人権とは何か


「人権」とは何か?

私は大阪にある部落解放センターに赴任したのは2007年の10月で、その時から、「人権」という課題を中心に、特にこの日本の社会における部落差別の問題と取り組んできました。この部落差別の問題について、多くのことを学んできましたが、もっと広い意味の「人権」についていろいろ考えてきました。けさは、この課題を聖書的世界観から取り上げたいと思います。「人権」ということばは具体的にどういう意味か,そして、それらの権利は何に基づいているかということを考えて行きたいと思います。   では、この1000円札を考えましょう。物質的な意味では、これは特定の模様が印刷された特殊の紙切れだけですが、日本政府が保証しているため、1000円の価値があります。そして、このもう一つの紙にも「1000円」と書いてありますが,明らかに違いますね。これには同じ1000円の価値があるのでしょうか。この二つを交換する人がいますか。いないはずですね。なぜかと言うと、このいわゆる「1000円札」には何の保証も付いてないからです。近くのコンビニで、買い物するためにこれを使用としたら、笑われますね。何に使えるかと言いますと、例えば、キャンプファイアーの火を起こそうとしたら、よい利用方法が考えられます。しかし、このもう一つの1000円札をそのために利用することがあるとしたら、それはよっぽどの窮地に追いやられたときだけでしょう。

では、この本物の1000円札の価値について考えましょう。この札が使われるうちに,だんだんと使い古されてしまい、汚れが付いてしまいます。そして、場合によって、破れることもあります。また、私がわざとこのようにくしゃくしゃにして、踏みつけることもできます。まあ、これ以上この千円札をいじめないことにしましょう。それでは、乱暴な扱いによって、また自然に使い古したことによって、この札の価値はどう影響されるのでしょうか。汚れ具合によって、それは800円になるか、また、もっとひどい場合、500円の価値まで下げられるのでしょうか。いいえ、この札の価値はどれほどきれいな状態であるかによって決まりません。本物の1000円札だと確認できれば、どんな状態になっても、価値は1000円のままですね。

では、この同じ原理を人間としての価値に当てはめることができるのでしょうか。その答えは、その人間としての価値の根拠はどこにあるのかということにかかっています。つまり、自分の「世界観」で決まります。聖書的世界観の立場から言えば,この類推はぴったり当てはまります。聖書的世界観では、私たち、一人一人の人間としての価値は何によって決められているのでしょうか。この千円札を作った日本政府の保証によって、千円の価値があると同じように、私たち人間に究極の価値を与えてくださるのは私たちをお創りになった神様です。政府が出している通貨の場合、いろいろの単位があり、それぞれの価値が違います。また、経済状況によって、この1000円札という特定の単位でも、購買力としての価値が変わりますね。人間を同じように実利的に考える人は、それぞれの個人に違う「価値」を与えるのです。そのようなシステムでは,社会に大きく貢献している人なら、一万円札のようなものと見なされ,橋の下に住んでいるホームレスの人間の場合、まるで一円玉のように考えてしまいます。

同じように,自分自身をどのように考えているかということになりますと、特に不幸な人生を送っている人なら,自分は価値のない人間として考えてしまうことはよくあることです。また、例えば,病気や怪我によって、障碍者となってしまう場合,どうなるでしょうか。一般社会では、人間がよく実利的に見られるので,何かの障碍を抱えている人は自分をもそういう目で見てしまうことがよくあります。「もうだめだ。皆に迷惑をかけっぱなしだ。価値のない人間だ。」

言うまでもなく、そのような見方は神が人間の価値をどう見ておられるかと全然違います。「神の国」のためにどれほど貢献できるか、又その他の実利的な基準によって、私たちの人間としての価値を見なすのではありません。私たちは何をするかということによってなのではなく、私たちはだれであるかによって価値づけるのです。では、私たちはだれでしょうか。聖書によると、人間は「神にかたどって創られた存在者」であるからこそ、神が私たちを価値のあるものとして見なすのです。それこそ私たちの人間としての価値の根拠となるのです。その上、「普遍的人権」の揺るぎない土台となりうるのはこの思想だけです。この「人権」という概念を正しく理解するために、まず「人間」と「権利」、そして、それらの「権利」は何に基づいているかをきちんと定義しなければなりません。ですから、「人権」とは何か、そして、それらの人権の根拠となっているのは何かということをまず考えましょう。

来月、世界の多くの国は国連の「世界人権宣言」の60周年の記念を祝います。この文書は存在する文書の中で最も多くの言語に翻訳されたもので、既に360以上の翻訳があると国連のホームページに書いてありました。この事実を軽く考えるつもりではありませんが、この主張を見たとき、最初に頭に浮かんできた疑問は「聖書は?」ということでした。インターネットで調べたところ、聖書を翻訳する「ワイクリッフ宣教団」という組織のホームページにたどり着きました。それによると、聖書全体は438のことばに翻訳され、その上、新約聖書全体はそれ以外の1,168の言語への翻訳が完成されています。さらに、現在進行中の翻訳プロジェクトは1,953もあります。それは世界人権宣言の翻訳を遥かに超えることです。しかし、世俗的な文書としては、世界人権宣言の翻訳数は最高で、それはとても有意義なことだと思います。

この宣言には30の条項があり、それぞれはすべての人間が生まれながら、生得権として取得している権利を明記します。この文書は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」ということばで始まります。この文書が書かれたのは、国連自体は4年目に入ったばかりの時でした。第2次世界大戦直後に国連が設立された際、それぞれの政府の代表者たちは「人間であることはどういう意味か」ということを議論したそうです。しかし、議論が対立のままで終わり、結局マルクスとモーセ、またダーウィンとダビデを両立できないという結論になっただけです。無神論と有神論の哲学的前提は水と油のようなことで、混ぜ合わせることのできないことです。そして、世界人権宣言の賛否を投票した時、ソビエト連邦の国以外、すべての国が賛成しました。共産圏の国はなぜ受け入れられなかったかと言いますと、彼らの基本的世界観がその「人権」という概念そのものと両立できなかったからです。マルクスとモーセは基本的に矛盾し合う思想です。

この基本的な世界観の相違に関しては、一番中心的な大前提は人類の起源をどう説明するかということで、それは他のすべてのことの決め手となります。マルクスとダーウィンによると、人間は偶然な結果だけで、私たちを裁く創造主はいないのです。しかし、モーセとダビデによると、私たちは単なる自然界の偶然な結果ではなく、神が目的をもって計画的に創造した被造物で、肉体的に死んだ後も、永久に存在する霊魂を持つものです。

この世界観の相違は結局二つの基本的な選択肢として理解できます。それによって、他のすべてのことが左右されます。一方では、無神論的唯物論の世界観があり、基本的な現実としては、物質とエネルギーしかないと考えています。この考え方は有名な天文学者であったカール・セイガンのことばで、次のように説明されました。このことばは、30年ほど前に作られた「コスモス」というドキュメンタリーにあったことばで、彼はこう言いました、「宇宙は現存するすべてで、そして、今まで、またこれからも存在するすべてです。」

他方では,宇宙を超える、そして、私たちの存在の源となった非物質的な何かが存在していることを前提として考える有神論的世界観もあります。聖書的世界観はこのもっと広いカテゴリに含まれている一つに過ぎませんが、きょうは、人権について、この世界観を述べている聖書は何を言っているかに焦点を合わせたいと思います。そして、人権の立場から、この二つの基本的世界観の違いをも考えたいと思います。 世界人権宣言に対して、部分的に異議を申し立てるグループがありますが、この宣言に述べられている人権という概念と最も両立しにくい世界観は無神論的唯物論だと思います。北朝鮮のような共産主義独裁国家の場合、明らかにそうですが、この陣営に属する西洋のインテリたちは自分の世界観が人権と相反するものであると言われたら、憤りを感じるのでしょう。どんなに頑固な無神論者であっても、「人権を支持する」と言い張ると思います。ですから、無神論と人権が結局相反することであるという私の主張はなぜそう言えるか説明する必要があります。

まずは,「宇宙は現存するすべてで、そして、今まで、またこれからも存在するすべてです」というセイガン氏のことばが現実だとすれば、どういう意味になるか少し考えてみましょう。そうなりますと、超自然的な存在者は全く存在しないことになり、宇宙の外にある何かのおかげで存在するようになったのではなく、ただ存在するだけだという「原因なし」のものになります。もしそうであれば、私たちの存在を引き起こしたのは「偶然」だけで、究極の目的や意味は宇宙のどこにも存在しないことになります。偶発する行き当たりばったりのできごとが長い時間の流れの中で自然的プロセスによってのみ私たちの存在が説明されることになります。そして、宇宙そのもののいわゆる「熱の死」が免れない事実ですので,その存在もある時点で成り立たなくなり、私たちのような意識のある存在者も完全に消えて行きます。そのような究極のシナリオはダーウィン主義進化論が必然的に要求することです。

ですから、このように、彼らの考え方の論法にとことんまで従って行けば、人間が原始的動物から偶発的に進化したものですので、人間の文化や社会も同じ「適者生存」の原理によって進化してきたという結論に達します。従って,それぞれの原始的な社会が作り上げた独自のルールは、社会の生存を促す「実用性」の度合いによってできたことになります。何が「正義」であるか、何が「不正」であるかの根拠はそのような実用的なことだけにあり、人間を超越する何かに基づいているのではないことになります。こういうわけで、「人権」は結局「弱肉強食」の原理に基づいていることになり、強者は弱者を搾取したり切り捨てたりすることは当然だということになります。

唯物論者たちは反論として、おそらく、私たち人間が「弱肉強食」を超えたところまで進化してきたので、社会が皆のために機能できるように、社会のルールを合理的に決めて行けると言うと思います。しかし、倫理的な面において、彼らはいわゆる「借用した資本」を無意識に利用しています。自分の思想には人権の根拠となりうることは実際には何もありません。それぞれの社会の人権に対する考え方はその社会の中で発展してきたものですから、ある社会は他の社会が考えている人権を守らないことを非難する根拠はどこにもないのです。

唯物論者が「借用した倫理的資本」を利用しているということはどういう意味か、これもまた説明する必要があります。例えば,もし人類の長い歴史が無神論主義唯物論に支配されていたとすれば、「世界人権宣言」がそれでも作られたと思いますか。「世界人権宣言」には、人権が「神」とか、宗教的原理に基づいているというようなことを言及していませんので、そういう意味で,世俗的な宣言だと言えます。しかし、この文書は西洋文化の土台となっている聖書的世界観に基づいています。ですから、宣言の文書では,これらの人権は何に基づいているかには触れてはいないのですが、「人権」という概念そのものにほのめかされています。

私たちは普遍的な人権があることを直感的に分かっています。なぜなら、人間は単なる動物以上のものであることを知っているからです。これは神がすべての人間の心に刻んだ良心の一部なのです。ローマ書2:14-15に書いてあるように,「たとえ(ユダヤ教の)律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば,律法を持たなくとも,自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」しかし、唯物論者はこのことを全部否定しなければなりません。まずは、人間の「心」は肉体的な脳の中に起こる化学反応や電流などのことだけで、このような超越的な法則(また、律法)を書き記す「心」は実際に存在しないと考えています。その上、初めから、その超越的法則そのものも存在しないはずです。なぜなら、それらを私たちに伝える神もいないからです。この思想によると、そのような「法則」はそれぞれの文化が進化する過程の中で自然に現れただけです。

もし、それが事実であれば、ある文化の「道徳」は違う文化が作り上げた、相反する道徳より「正しい」とは言えないはずです。もちろん、ある行為の場合、たとえ、自分の利益のために、自分の社会の誰かを殺害するような場合、どの文化でも同じ結論を出しているはずです。しかし、具体的に、殺人をどう定義するか、また、「殺してもいい」と「殺してはいけない」というカテゴリにだれを入れるかは文化により違いが出てきます。つまり、無神論主義唯物論の立場から言わせれば、それぞれの文化のルールが自然に進化したので、ある文化の道徳が他の文化の道徳より優れていると判断する根拠はなくなります。たとえば、ナチスドイツが彼らの思想の前提に基づいて、ユダヤ人を絶滅させようとした試みに対して、 無神論主義唯物論者はどういう理由で反対できるのでしょうか。彼らの哲学的枠組みの中では、それが悪だと何を根拠に言えるのでしょうか。彼らはそれが悪いことだとだれでも「わかる」はずだと反論するでしょうが、そうするためには、彼らは有神論の世界観から思想を借用しているのです。それは先ほど言った「借用資本」のことです。自分の世界観の中で、それを根拠づける方法はないのですから、そういうことを主張することは根本的に矛盾しています。

二つの1000円札のたとえ話をもう一度考えましょう。彼らが他の世界観から「倫理的資本」を何も借用しないで、自分の世界観の枠組みの中からのみこの二つの1000円札を判断しますと、片方はもう一つより優れていると言えないはずです。つまり、それぞれが人権を例証するという立場から言えば、この本物の1000円札は神にかたどって創られた人間としての価値に基づいている人権で、このもう一つの偽物の1000円札は基づくものが何もない人権のようなことになります。結局、唯物論の世界観はそこに至ってしまいます。

最近、欧米の多くの国では、この世界観がかなり影響を及ぼしています。先月、あるブログが最近のイギリスの新聞に述べられたことについて意見を述べました。それはイギリスの「卓越した道徳的哲学者」が安楽死について言ったことに対することでしたが、この唯物論の世界観がどういうことにつながってしまう恐ろしい例です。その新聞によると、その哲学者は認知症にかかっている老人が社会の重荷となっているので、安楽死を選ぶべきだと言いました。そして、そういう人たちは限られた資源を浪費しているので、彼らを安楽死させる特殊の免許の制度を作るべきだとまで表明しました。これに対して、イギリスの人権保護団体のスポークスマンが次のように反論しました。「安楽死は選択の自由として勧められてはいますが、あの考え方では、これは死ぬ義務にすぐ発展してしまいます。」

この議論に対して、そのブログでは次のように書かれていました。「西洋の文化はこんなに堕落してしまったのか。この話は世界観がどんなに重要であるかを示す衝撃的な例ではないでしょうか。全ての人間のいのち、それはまだ生まれていない胎児から、認知症の老人まで、一人一人神にかたどって創られた存在者であるか、それとも人間は道徳的な意味において、昆虫と変わらない立場にある、偶発的にできた存在に過ぎないものであるかのどちらかです。私たちが選ぶ答えは社会の中の弱者が大事にされて擁護されるか、それとも、邪魔者と判断されたら、安楽死させるかの決め手となってしまいます。キリスト者として、私たちがこの考え方を阻止するように強く抗議する必要があります。」

日本の社会には、そのような考えはどこまで浸透しているかよくわかりませんが、昔の日本では、「姥捨て」ということが実際にあったことで、再びそういうことになることは十分考えられます。ですから、こういう例は「世界観」がどれほど重要なことであるかを証明すると思います。価値観に関係するどんな課題であっても、自分の世界観の土台となっている前提はその結果を決めてしまいます。こういうわけで、「世界観」という観念、そして、「人権」は本当に何に基づいているのかということをよく理解する必要があると思います。

最後に、聖書は人権について何を言っているかに触れて、締めくくりたいと思います。「人権」ということばそのものは聖書に出てきませんが、人権の根拠となっている原理は聖書全体に述べられています。聖書が教えていることは、私たち人間は神にかたどって創られたものであるからこそ、生まれながらの価値があるのです。その本質的な価値の根拠として考えられる他の基準があるとすれば、何かの形で自分の功績や可能性にかかってしまうことになります。しかし、神が私たちに伝えたのは、私たちの人間としての価値は自分がだれであるかということだけに基づいていることで、他の理由に根拠づけられていないことです。こういうわけで、あらゆる差別がこの根本的な原理と相反する事で、神の前の大きな罪です。なぜなら、神の定めによって本質的に価値のあるものを軽蔑することになるからです。

神は私たちをどれほど価値づけているのでしょうか。ご自分の神としての特権を一時的に放棄して、人間の形をとって、私たちのために十字架の上で命を捧げるほどでした。本物の人権を根拠づけるのはその他にはないのです。そして、さまざまの人権の中で最も重要なのは、「神の子ども」として受け入れられる権利なのです。もう一度ヨハネ1:12を読みます。今度は新改訳の翻訳です。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」この最も重要な人権である「神の子ども」となれるその特権が多くの人の心の中で実現されるように、そして、全世界に人権を擁護できるように知恵と勇気が私たちに与えられるようにお祈りしましょう。

お祈りいたします。天の神様:不正と争いの多いこの世の中で、人権がおろそかにされていることがよくあります。どうか、私たちが原点に戻って、人間の本当の価値はどこにあるかを理解させ、そして、本当の人権はそれに基づいていることを悟らせてください。そして、その正しい理解の上、すべての人間を大事にする社会が作られるように導いてください。この祈りを主イエスキリストの名によってお祈りいたします。アーメン

Updated: 2012 年 03 月 17 日,11:43 午後

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