神に孫はいない


「神に孫はいない」

ペトロの手紙 一 3:8-16

今朝の説教の題名は、 ダビド・デュプレシが提唱した言葉から取りました。彼は南アフリカで50年ほど前に世界キリスト教統一において、教会間の話し合いを積極的に推奨したペンテコステ派の牧師でした。 彼はある夜目が覚めて、「神には孫がいない」という言葉を何度も思い浮かべました。彼は、そのような内容が聖書にあるか、聖書用語索引で調べてみました。「神の子」は多く参照箇所がありましたが、「神の孫」は見当たりませんでした。しばらく考えた後、この言葉の重要性にやっと気付きました。私達は生物学的に2組の祖父母、つまり両親の両親がいますが、霊的領域に祖父母はいません。私達には、霊の兄と姉がいます。両親も信徒なら、霊の兄と姉に含まれます。しかし、神以外は、誰をも「信仰の親」と考えてはなりません。 神には孫がいません。神の子である私たちには、信仰の兄弟姉妹がいるのです。

今朝この点を考える上で、J・ワーナー・ウォーレス氏の短いブログについてお話したいと思います。彼は元刑事で、犯人が見つかっていない未解決殺人事件を長年担当していました。35歳の時にイエスの言葉に啓発されて信仰を持ったといいます。彼はもともと筋金入りの無神論者で、かつてはイエスやキリスト教を単なる伝説、あてにならないもの、弱者の支えだと考えていました。そんな彼が、昔の賢人たちが何を言おうとしたのかを知るために福音書を読み始めました。すると、聖書の説明は、彼が携わった数々の刑事事件の目撃証言と類似していることに衝撃を受け、注意深く聖書の話を読み解いた結果、それらが実在の目撃者による真実の証言であると確信するようになりました。このような経験をいくつか経て、彼は無神論を捨て、キリストを受け入れました。では、この短いエッセイを読んで、今朝の考察への導入とします。

想像してみてください。あなたは今、私の家のリビングにいます。テレビはついていません。夕方の5時20分です。私が「天気予報って、何チャンネルだったかな?」と聞きます。あなたが「さあ、知らない」と答えると、私は「とにかく適当にチャンネルを言ってみてよ」と食い下がります。「じゃ、7チャンネル」とあなたはしかたなく答えます。私がテレビをつけて7チャンネルに合せると、なんと、7チャンネルの夜のニュースで、天気予報が今まさにやっているではありませんか。「すごいな」と言う私に、あなたは得意げな顔を見せました。あなたは、天気予報がどこで放送されているかを正確に言い当てました。あなたは正しかったのです。しかし、それはたまたま合っていただけです。何か根拠があって予想したのではなく、試しに言ってみただけで、たまたま正しかっただけです。だからと言って、正しかったことが否定されるわけではありませんが、それはあくまでも偶然の産物なのです。

私達クリスチャンの多くもこれに似たところがあります。イエスが十字架で私達の罪を贖ったことを認め、イエスを救い主として信じました。イエスが神であることを認めます。標準的なキリスト教の正統な教えを受け入れます。ところが、どうしてこれらのことを信じているのか理由を聞かれると、大多数が言葉に窮します。私達はたまたま、正しいチャンネルを推測しただけなのです。私達は偶然のクリスチャンなのです。天気予報のチャンネルが当たったように、私達もたまたま真実にたどり着いただけです。

7チャンネルで、天気予報を放送していたという事実にどのように偶然に行き着いたかは、重要なことではなく、私達が天気予報を見ることができたことが重要なのであって、それがたまたまかけたチャンネルであったと言うだけです。しかし、この会話をたまたま横で聞いていた人が、あなたが、次に天気予報があるチャンネルを推測出来ると思うでしょうか。彼らはあなたが最初のチャンネルは偶然にあたったと知っています。あなたの選局には何の裏付けもありません。つまり、次の選局が当たると言う確証は何もありません。

クリスチャン信仰を、時間をかけて根拠を研究し、しっかりした裏付けをもって信じている人たちと同じように、偶然のクリスチャンも救われています。しかし、その会話を横で聞く人々には信用されないでしょう。偶然のクリスチャンは思想における市場競争についていけないでしょう。異なる世界観がもっともな裏付けを提供しているならなおさらです。私達は偶然に真実に出くわしただけなのですから。私たちの信仰は偶然ではなく、理にかなうものであることを説明できるよう、備えましょう。

ウォーレス氏が示した思いは、今朝読んだペトロの書簡のある部分の戒めに似ています。3:15-16「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」そのためには、何を信じているか及びどうしてそれを信じるかを分かっていなければなりません。つまり、どのような文化圏や家族に生まれ育ったかと言うたまたまの「偶然のクリスチャン」の可能性を私達各自、偶然の出生環境の効用を自問自答しなければなりません。

懐疑論者はこの戦略を使い「あなたは米国に生まれたから、クリスチャン信仰を持っただけでしょう」と言います。「もし、サウジアラビアに生まれたら、イスラム教徒だったでしょうね。」ここにいるあなた方には、「米国生まれ」は一部の人にしか当てはまりません。 大多数は異なる国々の出身で、キリスト教が少数派である国もあるでしょう。でも、懐疑論者の言う出生の偶然にもある真実味があります。私がもし、イスラム圏の国に生まれていたなら、私も「偶然のイスラム教徒」だった可能性が高かったでしょう。しかし、これはわたしの信仰が真実か虚偽かについては答えません。これを判断するには、真実と言われることが、実世界の客観的な事象にさらされ、持ちこたえられるかどうかを見極めなければなりません。なお、私達は神の聖霊が私達の生まれた国がどこであろうと、神の民を導き入れるために全世界に強く働いていることを心に留めておかなければなりません。私は丁度、元イスラム教徒がクリスチャンになる経緯の難しさを書いた「アラーを探求し、イエスに出会った」と言う素晴らしい本を読み終えた所です。

今朝皆さんに考えていただきたいことは、「あなたは偶然のクリスチャンですか」と言うことです。あなたは何を信じ、なぜ信じているかをよく分かっていますか? これについて、あらゆる角度から考察できますが、最初に米国の大学へ通う若いクリスチャン達の現状から見ていきましょう。様々な調査から、いささか残念な統計が示されています。それはクリスチャン家庭で育った50%を超える若者が大学で信仰を失っています。無神論者になる者がいますが、大部分の者が世俗主義者に変わっていきます。「クリスチャンとしていましたが、やはり私には合わない。」ある者は信仰を取戻すものの、明らかに多くはそうではありません。

なぜでしょう? 主な理由は、これらの若者は無神論プロパガンダの猛攻撃に直面する覚悟ができていないことです。神を信じる迷信は、すぐに捨て去るように生徒たちに説得する「使命」を持っている教授は珍しくありません。「新無神論者」と呼ばれているリチャード・ドーキンズ や サム・ハリスのような人たちは、信仰を次のように定義します。進行とは、何の証拠もなく、また証拠に反しているにも関わらず、それでも信じることです。もちろん、これは新しい考えではありあせん。100年以上前に、マーク・トウェインがよく知られている言葉を残しました。「信仰は自分があり得ないと分かっていることをそれでも信じる事だ」と。しかし、これらの「新無神論者」はこのことをさらなる頂点に達しています。それとも、さらなるどん底までと言った方がいいかもしれません。

彼らは、客観的な事実を基本とする科学が現実で、他の全てに勝っていると言い張ります。もちろん、この「無神論の伝道者たち」は唯物論的(訳者註:精神や意識をも含め、すべての事象の説明を、物質のみに求める)な前提条件を通した都合のよい事実のみを適用していることは言及しません。このように、「気持ちいい」感情的なレベルのみのクリスチャン信仰を持つ若者にとって、彼らの表面的な信仰、深く考えて掘り下げられていない信仰は、外圧に耐えきれず信仰を失ってしまうのです。また、彼らに、クリスチャン信仰は時代遅れで、彼らの疑問や質問に対して何の回答もないという印象を与えてしまうのです。

世界中の教会の若いクリスチャンが、攻撃されやすいもう一つの理由として、彼らは守られ、難しい質問や、疑いに対して答えを探求することを奨励されていないからだと思います。事実、ある教会では、青年クリスチャンは質問をすることさえしてはいけない雰囲気となっています。その代り、「信仰を持て」「信じるのみ」と単に励ますだけです。そのような青年クリスチャンはおおむね「偶然のクリスチャン」で自ら信仰を本当に決断したことがありません。彼らが信仰から離れていく羽目になるのは、殆どの場合、最初から真の信仰が無かったからなのです。 後ほどこの点について改めてお話しますが、「信仰」とは何かという定義をはっきりさせるのが非常に重要ですので、まずこれについてお話しましょう。無神論者が揶揄するような信仰のイメージに対して、本来の聖書的信仰がどういうものかをはっきり示すために、昔のアメリカの「西部」の話を考えてみたいと思います。この話は80年ほど前に、私の故郷であるアリゾナ州の砂漠で起きた話です。おそらく皆さんが西部劇の映画でこのようなシーンを見たことがあると思いますので、想像してみてください。ラバに生活品を乗せて、砂漠の中で砂金を探しまわっていた「デザート・ピート」という人物がいました。この話が有名になった理由は彼が書いた手紙のことです。

ある人が砂漠に迷い込み、大変困った状態になりました。というのは、持っていた水がなくなり、どこにも水が見当たりませんでした。救われる望みが薄くなってきたところ、たまたま昔に掘られた井戸を見つけました。その上に、手で動かすポンプが付いていましたので、それに最後の望みをかけました。このような昔のポンプを見たことがないかもしれませんが、長いハンドルを上下に動かすことによって、井戸の中の水をくみ上げる仕組みです。 しかし、乾いている状態であれば、空気漏れになり、吸い上げることができないので、「呼び水」と呼ばれていた水を先に入れておかないとだめです。その時は、もちろん、呼び水となる水は何もなかったので、そのままでは、どうしようもなかったのです。しかし、その時、その困っていた人がポンプに縛り付けていた缶に気付き、そのふたを開けたところ、中に手書きの手紙を見付けました。それは「デザート・ピート」が書いた手紙で、その内容は実に素晴らしいものでした。こう書いてありました。

「1932年の6月にこのポンプを点検した時、大丈夫でした。新しい皮のワッシャーをつけましたので、少なくても5年間もつはずです。しかし、ワッシャーが渇くので、十分濡らさないとだめです。近くにある白い石の下に水が入っているビンを埋めておきました。このポンプに呼び水として使うのは十分ですが、先に少し飲んでしまえば、足りなくなるかも知れません。呼び水をするのに、まず、水をゆっくり注ぎ込み、皮のワッシャーを濡らしなさい。そして、柔らかくなってから、残りの水をポンプに注ぎながら、一所懸命ポンプのハンドルを動かしなさい。必ず水が出ます。信じて下さい。そして、あなたが必要としている水を十分汲み上げてから、水をビンに入れて、しっかりとふたをして、次の人のための準備をしてください。デザート・ピートより。追伸:その水を先に飲むんじゃないよ!それをポンプの呼び水として使えば、たくさんの水が必ず出るのです。」

これは本当に素晴らしい手紙ですね。信仰というものの基本をうまく言い表していると思います。私たち人間は信仰ということを考えますと、何となく神秘的なものとして考えてしまいがちですが、本当はそうではありません。キリスト教の信仰の働きはほかの「信仰」の働きと同じです。違うのは、その信仰の内容とイエス・キリストに対する信仰を持つ力を与えて下さるのは神様であるということだけです。しかし、他の面においては、他の信仰と変わりがありません。

実は、私たちの日常生活のあらゆる面においては、何らかの形で、広い 「信仰」にかかっています。ほとんど何をしようとしても、何か、まただれかを信頼して行動しなければ、何もできません。何も理由がないのに、そのようなことを信頼しないとすれば、すべてが麻痺状態となってしまいます。たとえば、食堂の衛生に対する基本的な信頼感がなければ、また、だれかが自分を毒殺しようとしていると思い込んでいるとすれば、外食することは出来ませんね。このような基本的な信頼感 — 言い換えれば「信仰」— がなければ、偏執病的になってしまいますね。ですから、健康な人生を送るのには、このような「信仰」が不可欠です。

キリスト教の信仰の場合、何が違うかと言いますと、その対象となることだけです。要するに、聖書の神に信頼を置くことです。この「デザート・ピート」の手紙がこのことをうまく例証すると思います。もし、あなたが砂漠をさ迷っていたあの人のようにそのポンプを見つけたら、どうするのでしょうか。あなたの行動は自分の信仰に対する考え方を表します。デザート・ピートを信頼すべきでしょうか。それとも、その尊い水を呼び水としてポンプに入れるリスクが多すぎて、そうしない方がいいのでしょうか。

デザート・ピートの手紙に書かれていることをさきほど読んだヘブライ人への手紙の教えと比較すれば、同じ3つの原理が見いだせます。まずは、信仰の対象が必要です。よく聞かれることばですが、「信仰を持ちなさい」や「信仰をしっかりと保ちなさい」などのようなことばは、もしその信仰の対象となる存在者がはっきりしていないなら、あまり意味のないことばです。ただ「信仰を持つ」、すなわち「信仰に対する信仰を持つ」ということはできません。何かに、あるいはだれかに対して信仰を持つということが必要です。

この場合の信仰とは、会ったことのないデザート・ピートを信頼して、彼が言う通りに従うことです。それは決して簡単なことではありません。知らない人ですから、どんな人物であるか分からないのです。どこか歪んだ性格を持つ、残酷ないたずらをしている人かもしれません。しかし、この手紙を読んでいるうちに、そして、自分が直面している死活問題を考えると、この人が信頼できる人で、自分を救うためにずいぶん親切にこのポンプの呼び水を用意してくれたことを納得できるかもしれません。

ですから、信仰の第一の要素は「適切な証拠」に基づいている何か、まただれかに対する信頼感です。レストランで外食する例をもう一度考えますと、もし、行くたびに毒が入れられていない証拠を要求するなら、例えば、料理している間に立ち合って、そして、食べる前にコックさんがその一部を食べてもらうなら、それは「信仰」を表しているとは言えませんね。この場合は、「適切な証拠」はレストランが衛生的に見えることで、食事の味に問題もなく、他の客が普通に食べていることなどの証拠を見て、自分の「信仰」、すなわち信頼感をそれに置くことです。

このことは信仰の第2の要素に導きます。それは「リスク」です。もし、あなたがその砂漠をさ迷っていて、その古いポンプとデザート・ピートの手紙を発見したら、本当に命がけの決断を迫られるでしょう。これは大きなリスクです。その時、自分にとって、一番尊いものはその小さなビンに入っている水でしょう。しかし、デザート・ピートによると、それを先に飲んでしまえば、もう水は終わりです。呼び水がないので、井戸からは水をくめなくなるからです。ですから、決断を迫られるのです。のどの乾きを部分的に、そして一時的に解消するのか。それとも、命がけでその水をポンプに注ぎ入れてみるのか。本質的に言えば、聖書的な信仰というものはある程度のリスクを伴う決断を要求します。

これはさらに信仰の第3の要素に繋がります。すなわち、行動です。自分の信頼をだれか(又何か)にかけたら、具体的な行動を取らなければなりません。デザート・ピートの語るところによると、彼を信頼して、指示した通りにビンに入っている水をポンプに注ぎ入れるというリスクを取ってから、一所懸命にポンプのハンドルを動かさなければならないのです。

私たちが天地創造の神を信頼して信じるということは、デザート・ピートの手紙を発見した、砂漠で迷っていた人とよく似ている立場にあるのです。私たち宛の「手紙」があります。すなわち、「神のみことば」と言われている聖書です。神様やイエス様について、さらに、人生の本当の目的などについていろいろ教えています。しかし、その中に含まれている約束と教えなどは、その背後にいる存在者が信頼すべき方でなければ、何の価値もありません。

キリスト教の信仰は根本的に、このいわゆる「手紙」の中で、イエス・キリストを通して示された神と神の人格性に対する信頼です。この信頼性を確信できるのはなぜかというと、それは自然界のデザインを通して、さらにもっと決定的にイエス・キリストの人生を通してはっきりと分かるからです。こういうわけで、信仰の根拠となり得るのは何かの素晴らしい霊的な体験があったからではありません。そして、現在のあなたの気分でもないのです。聖書そのものにもよらないのです。物質的に言えば、聖書はただの紙とインクだけです。素晴らしい約束が書いてありますが、その信頼性はそれらの約束を与えた方の信頼性によって決まるのです。

こういうわけで、神に対する信仰は神の性格、その信頼性にかかっています。神の性格は善いものですから、彼のみことばも良いものなのです。ヘブライ人への手紙11:6によると、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」そして、続きのことばで、それはどういう意味かを説明します。「神を求める者は、神が存在しておられること」を信じなければならないと書いてあります。しかし、それだけではありません。神の信頼性と善意をも信じなければならないのです。それはその続きのことばで説明されています:「神は御自分を求める者たちに報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」

多くの人にとっては、この点が問題となっています。神様の性格、つまり、神はどういう方でいらっしゃるのかがよく分からないので、信仰になかなか入れないのです。デザート・ピートの話がさきほど私たちの話していた内容に関わるのはこの点です。幼いころから教会に通った若者が、親の伝えようとした信仰から離れていくのはこういう理由なのです。彼らは、神がどういうご性質なのか、どういうお方なのかをはっきり理解していないのです。 Nancy Pearcey氏による「真実への模索(Finding Truth) 」を読み終えた所です。この本はこの観点を実にうまくとらえています。副題は「無神論、世俗主義、神の代わりとなるものを暴く5つの原則」で、著者は、様々な世界観を分析して、聖書に示されるクリスチャンの世界観以外の全ての世界観はなぜ我々が経験する世界を説明できないのかを見事に説明しています。彼女自身も、一時的に信仰から離れたことがありましたが、それは後にキリスト教が真実である確信につながったという個人的な証もしています。

16歳になったころ、私は、キリスト教は真実かどうかという基本的な疑問を持つようになりました。それが真実であるかを裏付ける証拠があるのだろう? 私の周りの大人たちはそれに対する回答を持っていないように感じた。かつて大学の教授になぜ彼がクリスチャンなのかを訊ねた。高等教育を受けた人なら思慮深い答えを与えてくれると思っていた。しかし、彼は「私には適しているよ」と言っただけだ。私は「私には適さないわ」と思った。 後日、私は神学校の学部長と話す機会があり、神学を極めた人なら答えてくれるかもしれないと期待した。しかし彼が言ったことは、「心配するな、私達みんな、時には疑うものだよ」と言っただけでした。まるで私がそういう心理上の段階にいるかのように。私の疑問に対する回答はないのかしら、と思いました。ついに私は、実用的な心理学と化してしまったキリスト教に、求めている答えはないという結論に至りました。そして、心理学のようなキリスト教を捨て、真理の探究を始めました。

こう決断したのは、ただ自らの知性に正直であった結果です。どんなことにおいても、それ相当の根拠もなしに何かを信じると言えるでしょうか。それは、キリスト教についても、他のどんなことについても同じです。 Pearcey氏は著書の中で、自らを「徹底した相対論者と懐疑論者」になったことを述べました。しかし、思慮深いクリスチャンと出会って、彼らとの対話や議論によって彼女を信仰へと再び導いたのです。それはかつて彼女が切望していたもので、確信のある信仰が芽生えたのです。彼女のストーリーをここで取り上げたのは、多くの若者が本当に答えを探すが、見つけられないで信仰から離れてしまう事で、彼女はその中の一人だったことです。

2005年、二人の社会学者が「魂の模索(Soul Searching)、米国の10代の若者の宗教的及び霊的生活」を出版しました。10代のクリスチャンの若者を3000人インタビューした調査結果に基づいています。これらの子供たちは、道徳主義的治療学的理神論(神が遠い存在の神で、宗教の目的は自分に道徳を教えて、こころを落ち着かせること)という典型的な信仰体系を持っていると結論しました。この信仰の基本的な解釈は、(1)ある神が、世界を創造し、秩序を与え、地球上の人間の生活を見張っている。 (2) 神は聖書の教えの如く或は他の宗教の教理でもあるように、人は互いに良くし、快適で、公平であれと願う。(3)人生のおもな目標は、幸せであり、自己に満足することである。 (4) 神は問題解決にあたるとき以外は、人の人生に特に関わる必要はない。及び (5) 良い人は死んだら天国に行く。言うまでもなくこのような解釈は、真のキリスト教信仰とははなはだしくかけ離れたものです。そのために、彼らが発達段階で「吸い取った信仰」が世俗の攻撃に直面すると脆く崩れてしまうのです。

皆さんの周囲の子供たちには、もう少ししっかりと理解していてほしいものです。しかし、それを実現するためには、これから直面するであろう難しい問いに対して、子どもたちがしっかりとした答えを見つけていけるよう、大人が意識的にサポートする必要があります。キリスト教の信仰する基本的真理は何なのか、それを真理だと信じる根拠はどこにあるのかを理解できるよう、互いに助け合わなければなりません。自分は、全世界を創造した神への真の信仰をたまたま持った「偶然のクリスチャン」なのかどうかを私達は自問自答しなければなりません。また、真実の信仰の裏付けとなる根拠をきちんと説明できるでしょうか。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」

クリスチャン信仰が真実であると、どのように自信が持てるのでしょうか? 情緒的なレベルで神を体験することで十分でしょうか? なにも人の感情や、神の臨在を感じる経験を軽視しているわけではありません。これらも重要な任務を持ちますが、私達の信仰の基礎になってはなりません。モルモン教徒の「胸が熱くなる」経験は、モルモン経典の真実及び預言者Joseph Smith が世の教会を立て直しに来た、これらを確心した結果であると教えます。これに対して、実際の歴史上の証拠は正反対であるにもかかわらず、彼らにとって、情緒的な経験は、なお真実なのです。モルモン教の子たちの何割が信仰を失うのかも興味深いですが、一方、モルモン教徒が強く依存している共同体の緻密なネットワークと家族構成が、モルモン教の力強い原動力になっています。よって、モルモン教の教えに疑問を持ってしまったモルモン教徒が信仰を捨てた場合、一般的にクリスチャンが信仰を捨てた場合と比べて、人間関係など社会生活において失うものが極めて多いのです。

私達の人生の内なる証人としての聖霊はクリスチャン信仰の重要な確証となります。そのため私はそれを軽視しません。しかし、モルモン教、いや他の世界の宗教とは違い、キリスト教は分析と注意深く検証することを、むしろ奨励します。それは信仰が証拠に基づいているためで、聖書の中で「昔々、あるところに…」と言うような曖昧な記述はどこにもありません。歴史的な説話は、本当にある場所や時を特定しており、これらは考古学的記録から検証できます。未解決な点もありますが、聖書の多くは考古学的な記録と合致しています。同様に、多数の預言が、書かれた時から未来の事象を予告し、それらが書いてあった通りに実現したと証明できます。一連の証拠は、聖書の源が神聖であることを示し、含まれる教義に信頼性を与えるのです。ちなみに、このことを世界の他の宗教の経典に比べると、極めて対照的です。ヒンズー教の韋陀や仏教の仏経、またイスラムのコランでさえ、自然界の記録と実際の歴史の事実と照り合わせて確証できる内容は極めて少ないのです。そして、そのような内容のある少ない箇所に書いてあることはそれらの事実と相反することが多いのです。

それでは、科学はどうでしょう? 無神論者はこれが切り札だと言いますが、さて本当でしょうか? それどころか、私は、実は科学がクリスチャン信仰の最も強力な証拠の一つだと考えています。だが、二つのことが起こった時にだけ、クリスチャン信仰の妨げになります。第一に、唯物論の哲学から見た科学的証拠だけを独断的に提示して、有神論に不利な工作をする時、第二に、十分な知識を持っていない人々がこのことを鵜呑みして、科学が実際にそのようなことを指していると思い込ませるときだけです。

聖書の基本教義の一つに神が宇宙を無から創られ、このため有形の宇宙には始まりがあったということです。その反対に、古代から20世紀にいたるまで、一般的に宇宙は永遠から存在していたとされていました。ところが、宇宙が文字通り『無』から発生した決定的な証拠を発見したため、科学者たちは聖書の記述が正しかったことが分かりました。その上、有形存在に至るまで、非常な細部までうまく微調整され、数十の条件因子の一つでも、実際の数値よりほんの少しでもずれたら、生命維持につながる宇宙は決して生まれてこなかったのです。例えば、もし、重力と電磁力の比率が1040の1以上(1の後に40個のゼロ)実際の数値と異なっていたとすれば、安定した星は形成されなかったのです。このように絶妙なバランスがとれているのです。そして他の多くの要素も同様です。このようなことが偶然に起こる確率はあまりにも小さいもので、実にゼロだと言ってもいいでしょう。

その事実は創造主が絶対にいることを物語っています。その上、生命の起源や各細胞に含まれる膨大な情報が同じように自然主義的に説明できないのです。説明できるとしたら、全知全能の力が働いていたとしか言えないでしょう。しかし、もちろんこのような結論を、証拠を検証する前に否定するならば、未知のメカニズムが偶然に働いたと推測するしか残らないでしょう。無神論者はたいてい、無限数の宇宙が存在し、その中で一つの宇宙に生命を可能とするすべての要素が偶然に発生したという仮説に行きつくのです。私達の存在が可能となるのはその宇宙ですので、私達がそこにいるのだと言います。従い、皆さんは、宇宙は目的をもって、超知能の持ち主によって創造されたと考えるか、或は、可能性としては無に等しいけれども、宇宙は偶然に出現したと考えるのか選択できます。その上、皆さんの命も偶然の産物で、原始生命が偶然に進化して、このように考える能力を持った人類となったのです。これは極めて大きな「信仰の飛躍」ですね。ある作者は皮肉を込めて言います。「私には無神論者になるだけの信仰心がありません。」

それでは、10代の子供たちが直面する無神論プロパガンダに対抗する問題について、もう一つの課題がありそれについて手短にお話しします。私の大学の専攻は物理学で、科学的な事に対して関心を持っています。また、神学校に入学して、神学の博士号を取得しました。こういうわけで、科学とクリスチャン信仰の相互作用に特に関心を持っています。私はまさにこの課題を用いて、人々をどのようにしてキリストに導けるかに携わる「信じる根拠」と言う団体に関わっています。この影響で、私は「地球が若い創造論」及びそれにまつわる問題について学びました。地球の年齢について、教会間で激しい論争があることは残念です。ある意味、宇宙や地球がいつ出来たかなど、重要ではありません。言い換えると、創造がいつだったかが重要なのではなく、だれが何のために創造したのかに焦点を合わせるべきでしょう。しかしながら、私達が不信仰の世界に対して証人となるには、この点は重要となります。また、聖書に教えられているのは、地球が数千年前に、六つの連続している24時間の日の内に創造されたことであると教えられたクリスチャンにとって、地球は遥かに古いであることを裏付ける圧倒的な証拠と突き合わせられたら、躓きの石となりうることも重要です。

ダーウィンの進化論の出現前、創世記の天地創造が24時間の太陽日か長期間であったかは論争にはなりませんでした。教会の「教父」の間では、例えば、創世記を解釈する際に、両方の見解をとったが、クリスチャンの立場として、決定的な見解は出さなかったのです。また、教会のどの信条にも出てきません。学界でダーウィン説が優勢になると、色んなクリスチャンの団体が二つの内の一つの見解を選んだことが多かったのです。進歩主義者の殆どは、彼らの神学をダーウィニズムに合うように調整し、神の創造の方法として、何百万年かけての漸進的創造説を受け入れた。 一般的に、「有神的進化論」或は「進化論的創造論」と呼ばれています。

一方、保守的な人々多くは、「要塞的心理」となり、「進化」そのものが「無神論」と同義語と考えてしまいました。この状況下で、進化論を無効とする「若い地球創造論 」が進化論と戦う聖書的方法として考えられるようになったのです。特に米国では、福音主義の教会の中で優勢となったのです。この説の中心的根拠は、「聖句はそのままの通り」です。この解釈が唯一、新約聖書の明確な教えとされている「人間の堕落の前には死はなかった」という創造説の説明と調和することができるのです。この点は、善なる神が、動物が苦しんだり殺されたりするような天地創造をして、それでも創世記にあるように「極めてよかった」と言われるわけがないという感情論となります。

この考え方を、Mark Whorton氏は、「パラダイスの中での危険」という書籍の中で「パーフェクト パラダイス パラダイム (理想のパラダイスの枠組み)」として理解しています。それは、死も苦しみもない牧歌的な美しい世界。しかしながら、彼が言うには、聖書が真に教えていることは、「パーフェクト パーパス パラダイム(完全に目的達成した枠組み)」。神は、人間の罪のために計画Aが妨害されたために、救済計画 、それは原型の模範を地球に再びもたらす計画Bを工夫して考案する必要があったわけではありません。救済計画は最初から計画Aです。ヨハネの黙示録 13:8に, キリストは「天地創造の時から、屠られた小羊」として描かれているのです。更に、聖書のどこにも「人間の堕落の前には死はなかった」とは言っていません。ローマの信徒への手紙5:12 「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ…」ここで止めたら、神の天地創造の際、人間の罪の結果、死が初めてもたらされたように解釈できるかもしれません。しかし、聖句を続けて読んでいくと、「死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」とあり、ここでは動物の死など話していません。人間だけが神にかたどって創造されたのです。だから彼らだけが神に対して罪を犯しかねないのです。ここで語られている死は、明らかに人間に対するものです。つまり、霊的な死(神から永遠に離別)です。聖書のメッセージは、キリストは、人間としての命を犠牲にすることにより、罪の呪い、それに伴う霊的な死から贖いの道を 供えられたと言うことです。

この課題に対して説明できる数多くの点がありますが、時間がありません。この点についてまだ懸念がある方は後で私と話し合いましょう。私がこのメッセージにこの事を取り上げた主な理由は、私達が信じていることは何か及びそれをなぜ信じるのかと言うテーマに関連しているからです。同じく、教会で育った若者たちが信仰を離れて、世俗の考えに染まってしまうという問題を考えると、これらの「若い地球創造論」に関する問題は、本気で取り扱わなければならないことなのです。信仰を捨てた若者の何%が「若い地球創造論」を唱えている教会の中で育てられたかという統計は持っていませんが、私はかなり高い確率だと考えます。そしてこの問題が信仰を失う、根本的な動力になると思います。

あなたが若者だと想像してみてください。神が24時間の日、連続6日間で地球(また、全宇宙)を6千~1万年前に創造したと聖書が明らかに書かれている、及びグランドキャニオンのような地質を見て、これは5千年ほど前に起こった地球規模の洪水の結果だと教わってきたとしましょう。同様に、アダムが罪を犯した前に「何百年もの死と苦しみ」があったと信じることは、キリストの福音を否定してしまうと教えられたことにしましょう。それであなたが大学に通い、このシナリオが真実ではありえない圧倒的な証拠が突き付けられ、あなたの心に浮かんだ疑いは、今までの教えに対する疑問となり、またクリスチャン信仰全般へ懐疑が生まれます。「このことに対して聖書がこんなに間違っているのなら、聖書全体の言葉をどうして信頼できるでしょうか!」

観念は重要な帰結を導きます。残念ながら、聖書やその教えに対する私達の理解も同様です。キリスト教の主要な教えを真に理解することが必要で、それがなぜ真実で、信じるに値する根拠も理解することが重要です。もしあなたが生涯、温室で育つなら、温室信仰で十分かもしれませんが、人生の嵐、世俗の冷たい風はそうはさせないでしょう。敵意に満ちた世で、単に「偶然のクリスチャン」でいられるわけがありません。私達一人一人が、何を信じ、なぜ信じるのかを考えなければなりません。真のクリスチャン信仰は両親から子らに遺伝しませんし、受け継がれません。信仰を自分のものにしなければなりません。「神には孫がいない。」神には子供しかいないのです。私達一人一人は生まれてきたその時点から、ある意味神の子です。これが第一の誕生。しかし、神との救済関係につながるためには、加えて第二の誕生として神の子になる必要があります。ヨハネの福音書1:12に、イエスについてこう書き記されています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」この有名な聖句で終わりましょう。

祈りましょう。

天にご在天のお父様、私達があなたを信頼することによって、神の子として受け入れてくださり、感謝いたします。ここに、まだ神を信頼していない方がおられれば、聖霊が心に働いて、信頼できるようにお祈りいたします。既に神の子らとなった私達にも、信仰と真実の理由を更に学ぶことができますように助けてください。また、これらの理由を、まだ神を信じていない方々と話し共有し、聖霊の働きにより私達を証人として用い、人々を主に近づけることができますように。尊きイエス・キリストの御名を通してお祈りします。

Updated: 2015 年 12 月 12 日,04:22 午前

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