を支えたという結論が強く支持されることになるでしょう。もし、そうであったら、水を吹き払った強い風は海底を乾かす役割があっただけで、イスラエルの馬車が泥にはまり込んでしまわないような歩きやすい地面にするためだったと推測できるでしょう。(しかし、数百メートルも高い水の壁を説明するために、神の「命令奇跡」に訴えるのであれば、海底を乾燥させるのに、なぜ神が普通の風を利用したのでしょうか?)

これらの写真は http://users.netconnect.com.au/~leedas/redsea.html というウェブ・サイトから取りましたが、DVDにも使われています。それらは偽造されたと思わせる直接な理由は何もないのですが、この種類のドキュメンタリーの中では、詐欺っぽいものは確かにあります。このDVDでは言及されていないのですが、アカバ湾の海底にあるとされているこれらの物体を初めて公表したのは、ロン・ワイアットという人物でした。彼は他の「大発見」(例:ノアの箱舟)をも公表していますが、それらは明らかにいかがわしいものです。また、このDVDに登場するロバート・コルヌキ氏とラリー・ウィリヤムズ氏は以下のウェブ・サイトでは、自分の研究に関する問い合わせに対して非常に回避的だったと証言しています。http://www.ldolphin.org/sinai.html, http://www.ldolphin.org/franz-ellawz.html, http://www.ldolphin.org/franz-sinai.html

これらのウェブ・サイトに掲載されている記事には、紅海の横断をアカバ湾に、シナイ山を現代のサウジアラビアに位置づけることに対して、かなり説得力のある反論を申し立てています。フランズ氏、またその他の研究者も出エジプト記18:27を指摘します。そこには「しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った」と書いてありますので、彼らはモーセのしゅうとエテロがシナイ山から自分の国メディアンに帰ったことから考えれば、シナイ山はメディアン(現在のサウジアラビア)にあるはずがないと主張します。しかし、もとのヘブライ語では、「国」と翻訳された単語は「エレツ」で、これは幅広い意味を持つことばです。自分の土地(地域)から全地球までの意味の場合があるので、これだけでは決められないと思います。エテロが自分の土地に帰っただけという狭い意味もあり得るのです。

しかし、他の異論はもっと有力だと私は思います。以下の異論はハムフリズ説にも当てはまります。もし、紅海横断がゴシェンを出発して一週間後起きたとすれば、アカバ湾のどこかを渡るのに、毎日およそ50キロ進まなければならなかったことになります。若い人なら、そのような早いペースを続けることができたかもしれませんが、年寄りや子供を含む大勢の人々ではちょっと考えにくいことでしょう。体の弱い人は馬車に乗って進んだとしても、家畜に草を食べさせる時間が必要であったはずです。ですから、これはアカバ湾横断のどのシナリオにとっても大きな難点です。また、シナイ山が現在のサウジアラビアにあったとすれば、そこからカデシュ・バルネアまで11日以内で旅をするには(申命記1:2)、極めて早いペースを必要とします。もう一つの疑問点は、カデシュ・バルネア近辺を拠点とするアマレク人が、そんなに遠く離れたシナイ山にいたイスラエル人を攻撃するほど脅威を感じたのはなぜかということです(出エジプト記17:8-16)。(この異議は伝統的なシナイ山にも当てはまります。)

最近出されたもう一つのDVDは 『解読された出エジプト』(原題:“The Exodus Decoded”で、ヒストリー・チャンネル(History Channel)によって制作されました。ジェムズ・キャメロンとシムチャ・ジャコボビッチの解説を中心とするこのドキュメンタリーを観るまでは、かなり懐疑的でした。なぜなら、この同じ2人が2007年に放映された『イエスの家族の墓』(原題: “Jesus Family Tomb”)を制作しましたが、それは極めて偏ったものであったからです。しかし、この作品に関しては感銘を受けました。ジャコボビッチ氏はユダヤ人ですから、出エジプトの史実性に偏る傾向にあって、全ての人がするように、自分の信念を支持するように、いろいろな事実を最も自説に都合が良いように見せかけようとします。(このような傾向は、キリスト教に対して強い偏見を持つユダヤ人として、『イエスの家族の墓』という番組の中では、事実を曲解するように仕向けます。)それにしても、彼は、驚くべき証拠のリストを首尾一貫性のあるシナリオに綴り合わせて、実際に何が起きたかを描いています。

ジャコボビッチ氏は、ハムフリズ氏と似たようなアプローチを取りますが、出エジプトのタイミングをハムフリズよりかなり早い時期とし、十の災いを紀元前1500年ごろに起きたとするサントリニ島の大噴火による自然現象に関連させます。しかし、この大噴火の年代測定に問題があります。というのは、ジャコボビッチは、彼のシナリオに合わせるために、一般的に認められている年代より150年ほど後の時代としなければならないからです。しかし、現代の科学では、その年代測定を正確にできるのです。グリーンランドの氷床の年層に含まれる火山性粒子の分析で分かります。そのような研究報告を私は見つけることができませんでしたが、紀元後79年のベスビオ火山の大噴火で噴出された粒子がその年の氷の層で検出されました。これらは木の年輪と同じように直接的に数えることができます。他の文献によると、サントリニの大噴火は紀元前1650年で、この年代はそのような年代測定法によって確かめられたはずです。とにかく、このような主張は簡単に検証できるものです。

例えば、サントリニとの関連が正確ではなくても、ジャコボビッチ氏が提出した他の考古学的証拠は極めて重要です。その中では、ヨセフの年代にゴシェンに当たる地域に大勢のセム族がいた事実を裏付ける直接的な証拠があります。これは紀元前1500年ごろに起きた「ヒクソス追放」と呼ばれている出来事と関連があります。ヒクソスという民族は明らかにセム系の民族で、長い間エジプトで奴隷となっていたことが証明されています。ジャコボビッチ氏がこの人たちこそ出エジプトのヘブライ人だったという説得力のある説明をしています。

サントリニ噴火との疑わしい関連とともに、彼が考えているシナリオに対して一番問題があると私が感じるのは紅海横断の場所です。他の多くの学者と同じように、ジャコボビッチ氏は現在のスエズ運河が走っている場所にあった、いくつの浅い内陸の湖のどれかに位置づけます。もし、横断をアカバ湾に位置づけるシナリオが不合理なほどの速いペースで移動することを必要とするなら、スタート時点にこんなに近い場所に位置づけることは逆の理由で問題にぶつかります。もちろん、ファラオが考え直して、逃げようとしていたイスラエル人に追いつくまでの所有時間の計算方法に関する推定を調整することによって、そのタイミングを常識的範囲内にできるのですから、このようなシナリオは必ずしも不合理なものではないのですが。

ジャコボビッチ氏は、旅のペースを一日平均15キロと推定をします。 出エジプトの出来事そのものがどんなに困難なものだったかを考えると、それは理不尽に遅いペースではないと思います。シナイ山から何日の旅であったかが聖書に記録されている特定できる3カ所から、この平均ペースで進めたと想定して、三角測量的に三つとも重なり合う地域を特定しました。それはシナイ半島の東北部の狭い地域に限られます。その地域には高い山も歴史的に活動していた火山もありませんが、彼によると、平地より二百メートルほどそびえる一つの山が条件に合致します。頂上に近いところにある岩の隙間から湧き出た大きな泉の痕跡もあります。あまり目立たない山に見えますが、本当のシナイ山はそれほど壮大な山ではなかった可能性があります。

これらの様々なシナリオを考えた私の結論は、それぞれの仮説は何かの点で、聖書の記録と合致するとは考えにくいところがあるということです。聖書に書いてある通りに出エジプトが実際の歴史だったと確信していますが、現代の私たちが直面している問題は、聖書時代の地名や記述された地形を特定できるほどの考古学的な証拠が不十分であることです。ですから、紅海横断の場所やどの山が実際のシナイ山であるかを特定する作業が妨げられています。これらのドキュメンタリーや本に提出された興味深い証拠の立証(や反論)を望んではいます。しかし、中近東の緊迫した政治的状況がある限りは、これらの史事性やその場所の特定を確証するような進歩があるとしても、それが敵によって政治的に利用されることがほぼ確実ですので、近い将来にそれぞれの仮説を検証する十分な考古学的調査が実現できることには、あまり楽観視できないと思います。

Updated: 2008 年 01 月 04 日,05:21 午後

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