神の特別な次元

Tim Boyle

聖書には、限られている我々人間にとって完全に理解できないいくつもの逆説的な教えがあります。その中で主要なものは、神が「三位一体」の存在者であることです。神は一人でありながら、「父なる神」、「子なる神」、と「聖霊なる神」という「三位一体」の存在です。言うまでもなく、それが理解しにくいことで、他の宗教を信仰している人がよく誤解して、場合によっては、この教えをあざけることもあります。こういうわけですから、私たちは三位一体をどう説明できるか、考えて行きたいと思います。

それに関連している謎ですが、聖書によると,イエス・キリストは完全に人間でありながら、唯一の神でもあるという教えもあります。また、我々人間には「自由な意思」があると言いながら、神がすべてを「予定」しているという矛盾に見える教えがあります。つまり、神が初めから決めているなら、私たちが自由な意志をもって、選ぶことができないように見えますね。どうすれば、双方が同時に真理であることがあり得るのでしょうか。これらには、人間の限られている理解能力を超える深い奥義の面があります。やはり、有限な知性で、無限の神を完全に理解できる筈がないのです。しかし、これらの奥義を部分的には理解できると思います。そして、四次元以外の「特別の次元」という概念がそれを可能とすると私は考えています。

私たちは4次元の世界に生きています。つまり、3つの空間の次元と一つの時間の次元です。聖書が教えるのは,「初めに」神は私たちが経験する宇宙の全ての面を全くの無から創造したということです。時間そのものにも始まりがあり、時間を無限大に遡ることができないことを教えています。現代科学は結局同じことを言っています。宇宙の始まりに、宇宙の全ての物質とエネルギー、そして、それらが存在するために必要な空間と時間の次元でさえ、一瞬の内に無から存在するようになったということです。それは「ビッグバン」と呼ばれていますが、神の存在を支持する最も強力な論点である「宇宙論的証明」を指し示すのです。つまり、宇宙には始まりがあったなら、それを始めた存在者がいる筈だということです。

神がこの宇宙の4次元を創造したので、神はその造られた4次元を超越した別な「次元」に既に存在していたことになりますね。このいわゆる「神の特別な次元」がいくつあるかはだれも知ることができません。実は,私たちが経験できる4次元以外の次元はどのようなものか頭の中で想像することさえできません。心に描けることは直接に経験できることに限られているし、経験できるのはこの世の4次元だけです。ですから、その4次元以外の次元は、本当に想像できることではありません。しかし、この4次元の世界の中の類推を通して、これらの理解しにくい概念をある程度理解するようになることは可能です。それでは、「三位一体」とそれに関連するキリストの「受肉」、つまり、宇宙を創造した神様がお造りになった宇宙の次元にご自分を制限して、人間となられたことを例証するたとえ話を考えましょう。

Attach:mmflat.jpg Δ

私たちは、この宇宙の4次元より多くの次元を持つ世界を頭の中で想像することはできませんが、少ない次元数を持つ世界を想像できます。この紙人形たちは「ぺちゃんこランド」という二次元の世界にある国のもので、「ぺちゃんこ人」です。そして、名前は「平」です。彼らの世界は平面で、その世界では、上からも下からも見ることができません。厳密に言えば、紙の厚さがありますので、その分の第三の次元がこの紙人形にあります。しかし、このたとえ話では、彼らの平面の世界の第三の次元はその紙の厚さだけで、その薄っぺらの世界の中で横にしか動けません。ですから、決して、このように上に重ねることはできません。それで、どうやって、子孫を残せるかということは謎に包まれていることになりますが、それはこれ以上考えないことにしましょう。

とにかく、平夫婦は相手を見るのに横からしか見えないので、実際に見えるのは線だけです。ですから、平さんが奥さんの外見を理解するためには、彼女を一周して、目に入る線の長さと自分からの距離を測定しながら、自分の2次元の頭の中でそれを計算するしか方法がないのです。そうして、彼女の外側の姿をやっとわかるようになります。しかし、本当はそれでも実際にわからないのです。というのは、その外側の姿は第三の次元から(つまり、上から)しか見えないので、実際には、それを2次元の頭の中では想像することはできません。理解できるのはあくまでも、一線だけです。しかし、もう一つの次元を利用できる私は彼らにとっては神様のような存在で、私は彼らのすべてを一遍で見ることができます。そして、私が彼らのすぐ近くまで近寄ることができるにもかかわらず、彼らの平面に入らない限り、彼らは私の存在を全く認識できません。神様は私たち人間にとっても、同じです。実は、それを遥かに超えている方です。なぜなら、このたとえ話しのように、私たちより一つの次元だけが多いのではなく、たくさんの次元を司っています。

この「平さん夫婦」のたとえ話しでは、神様の立場となっている私の存在を認識できる条件としては、私が彼らの平面の世界に何かの形で入り込むことです。しかし、それでも、私のほんの一部分しか知ることができません。例えば、この説教台の上が彼らの平面だとすれば、ここに立っている私の胸の断面図しか認識できないことになりますね。しかし、彼らが実際見えるのは一つの線だけで、私の断面図をぐるっと回ることによって、それがけっこう大きな輪だと理解できます。気になることですが、残念ながら、この数年、その断面図という輪はだんだんと大きくなっていることですね。

しかし、このたとえ話をするために、私は完全に彼らの平面の外にいることにしましょう。それで、私が例えば、指を平夫婦が生きている平面に突っ込めば、彼らは私という存在のごく一部を認識できます。では、平婦人の前に指一本を平面に突っ込むことにしましょう。彼女が見えるのは一つの短い線だけで、それを一周すれば、一つの小さな輪であることが分かりますね。そして、「ぺちゃんこ人」にとって、私は神様のような存在ですから、彼女はきっと他のぺちゃんこ人に「ボイル神は一つの輪です」と言うでしょう。しかし、例えば、別の時に、Mr.平の前に指三本をその平面に突っ込むことにしましょう。彼が見えるのは三つの輪で、彼は「ボイル神が三つの輪である」と断言するでしょう。これで、論争が起こり、やがて、平夫婦の意見が別れ、彼女が「一つ輪教会」を作って、彼が「三つ輪教会」を作ることも想像できます。

実は、私たち人間の神に対する理解もこれと少し似ていると思います。しかし、平さんたちが第三の次元も見えるならば、三つの別々に見えた輪は一つの体の一部だとわかりますね。これと同じように神様は私たち人間にご自分を啓示する時、何らかの方法で私たちの3次元の空間と1次元の時間に入ります。それは三人の存在者として経験されますが、この世を超越した次元では、実際は一人だけです。「三位一体」です。もちろん、私が3本より多くの指を持っているのと同じように、神様の複数性にも「3人」より多くいることは考えられることです。つまり、「五位一体」や「十位一体」などは一応あり得るでしょう。しかし、神様が私たちに啓示したのは、御自分が「三位一体」の存在であることです。それが三位一体の本質です。

考えてみると、神様が創ったこの宇宙はあらゆる面において、三位一体的です。「三位一体の神にかたどって創られた」我々人間も一種の「三位一体」で、身体、精神と霊という3つの部分で構成されています。そして、3つの空間の次元の中で生きています。私たちの時間の次元にも、過去、現在と未来という「三位一体」となっていますね。この「三位一体性」は原子の世界にも当てはまります。というのは、原子は陽子と中性子と電子で構成され、3つの力によって結び合わされています。即ち、電磁力、そして、弱い核力と強い核力と呼ばれている物理的力です。その上、陽子と中性子もそれぞれ3つの「クォーク」という素粒子で構成されます。実は、多くの素粒子とそれらの特徴には、この同じ「三位一体性」が見えます。それぞれには3つの種類や3つの組みに分類されています。この事実を考えますと、三位一体の神がこの宇宙を創造した時、御自分の特質を表したように見えますね。ですから、自然界から読み取れる多くの類推が神の「三位一体性」への理解を助けます。

例えば、光を考えてみましょう。光は本当に何でしょうか。ある実験をしますと、光は小さな素粒子であると結論されますが、他の実験をしますと、波であると分かります。ですから、光は未だに謎に包まれている存在で、完全な説明ができていないのです。光の「波動説」と「素粒子説」が矛盾しているように見えますが、両方が事実です。このこと自体はイエスの人間性の神性の適合性や「予定説」と「自由意思説」の両立を例証します。

光はどのように説明しようとしても、その存在は3つの要素の相互作用に依存しています。即ち、電場と磁場とエネルギーです。電気の流れが磁場を引き起こし、動く磁場は電流を起こします。このために、光は「電磁波」と呼ばれます。そして、運んでいるエネルギーはその電磁波が可視光線であるか、また、ラジオ波からガッマ線までの電磁波であるかの決め手となります。運んで行くエネルギーなしでは、光は存在できません。ですから、3つの要素の相互作用がなければ、光は存在できません。こういうわけで、光も神の「三位一体性」を例証します。1ヨハネ1:5によると、「神は光であり、神には闇が全くないということです。」

今は光について話しているので、もう一つの面白い点を考えてみましょう。それは「光の三原色」です。この3つの基本の色を適当な割合に混ぜると、全ての色を表すことができるのです。例えば、カラーフイルムには、3つの観光乳剤をつけることによって、すべての色を獲得できるのです。ですから、光の色でさえ、この同じ「三位一体性」が見えます。

光の例証と関連するもう一つのよい例は太陽です。太陽の存在を私たちに知らせるのはそこから来る光で、その働きの恩恵によって、私たちのいのちが支えられています。物質的な世界に存在する太陽は霊的な世界の神様の存在をうまく例証すると思います。私たちが宇宙船に乗って太陽まで飛んで行けないのと同じように、罪深い人間は自分のよい行いの故に自ら聖なる神の前に行けないのです。なぜなら、どちらの行動も自分を破滅させるからです。このように、太陽は神聖である父なる神と似ています。また、太陽から来るエネルギーがなければ、地球には生命が存在し得ないのです。霊的な意味でも、同じことです。太陽から来る光によって、太陽のことが分かるようになるのと同じように、父なる神が「独り子」であるイエス・キリストを通して、御自分を啓示しました。やはり、キリストは「世の光」です。そして、太陽から届く光はすべてのいのちのエネルギーの源であるのと同じように、霊的な意味では、神が聖霊を通して、私たちに霊的ないのちをもたらすのです。

それでは、平さん夫婦の2次元の世界に戻って、天地創造の神が人間になられたことの意味を考えてみましょう。このたとえ話しでは、3次元の空間に存在している私は、彼らの2次元の世界の創り主なのです。私が彼らの救い主となるためには、彼らの世界に入り、「ペちゃんこ人」とならなければなりません。そうするのに、私は空間の第三の次元を放棄して、一種の「受肉」によって、2次元の空間の世界に自分を限定しなければならないのです。これと同じように永遠のキリストも私たちのために、自分の支配している数多くの次元を一時的に放棄して、私たちの3次元の空間の世界に自分を限定しました。これは紙人形として「受肉」した私です。この私は「ペちゃんこ人」の世界にいる間に、彼らと一緒に2次元の空間に制限されています。3次元の世界を説明することはできるのですが、彼らはその話を表面的にしか理解できないでしょう。これと同じように私たちは4次元以外の神様の特別な次元を部分的にしか理解できません。

Attach:meflat.jpg Δ

このたとえ話と同じように永遠のキリストも私たちのために、自分の支配していた数多くの次元を一時的に放棄して、私たちの4次元の世界に自分を限定しました。このために、人間としてのイエスは4次元の世界のすべての制限を受け入れました。私たちと同じように彼が一つの時間には一つの場所にしかいられなかったのです。疲れることもあって、休憩も必要でした。人間として、イエスは私たちと同じ制限を抱えていました。

もちろん、霊において、イエスは受肉以前のもともとあった超自然的な力の源に繋いで、癒しやその他の奇蹟を行えたのです。そして、復活後、イエスは受肉以前にあった全ての次元や力を再び取り戻しました。従って、先ほど読んだパウロのことばのように、イエスの名は「あらゆる名にまさる名」となり、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざますき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」そして、イエスはもはや、この世の空間と時間の次元に制限されていないので、彼が言ったことばが実現できます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしはその中にいるのである。」

復活したイエスが利用できた特別な次元は復活後に起きたことを説明します。例えば,弟子たちはイエスの体を触ったり,イエスが一緒に魚を食べたりしていたにもかかわらず,イエスが閉ざされていた部屋の中に突然姿を見せることもできたと伝えられています。もちろん、どうしてそのようなことができるかという問いに対する確かな答えはありませんが、4次元以外の次元が存在しているなら,そのメカニズムについて推測できると思います。私たちの世界には、3次元の空間しかないし、私たちは物質的な壁をそのまま突き抜けることができないことは体験的に分かるのです。しかし、例えば,復活したイエスには他の空間の次元が利用できるとすれば、私たちが見える空間の第1、第2、第3の次元を見えない第4、第5、第6の次元の空間に自分を移して、そして,壁を通って部屋に入ってから、この世の次元に戻ることができたでしょう。第1、第2、第3の次元の空間にいる間,魚を食べたり、弟子たちが触れたりできる肉体を持つ姿となりますが、別な次元に移ると、見えなくなります。実際は、その通りかどうかはもちろん私は解りません。しかし、4次元を超えた次元を利用できる神様に何が可能であるかを理解する手助けになるのではないでしょうか。

最後に、「予定説」と「自由意志説」の問題を少し考えてみたいと思います。もし、神様が未来のことを全部知っているなら、私たちには自由な意志があるとどうして言えるのでしょうか。この問題は昔から、多くのキリスト者を当惑させました。この世にいる限り、我々人間の理解力を超える面が残るに違いないのですが、これを部分的に理解するためには、やはり、4次元を超えた次元の概念は助けとなります。ただ、この場合、空間の次元ではなく、時間の次元です。

しかし、時間という次元を想像するのに、空間の次元を利用しなければなりません。普通の会話の中ででも、そうです。「時点」ということばはそうで、英語から取った「タイムライン」(時間の線)という単語もあります。しかし、一つの時間の次元しかない私たちはそこまでです。でも、私たちが生きている時間の次元を創造した神様には、少なくとももう一つの時間の次元がある筈です。要するに、空間の次元で例えれば、「時間の平面」となりますね。それでは、複数の時間の次元があれば、何が可能となるのでしょうか。

Attach:timej.jpg Δ

この紙には、宇宙の始まりでスタートするタイムラインは現在まで続いて、未来の方へと伸びます。私たちの存在はこの「現在」という時点に限るので、宇宙の歴史の流れというこのタイムラインの中での時点を一点ずつしか経験できません。しかし、そういう制限がない神様はこのいわゆる「時間の平面」を全部利用できるので、私たちの過去、現在と未来を全部見ることができます。

人間の観点から言えば、私たちが存在しているこの時点において、自然法則や自分の生活状況の制限の中で、ものごとを選ぶ自由があります。しかし、神の観点から言えば、未来は既に知られているものであり、前もって決定できるものです。聖書の預言には、それが見られるのです。というのは、その成就より遥かに前に書かれた預言だったにも関わらず、預言の通りになった例は数多くあります。しかし、神がどれほど細かく決定されるのかという問題が残ります。明らかに、神は未来を支配しておられ、御自分の目的に達するように、歴史を導かれるのです。でも、細かいレベルでコントロールしているかどうか、また、そうしていないなら、その境目はどこにあるかということに議論の余地があります。

私の個人的な見解ですが、最終的な結果に影響を及ぼす可能性のある全てのことを、神様は直接にコントロールすると思いますが、影響しない細かいレベルのことは御自分が創った自然法則に任せるのではないかと考えています。例えば、どの特定の水の分子がどの雨のしずくになるかを直接に指導するのではないと思います。また、例えば、けさの朝ご飯として、私がパンケーキを食べたか、それとも卵とパンを食べたかなど、どうでもいいことをおそらく予定しないのではないかと考えています。しかし、無限な存在ですから、そこまでしようと思えば、できるでしょう。ですから、それは私の推測だけです。はっきり言えるのは少なくとも、重要なことを指導しているということだけです。明らかなことは、神は、具体的にどのようになさろうとも、永遠の目的を達成されるということです。

時間というものは我々人間が完全に理解できない奥義ではありますが、確かなことは、時間を支配しているのは神様のみです。神は時間の主です。ですから、神は私たちの過去、現在、と未来の主です。使徒パウロは私たちが目指すべき3つの徳目を勧めました。即ち、信仰と希望と愛です。これらも一種の「三位一体」で、それぞれが時間の3つの時制と特別な関係があります。過去に対しては、信仰です。というのは、キリストを自分の過去の主として受け入れるとき、過去に犯した自分のすべての過ちや不義に対する赦しが与えられ、そこから立ち直るための恵みを受ける信仰が与えられます。そして、自分の未来を託して、自分の未来の主として受け入れると、状況に左右されないしっかりした希望が与えられます。しかし、パウロによると、その3つの内に、「最も大いなるものは愛である」ということで、これは自分の現在に当てはまります。自分の現在の主として、キリストを受け入れると、キリストの愛に満たされることになり、苦しんでいるこの世の中で、神の和解をもたらす神のしもべとなるように導いてくださいます。

けさは、キリスト教の教えに含まれているいくつもの逆説を取り上げましたが、神が4次元を超えた次元を利用できると考えることによって、少し理解できるようになったと思います。これはもちろん完全な理解につながるのではありません。私たちは部分的にしか理解できないのですから。では、最後に神の偉大な救いの計画について一言話したいと思います。

永遠の神がイエスの「受肉」という形で我々人間の世界に入り、この世の次元に一時的に制限されたことは大きな謎です。さっき、述べたように、イエスの受肉の意味について、ある程度の理解が得られると思います。しかし、もう一つの問題は「なぜ」ということですね。なぜ神様がそうなさったのでしょうか。それも大きな謎ですね。罪深い人間と聖なる神のギャップを埋める必要があることはわかりますが、これほど大きな犠牲を払って耐え難い痛みと苦しみを受けるまで、どうしてそういうふうになさったのでしょうか。神の完全な愛という答えしかありません。深い奥義ですが、神が人間を創造した時、ご自分に逆らえないロボットのようなものではなく、自由な意思を与えたかったのです。人間が独自の道を歩むと初めからわかっていましたが、神は、その問題を解決するために、世の初めから偉大な救いの計画を立てておられました。それはイエス・キリストの受肉によって、この世に入り、私たちのために命をささげる計画でした。そして、歴史の流れが頂点に達して、次の世界の準備ができる時、私たちのために計画している「新しい天と新しい地」を創造することが約束されています。そうすることによって、神は、人間の自由な意志を犯すことなく、悪の問題を完全に克服することができることになります。

受肉という謎は福音の中心的な奥義です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

キリストの受肉を本当に理解することは私たちの能力を遥かに超えることですが、このように理解しようとすることは私たちの信仰を強めます。私たちがこのようにして自分の信仰の理解を深めて行けるように祈りましょう。

お祈りします:天の父なる神様。イエス・キリストを通してあなたが我々人間のためになさったことを考えますと、感謝でいっぱいです。それはどれほどの偉大なことであったかを認識させてください。どれほど大きな愛であったことかが心の奥まで理解できるようにお助けください。2000年前になさったことだけではなく、現在も世の中であなたが働いていることを感謝します。また、未来のいつかに歴史の流れを頂点に達するように導いてくださることをも感謝します。主イエス様の名によってお祈り致します。

Updated: 2009 年 10 月 10 日,12:38 午前

アップロード 編集