マジック或いは奇跡?


マジック或いは奇跡?

ヨハネ書14: 1-14

(2014年6月29日、神戸ユニオン・チャーチ)

数年前アメリカに短期滞在中、車で出かけている時に、ラジオを聞いていました。その話題はたまたま、様々な社会が発展(発展:テクノロジーの発達と定義)をどのように受け入れてゆくかを決定する文化の役割と言うものでした。そこでラジオ番組のゲストはアフリカやカラビアンで普通にあるマジック(魔術)(例えば、ブードゥー教:多神教の呪術)の文化を話していました。それで、番組のホストが「魔術を信じる人にのみに効果はある」というコメントをしたのです。また、彼はクリスチャンがイエスは死から蘇った神の子という信仰とその魔術礼拝と何の違いがあるのだろう或いはキリスト教徒は本質的にブードゥー教と同じような呪術信仰なのだろうと考えていたのです。

このトーク番組で、ゲストはこの考えに対して、残念ながら何の疑問も投げかけませんでした。私ならこのトーク番組に電話して、この2つに著しい違いがあることを説明できたのですが、 携帯電話を持っていなかったので機会を逸しました。この疑問については私自身時間をかけて考えていましたので、どうしてもそのまま放置しておくわけにもいかないのです。なぜなら、これら2つの違いがはっきりと理解できることは健全な信仰を持つことにつながる、重要な議論となるからです。

では、マジック(魔術)と奇跡との違いはなんでしょう? 最初に、言葉の定義から始めます-今日多くの話題を議論するうえでしばしば定義があやふやなままなのです。マジックというと何を意味しているのでしょう? また、私たちが奇跡だという時には何を意味しているのでしょう? ラジオのトーク番組のホストは、これらの定義が頭の中で明確に出来ていないようでした。このホストにとって、イエスの奇跡と ブードゥー教のような魔術現象はよく似たもので、そんなに大きな違いがあるとは思ってもいないようでした。

それでは、マジックという言葉を見ていきましょう。この言葉は違った2通りの意味があります。ご存知のように、私は皆を驚かせるような2つ3つの手品(マジック)が出来ます。 マジック Ed(KUCメンバーのマジシャン)のように行かないまでも、ちょっとした練習で、簡単に大変おもしろい手品が出来るのです。このような手品は手さばきや錯覚のからくりを利用したので、ここで言う魔術とは違うものです。NHK番組で有名なマジシャンが驚くようなイルージョン マジックを披露し、その種明かしをしていました。そのからくりはすごく単純で、少しの備品の準備で誰でも簡単にできるものでした。種明かしされていないと、手品は不思議な物で感動します-本当の魔術のように。 この種のマジック手品は、あくまでも娯楽、エンターテイメントです。たとえ、種明かしされていなくとも、手品には超自然の魔術が働いているとは少なくとも考えないし、単なる錯覚くらいにしか思わないですよね。

別の意味のマジック-私は“真のマジック”と呼んでいます-これには超自然的なものが含まれています。もちろん、2つが混在した曖昧な領域がありますが、摩訶不思議、超自然と言い張る多くの現象も、後に洞察力のある観客によって超自然現象が実は、人の手が加わった作業で、そのからくりを見破られます。スプーン曲げとか、音がする場合は死者との交信の心霊パワーといわれるものは、単なるまやかしです。

当然このようなすべての心霊現象は人間のごまかし行為でしかないと考える人はいるでしょう。ある意味、私もその様な現象は最終的にまやかしであると思いますが、すべてが人によるペテンだとは思いません。言葉を変えると、世界の中で超自然的な力が働くことは信じます。しかも、よい方にも悪い方にも働く力です。それを証明できるかと言われると、誰も出来ないでしょう。 それはまるで、非物理的な証拠のようなもので、神の存在、或いは不在について明確に実証できるような科学的な検証方法もありません、また両方を証明する絶対的な証拠もありません。人は真のマジックの存在に関する根拠となる証拠或いは矛盾する証拠を見て判断するしかありません、要するにその人の信仰によって各人が決めることです。

私が大学の学生だったころ、キャンパスに心霊者が話をしに来ました。私は心霊者が何を話すのだろうと、咄嗟(とっさ)に話を聞きに行きました。彼は霊界と交信し、将来何が起こるかの情報を得ることが出来ると主張するのです。これを証明するために、彼は完全に目隠しをして、その間に私たちの将来について知りたい2点に関する質問を書き、ミドルネームも含めて記名します。 彼は学生達にその紙を小さく折りたたんで、回ってきた鞄の中に 紙を入れるように言いました。その後、彼は、鞄の中に手を入れ、紙片を取り出し、折りたたんだ紙を広げることなく名前を読み上げ、質問に対する回答を口にするのでした。

私は、もちろん、観客の中で呼ばれた人は“さくら”だと疑っており、実際は無作為に取り上げられてはいないのだろうと思っていました。それが、私の名前が読み上げられるまではね。しかも、彼は私の質問の内容まで知っていたのです。言うまでもなく、私はかなり動揺しました。私がうまく騙された、とてもあり得ないことですが、と想像する可能性はありました。30,000人の学生を収容するマンモス大学で、その集会に出席している他の人さえ私はほとんど面識がありませんでした。しかも、私は集会で起こっていることを注意深く観察し、紙に書くときは誰からも私が書いている内容を見られないように書きました。この集会は典型的な講義室で行われ、天井は低く、隠しカメラが設置できるような状況ではありません。何か、ステルステクノロジー(軍事用偵察機)を用いて私の名前と質問の手掛かりを誰かにつたえたと考えられなくはありませんが。それで、隠しイヤフォーンを通して情報を入手し、まるで霊界と交信したかのようにふるまっていた、と考えることも可能です。この可能性をすべて否定することはできませんが、私が思うにそれは起こり得なかったと思います。

しかしながら、もし私がいかなる世界の超自然現象の存在さえ拒絶するような、超自然主義(自然の法則に基づき説明する)者であったなら、前述の結論しか導き出せないでしょう。この人は、真の心霊パワーを持っているとの結論に達しませんでしたが、恐らくこの人は霊界との交信が本当にできたのではないかと考えています。加えて、心霊現象といわれる一連の多くは騙(だま)しであると確信していますが、少なくともその中のある現象は本物である可能性があると思います。例えば、UFO の話も、疑いなく作り話です— 恐らくほとんどの話がそうです —一方、エイリアンに連れ去られたというような話を信じている方々がいることは知っています。彼らは現実に経験し、面白おかしい話を作り上げたようにも見えないのです。 “E.T.” は信じません。たとえ、知能優秀な生命体がどこかにいようとも— 私たちの知識が増すと、ますますその可能性は非常に小さいことが分かります— 神聖な物理の原理によると、いかなる肉体的な存在は惑星間の長距離を渡り地球に到達することが出来るなど不可能なのです。我々の周り数光年先の距離にある星には生命体がないことがすでに分かっています、つまり生命体のある最も近い世界から宇宙飛行船が長距離を横切って地球に到着しても何十年、何百年いや何千年もかかるでしょう。

多数の科学者が様々なUFO 現象を探求しました、統計によると、自然では説明できない現象を目にした人々は、例外なくオカルトに深く傾倒しているという人もいます。従い、その様な経験はまさに本当なのでしょうが、実は物理的な事象ではなかったのでしょう。言いかえると、悪霊の力により呪いをかけて人々をあたかも物理的に経験したかのようにだまして信じさせているのです。

UFOの長い話しは置いといて、奇跡とマジックとの違いの議論に戻り、この問題の核心に迫っていきたいと思います。宗教的な意味合いでは、マジックとは人の利となるように霊力を駆使する行動です。人により創作されたすべての宗教はこの特徴の要素が強く現れています、またクリスチャン教会もこれに対して免疫を持っている訳ではありません。魔術的な呪文や祈りに典型的に見られます。適切な訓練を受けた人たちが霊力を発揮し、ある予測を行う特定の儀式が基本的な概念です。これは状況によって大きく違いますが、根底にある巧みな操作という原則は同じです。天気の神に対しての雨乞い踊りは、適切な雨を神に乞うためのもので、ブードゥー教の呪いは敵に害を与えるように悪霊を操作するものです。

日本の神道において神主(かんぬし)がおり、それは神と主と言う漢字で出来ています。キリスト教の理解では、2つの漢字をつなげると神は主なりになります。神道では神々の主という解釈です — つまり、神主とは「神を操作する者」なのです。これが魔術の本当の要素なのです。望むものを与えるために地元の霊力を巧みに操作することが真の欲望なのです。

前述したように、クリスチャンと言えどもこの誘惑に対して免疫を持っている訳ではありません。我々の祈りも時に呪術のような性質を持っています。クリスチャンが正しく祈る或いは熱意のある信仰を持って祈ると、神は何かしら行動を起こされる—つまり、心に願望することをいただけるという考え方。— たとえどんなに微妙でも— これは祈りの力の乱用です。人が巧みに神を操作して臨むものを手に入れられるような神ではありません。

神は聖書の中で多くの約束をされ、私たちはそれらを信仰告白によりいただけるのです。例えば、最後にイエスが弟子たちに与えた御言葉で、 ヨハネ14:13-14「またわたしは、あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」と記載されています。さて、ここで文字通り読んだ個所を参考資料なしに解釈すると、まるで「金額が書かれていない小切手」のような約束ですね。

教会の中でこれを極端に解釈し、祈りをまるで神聖な自動販売機のような扱いをしています。祈りのコインを自動販売機に入れ、レバーを 下げると、祈った物が転がり落ちてくる。 かつて私はラジオ説教者がこれに類似した神の祈りについての話しをしていた事を聞いたことがあります。これは、聖書が教える祈りに対してバランスが取れていない解釈です。これでは、神社に行って、大学受験に合格しますように、仕事が成功しますように、よい縁結びがありますように或いはご利益がありますようにと、神々の主である神主に御祈祷をお願いするのとあまり変わらないじゃないですか。

呪文のような巧みな操作を排除し、全てにバランスを保つ鍵は、我々の小さな世界から限られた状況の中で祈るとき、神は「大きな図面」の立ち位置から機能されていることをいつも肝に銘じておくことです。聖書が言うようにイザヤ55:8-9「わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」実際、「彼の道は、私たちの道より高い。」このように、神の祈りの回答は我々にとって一時的な慰めのためではなく、長期的な観点に立った包括的な戦略に基づいています。神は我々の人生の中で時には奇跡を起こすこともありますが、それは決してエンターテイメントではなくまた、自己中心的な目標のためではありません。神の奇跡は必ず目的を達成するために成されたことです。

イエスによって弟子たちに成された約束「またわたしは、あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう。」には目的が明記され条件付きです— つまり「父が子によって栄光をお受けになるためです。」です。もし、神が私たちの病気を癒されたのならば或いは人生の試練を解決されたのなら、それは神の栄光のためであり私たちのためではありません。 もし、神が癒しを遅らせたり或いは望んだ通りに祈りが答えられない場合は、神の長期的な目標に仕えることです。— 我々はこのことを理解するのに四苦八苦し、受け入れがたいものとして捉えます。車のバンパーに張り付けてあったスローガンを思い出しました「神は安全な着地点は約束するが、穏やかな航海は約束していない。」この安全な着地点は我々の存在の最終ゴールであり、一方ゴールに向かう通過の道筋は相当な乱気流があるかもしれません。我々は神に何も要求することはできません、また、神を呪術などで操作はできません。にもかかわらず、祈りが聞かれると信じ信仰により、私たちは神に我々の必要及び他の方々のために継続して祈るのです。しかし、神の答えは必ずしも「よ~し、分かった問題なし。」と言うわけではないことを覚えておかなければなりません。神は周りの状況を通して神の答えは「今は否。わたしの時が来るまで待ちなさい。」と示します。

ここまでで、マジックについての概念がより明確になったでしょうか、それでは奇跡について短く見ていきましょう。奇跡とは何でしょう? 奇跡において自然法則が一時的に停止する必要があるのでしょうか?  その必要ななさそうです。奇跡の中にはこのことが必然と見えるものもありますが、奇跡はしばしば自然現象で説明のつく単純なものもあります。しかしそれが起こるタイミングが実に奇跡的なのです。 実際2つの典型的な奇跡が聖書に記載されてあります、また3つ目として「持続する奇跡」を挙げるなら、神が維持する宇宙に流布する自然法則。最初のタイプは明らかに自然法則を破ったものです。 イエスが水の上を歩くとか、少しのパンで5千人を満腹にする— 奇跡の中でも最も重要なのは、イエスの死から肉体を伴った蘇りです— 聖書にあるこれらの奇跡の例は、自然法則が一時的に停止する必然性があるようです。もちろん、ある人々はこれらの奇跡を何とか自然法則で説明しようとします、例えばイエスが水の上を歩いたように見えたのは、水面の下にある砂の道筋を歩いただけで、まるで水面を歩いているように見えたのだろう、と解釈します。

自然法則の停止が、その人のもつ哲学では受け入れがたいかどうかは、その人が選択できるのです。しかし、問題はこの有限の世界に創造主が自然法則をもたらしたのならば、神の目的のためにどうして自然法則を一時停止したり、直接介入したり出来ないのでしょうか? 神が自分で決めて自らの法則を破るならば、それは理にかなっていると思うのです。ここでも、このことを直接証明できる何物もありません。神が奇跡を起こすことを証明しようとすることは、神の奇跡は我々の都合によって成され、我々がそれをモニターし確認できるということを結果的に強要しているのです。これは奇跡をマジックに下落させてしまい、そこで、我々が神を操作しようとするのです。奇跡と主張する事象に関しては、その証拠を見て、その証拠は詳細な検証に耐えうるかどうかを見極めることです。 たとえ、万が一、奇跡だとしても、奇跡が現実のものであることを受け入れる信仰の要素が必須になります。

2つめのタイプの奇跡は自然法則に違反することはないが、時と場所が極めてあり得ない場合です。エリコの城壁が角笛の音で崩れ落ちたことは、自然法則の大規模地震によって説明が出来ます。そうしたら何故、神が命じたようにヨシュアと彼の戦士が7度町を回り、角笛を吹きならした時に地震が起こったのでしょうか? ある意味でこのタイプの奇跡も自然法則に対して神の介入が必要でしょう、なぜなら神は適切な時まで力を蓄えておかなければなりません。例えばラザロが死んで墓に入り4日目に生き返った場合、自然法則に反することを判定する方法はありません。奇跡的なタイミングで起こった奇跡は単に通常の自然法則として理解されないでしょう。自然法則の結果から明らかに逸脱して起こる事象があるのです。

自然主義の世界観のみではこれらの事象が受け入れられないのです。たとえ、もしある人が最初に事を動かすために超自然的なことがあったと受け入れても、世界観が神の成される可能性について限界を強いるのです。たとえ、もし創造主が存在すると受け入れても、自然主義の世界観において、神が最初に設定した自然法則に神が背くことが出来ないのです。 このような観点を取る根拠は一体何なのでしょう? 哲学的な魔法の杖を振り回して、どのようにして神の可能性について合法的に限界を設けることが出来るのでしょう?

自然主義が起こったのは歴史的な背景がありますが、最終的な分析によると、聖なる神の御前で自らの思いや行動の釈明の義務から逃避することへの願望が自然主義の根底にあるとされています。もし、最初にそんな神など存在しないと決めつけたら、内なる良心の駆り立てを無視し、自らの善悪の水準を決める方がたやすいのです。 基本に立ち返ったなら、自然主義は回りまわって別の巧みな操作に結局はたどり着くようです。魔術的な世界観において、人は霊を操作し言いつけ通りにさせると信じています。自然主義の世界観では、操作は神の御前で釈明という居心地の悪い結末から逃避するために人が限界を設けた形を取っています。言いかえれば、自分の外側の霊と反目するので、内なる霊を操作する方法です。マジックは超自然を操作することで、自然主義は自然を操作する、この2つを対比して考えることもできます。

私が言いたいことは、自然主義は偏見のない心ですべての証拠を見ることが出来ず、むしろ「どんな結果になろうとも、思い通りにやるのだ。」と言う態勢を取るのです。その代わり、自然世界及び人間の経験を観察して導き出されたどのような結論を許容するのか、人工的に制限するのです。ですから、巧みな不正操作のようなものです。

クリスチャンの世界観はこの2つの世界観が分布した丁度真ん中に位置します。それは両者の要素を兼ね備え、しかも両者と緊張感を持っています。クリスチャンの世界観は自然と超自然両方の現実を受け入れるのです。一方ではクリスチャンの世界観は、神は操作される方ではなく、また被造物によって管理される方ではないという観点から魔術的な世界観と著しく相違を示しています。しかしながら、神以外の霊的な本質の操作は可能であると認めていますが、その様な操作は神によって禁じられています。 神が私たちに立ち入り禁止を設けている理由として、私たちがまさに霊の管理者だと信じてしまう可能性があるからです、実はその反対で霊によって管理されているのですが。このように私たちが創造主ではなく霊に大きく依存してしまうことになります。

別の面では、クリスチャンの世界観は神の可能性を制限しないという観点で、自然主義と大きく違っています。「神は彼の造った自然により制限されている。」を言いかえれば、神はまさに自然法則に反することは出来ないのだということです。 神は嘘をついたり、人をだますようなことは出来ない、それは、そうゆうことをすること自体、神か神であることを否定するからである。 神は御意志によって創造が出来き、神が作った自然法則を停止することもできるし、超自然的と呼ばれる奇跡を起こすこともできる、しかし聖書から明瞭に理解できる原則は、奇跡を起こすには、神の全体の御計画と矛盾しない特定の目的があるということです。

この2つの正反対の世界観と著しく違ったクリスチャンでも、我々はどちらかの側に陥らないよう誘惑に打ち勝ってゆかなければなりません。実際、すべての場合において、適切なバランスを取らなければなりません。 一方では、祈りの不正操作という誘惑に対して守りを固める必要があります。神が主権をもち、我々はもたないのです。 神は 陶器師で、我々は単なる粘土 なんです。もう一方では、神が出来ることに対して限界を設定しようとする誘惑に対して守りを固める必要があります。我々は神のなさる新しいことに対して広い心をもち、同時に問題の事象が神の御言葉と一貫性を持っているかを見極め、霊を確かめるのです。

それで、どっちなのでしょう? 奇跡かマジックか? クリスチャン信仰には魔術的な要素は全くありません、しかし、奇跡は信仰の核心を担っているために、奇跡に対しては心を開いていなければなりません。

祈りましょう。 御在天なるお父様、私たちが何らかの魔術的なものに信頼を置き、まるで自分が支配しているような錯覚に陥ったことをどうか許して下さい。その代わりどうかあなたが我々に成される奇跡に心をもっと開けられますように。また、あなたが私たちに成されることに対して制限を設けたりしたことを許して下さい。どうか、信仰に適切なバランスを維持できるように助けてください。イエス様の御名を通して祈ります。 アーメン

Updated: 2014 年 07 月 04 日,05:13 午後

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