「ビッグバン」で始まる

(2008年7月6日にKobe Union Churchで説教したメッセージです。)

KUCの代務者の牧師が秋に来るまで、私は「ピンチヒッター」としての働きを始めるとともに、私たちの聖書の学びをその「始め」からスタートしようと思いました。創世記の最初のことばは「初めに、神は天地を創造された」ということばです。ですから、そのところから始めて、いわゆる「ビッグバン」で出発したいと思います。 この「宇宙の起源」という概念は聖書的な世界観にとって、不可欠なことで、クリスチャンとして、私たちが信じているすべてがこれに基づいているのです。従って、今朝のメッセージには、天地創造に対する聖書全体の教えを考えるとともに、それは自然界にみられる宇宙の歴史とどう向き合うか、そして、それは私たちの信仰生活にとっては、どれほど重要なことであるかを述べて行きたいと思います。例えば、あなたは私と同じように「科学愛好者」ではなくても、いわゆる「ビッグバン」という宇宙起源の理論を聞いたことがあると思います。そして、それはどういう意味であるかに対して、漠然としての印象はあるはずです。しかし、残念ながら、この理論に対する多くの人の印象は大きく外れています。これは特に保守的なクリスチャンには多くみられることで、ビッグバン論はダーウィンの進化論とよくごちゃまぜにしてしまいます。アメリカのある保守的な教会が次のことばを道沿いの大きな広告板に書いた写真をみたことがあります。「ビッグバン?それは冗談でしょう!神様」彼らの考え方によると、科学者たちが137億年ほど前に起きたとする最初の「大爆発」は聖書の明らかな教えと完全に矛盾しているのです。 では、それはどうでしょうか。「ビッグバン」という科学的理論は宇宙の起源に対する聖書の実際の教えとどう対照するのでしょうか。その広告板の例から見えるように、それを書いた人たちはビッグバン論が無神論的で自然主義のものだと考えています。実は、問題の一部はその理論に与えられた名称にあります。「ビッグバン」(大爆音)という呼び方は、宇宙には実際に始まりがあったという神学的な意味を嫌っていた無神論者によって作られたことばです。それを軽蔑するつもりで、そう呼びました。面白い言い方だったので、定着してしまいましたが、誤った印象を与える名前だと思います。このために、多くの一般人がその理論が実際に言っていることを誤解することになりやすいのです。創造主を片付けるために無神論的科学者によって作り出された理論だと考える人たちはそれを完全に誤解しているのです。なぜなら、実際はその正反対のことを意味しているからです。もし、宇宙が「ビッグバン」で始まったとすれば、それを引き起こした存在者もいたはずです。 多くの人がこの理論に対してもっている基本的な誤解の一つは、それが巨大な混沌とした爆発だったということです。まるで、超新星の爆発のようなことで、ただそれを遥かに上回ることでした。しかし、その始まりを「大爆発」と呼ぶのは、それが私たちの宇宙を生み出したのは「原始の手投げ弾」の爆発だったという印象を与えます。もし、それが現実に近い描写のであれば、ダーウィン主義の進化論を論破するためによく用いられるたとえ話とよく似ることになります。すなわち、印刷工場に起きた大爆発によって、シェクスピアの全集が落ちてくる破片によって出来上がってしまうことです。大爆発の無秩序から秩序と複雑性が発生することは非常識を極めることです。 この理論が実際に言っていることをもっと正確に表現することは、物質的な宇宙のすべてはその起源の瞬間に無限に小さい領域に閉じこもっていたということです。これは宇宙を構成するすべての物質とエネルギーだけではなく、それらが存在している空間と時間の次元でさえ含まれています。要するに、宇宙の膨張は既に存在していた空間の中で起きているのではありません。宇宙は既に存在している何かの中で膨張し続けているのではないのです。かえって、時間というものが初めて存在するようになった瞬間から、空間の次元が「爆発的に」膨張しているということです。 では、「ビッグバン」の「前に」何が会ったのでしょうか。この宇宙の関係している何も存在していませんでした。しかし、私たちの宇宙の「外」に何かが明らかに存在していました。というのは、「全くの無」は何かの原因となることはあり得ないことです。実は、これは「カラム宇宙論」と呼ばれている伝統的な「神の存在の証明」の一つです。この論証には3つのポイントがあります。それらは次の通りです。「存在するようになるすべてのことは原因を必要とします。宇宙は存在するようになりました。従って、宇宙にも原因がありました。」 偏見のない、真理を求める者であれば、この論法は正しいものであることを認めて、神様が確実に存在すると結論すると私は確信しています。この考えを受け入れたくないのであれば、この論法の二つの前提のどれかが誤っていることを証明する必要があります。これを論破するために、一番よく使われたアプローチは宇宙が永遠の昔から存在していると主張することで、宇宙は「存在するようになった」のではないと言い張ります。しかし、科学的な証拠のすべては空間と時間にははっきりとした始まりが会ったことを強く裏付けるのですから、最近、神の存在を否定しようとする人たちが最もよく利用するアプローチは、既に存在していた何かから、無限数の宇宙を機械的に、そして永遠に吐き出しているという発想です。つまり、この憶測によると、私たちの宇宙は無限に多くの宇宙の中の一つに過ぎないことです。しかし、そのような別な宇宙が存在しているとしても、その存在を観察する方法は論理上全く不可能なことですので、このような憶測は本当の科学ではありません。別な宇宙が存在していないと証明する方法はありませんが、それらが存在すると裏付ける直接な証拠を見いだすことも不可能です。 実は、神様は私たち人間が神の存在を絶対的に証明できないようにこの世をお創りになったと思います。詩編19編に書いてあるように、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」私たちの周りにある自然界は神の存在を裏付ける強い証拠を与えますが、それでも、その証拠を説明して言い抜けることは可能です。少し考えてみると、だれでも否定できない絶対的な証明があるとすれば、神を信じるには何も信仰が必要でなくなります。例えば、雲の中に神が王座に座っているのを直接に目で見ることができれば、信仰は不要となります。しかし、ヘブライ11:6に書いているように、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」神が求めていることは、私たちが信仰を働かせることです。しかし、その信仰は証拠に逆らっている盲目的信仰ではなく、神が創造した自然界の観察に基づいている、確認できる証拠と合致している信仰です。実は、考えてみると、無神論者たちは無信仰を表しているのではありません。私たちの存在には何の理由もないことを信じるには強い「信仰」が必要です。ある著者が本のタイトルとして選んだ題名が好きです。それは「無神論者になるには、十分な信仰がない。」この他に、例えば、神はなぜ悪と苦しみを許すのかという、取り組まなければならない他の難しい課題もありますが、それは別な説教となります。 ですから、今日のテーマに戻って、聖書は天地創造に対して何を教えているか、そして、その重要性をさらに考えましょう。まずは、天地創造は聖書の主要なテーマの一つであること。実は、創世記1章の他に、このテーマを取り上げる、それと同じ程度の詳しい箇所は19もあります。ですから、このテーマに対する聖書全体の教えを正しく理解するのに、これらの長い箇所、またその他に点在している短い箇所を一貫性のある解釈が求められます。 聖書は、もちろん、「科学の教科書」ではありませんので、科学的な専門用語を使いません。しかし、それにも関わらず、自然界に関する聖書の描写は現代科学が示している自然界の記録と矛盾するところは全くないことは驚くべきことです。でも、聖書は本当に「神のみことば」であれば、その通りになるはずです。というのは、もし、自然界は聖書の神の創造であれば、そして、聖書はその同じ神様の霊感によって本当にできた本であれば、調和しているのは当然なことです。しかし、それは科学と神学が相反することがないという意味ではありません。なぜなら、それらは二つとも、人間の試みで、間違っている可能性がどうしても残ります。それは特にその試みが哲学的な要素に支配されている時にそうです。たとえば、自然主義を大前提として主張する、地球上の生命の歴史を研究する科学はその通りです。「ダーウイン主義進化論」のような「科学」は明らかに聖書の教えと矛盾します。しかし、私が主張することは、それは本当の科学、つまり、偏見なしに証拠に導かれる科学ではないということです。それは科学として変装している自然主義の哲学に過ぎません。 生物学の場合、あまりにも複雑で、全体像が見えにくいことになりますが、宇宙の起源と発展を研究する宇宙論はそうではありません。ここでは、全体像がはっきりしているし、それは宇宙が超越的な存在者、つまり、空間と時間の制限を超えている存在者によって引き起こされたことです.そして、その存在者が特定の目的を持って、宇宙の仕組みをデザインしたという結論にも導かれます。 このいわゆる「ビッグバン論」には多くのモデルがあり、科学者たちが提案したそれぞれのモデルをいろいろの観察のデータと照り合わせてどれが合致できるかを試しています。それぞれのビッグバンモデルの詳細が違いますが、皆がいくつもの共通点を伴います。それらは第一に、宇宙は有限な時間の流れの中で、時間の始まりの瞬間と同時に、無限に近い高温と高密度の一点として、全くの無から存在するようになったことです。そして、そのいわゆる「特異点」から不変な自然法則に従って膨張し続けていて、その結果として、だんだんと冷えて行くことです。 では、それらの特徴と聖書の教えとの比較はどうでしょうか。実は、驚くほど合致しています。これらの特徴が現代科学によって発見されるまで、すべての文書の中で、聖書だけこれらの要素を教えていました。100年ほど前まで、宇宙は不変な静止している永遠の存在と考えられていましたが、アインシュタインとハッブルは宇宙が何かの始まりから膨張し続けていると発見しました。それ以前にこれらの特徴を述べていたのは聖書のみでした。もちろん、聖書は「宇宙の膨張」ということばそのものを使いませんが、何カ所では、神が「天を広げる」(英語では、引き延ばす)という表現があります。例えば、イザヤ書40:22には、こう書いてあります。「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張られる。」まずは、地球は”circle”(円形)として述べられていることに注目しましょう。もとのヘブル語ではこの単語は「球状」とも意味することばです。創造主がこの事実をイザヤに掲示しないかぎり、イザヤが知り得ないことでした。その上、イザヤは神が「天幕のように」「天を広げて」いるとも言います。 もちろん、古代人がこの詩的なことばを科学的に理解したはずはありません。しかし、この描写は科学の立場から言えば、正確です。宇宙をこのように天幕を広げて張り付けると類似していることはなぜそう言えるかを説明するのに、時間がかかり過ぎますので、そこまでしませんが、イザヤと同じ暗喩を使う聖書の著者は自分で考えたとは考えられません。当時の文化的な理解に基づいた描写を表現しようとしていたなら、現代科学と合致するこのような表現を考え出したはずがありません。聖書に書いてあるこのような描写をその他のすべての古代の文書と比べれば、その違いが明らかです。この世の起源などを述べるその他の文書や言い伝えには、神々が既に存在していた時間の中に、既に存在していた材料から自然界を作ったことにしています。時間には始まりがあって、そして、天地創造は全くの無からの創造だったことを述べるのは聖書のみです。これは創世記の最初のことばであった「はじめに」ということだけではなくて、例えば、第2テモテ1:9には、パウロは次のことを言いました、「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられた。」 (英語では「時間の始まりの前から」)時間には始まりがあって、神が時間を超越していることは聖書の著者が明らかに理解していました。 すべての「ビッグバン」モデルが持つもう一つの共通する要素は、不変な自然法則に従って膨張し続ける宇宙の平均温度は徐々に冷えて行くことです。聖書には宇宙が冷えて行くことが直接に言及する箇所はないのは事実ですが、はっきり教えるのは自然界が変わらない自然法則によって動いていることです.例えば、エレミヤ33:25には、神が「天と地の定めを確立した」と書いてあります。(英語:「天と地の確立された法則」)他の箇所にも、このように、神が時間の「はじめに」確立された自然法則によって宇宙が動くようにお創りになったことを教えています。また、ローマ書8:20-21に、パウロは、被造物は「虚無に服している」ことと「滅びへの隷属」になっていることを言います。これらは現代科学で「熱力学の第二法則」と呼ばれている法則の描写として、適切な表現です。その法則によると、熱が必ず暑いところから冷たいところへと流れることで、ほっておけば、物事が衰退して行くことを意味します。例えば、私の事務所を片付ける努力をしなければ、だんだんと散らかしになってしまいます。(私が実際にしているかどうかを家内に聞かないでください。そうする気力が衰退してしまったと言うでしょう。しかし、それも「熱力学の第二法則」によるものです!) とにかく、私が強調したいポイントは聖書が自然界をどう表現しているかを正しく理解すれば、現代科学が理解しようとしている自然界の記録との矛盾は何もないということです。しかし、聖書と自然界に対する理解をこのように調和させることに対して、違和感を感じる人がよく指摘することは、科学という営みは本質的に変わるものですので、もし私たちの神学を何かの特定の科学的理論と結びつけると、その理論が覆されて別な新しい理論が優勢となると、私たちの信仰はどうなるかという懸念です。ですから、その懸念をも取り扱いたいと思います。 ある面において、その懸念に共鳴できます。すなわち、私たちの神学は科学的理論に頼るべきことではありません。しかし、ビッグバン創造の出来事に対してその意義を申し立てる人たちはそれが思索的な理論だけで、過去の科学において何回もみられたように、それも別な理論に取り替えられてしまうことを予測しています。別な名称で呼ぶ宇宙起源の新しいモデルが将来に実証されることがないとはもちろん言い切れません。「熱いビッグバン」モデルを裏付ける証拠がどれほど強いものであるかを考えますと、その可能性は極めて低いことですが、例えば、そういうことがあったとしても、その新しい理論が基本的に同じ結論に辿ります。それは宇宙にははっきりとした始まりがあったため、宇宙を超越している存在者によって引き起こされたものだということです。宇宙は自分を創造したのではありません。もし、そうでなければ、そして、これからの科学によって、宇宙には始まりがなかったため、創造者が必要ではなかったことを立証するのであれば、私たちの信仰は大きな危機に直面します。実は、それは例えば、十字架の上に処刑されたナザレのイエスという人物の遺骨が発見され、彼は本当に復活して現在も生きておられることではないと確証されたことに等しいと思います。パウロが言ったように、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」もしパウロが天地創造のことを述べていたら、同じようなことをも言えたはずです。すなわち、「宇宙には始まりがなかったのなら、神もいないことになり、あなたがたの信仰は空想になります。そして、死んだら、それは終わりで、お墓の向こうには何もないことにもなります。」 自信を持って、そうではないと断言できることは、神に感謝します。宇宙の起源に関しては、基本的なビッグバン天地創造モデルはすべての科学的検証を見事にクリアしてきました。それはそれぞれの観察を行っていた多くの科学者たちは信じたくなかったことにも関わらずそうです。なぜなら、創造主を必要とするからで、都合が悪いことでしたから。中には、今なお抜け道を探し続けている者もいますが、新しい発見ごとに、それを裏付ける証拠が増す一方です。 最後に、起源に対する自分の考え方は自分の人生をどのように生きて行くかにとって、なぜそんなに重要であるかを少し述べたいと思います。私たちの基本的世界観、つまり、現実をどのように見えるかということは自分の人生をどのように生きて行くかを大きく左右されます。そして、その世界観は起源に対する考え方に形作られます。人生の「大質問」つまり、私はどこから来たのか、そして、なぜこの世にいるのかに関しては、起源に対する考え方が大きな役割を果たします。今朝は、その最初の起源の問題を話してきました。つまり、宇宙そのものの起源です。同じように重要なのは生命の起源と人類の起源ですが、他の機会にそれを一緒に考えることができるかもしれません。しかし、宇宙の起源に関しては、基本的に二つの選択しかありません。宇宙は独立的に存在しているのか、それとも、宇宙を超越する存在者によって創られたのか、その二つしかありません。最初の方が正しいのであれば、結局私たち人間は唯物論的なプロセスによって偶発的に出来上がった存在だけで、何の目的もありません。しかし、その二つの可能性のうちに後者が正しいのであれば、目的をもって、この宇宙を創造したのは神様で、私たち一人一人を創造した目的も含まれています。 言うまでもなく、これらの二つの基本的選択は私たちが信じる他のすべてのこと、また、人生をどのように生きるかに大きく影響するのです。もし、唯物論が現実であれば、創造主に裁かれることがないし、自分で作り出せる目的以外、存在する目的もなにもないことになります。死ぬ時、最後の審判も霊魂の生存も何もありません。倫理や道徳は相対的なもので、それぞれの文化が作り出したものですから、好き勝手に変えてもいいはずです。また、唯物論的世界観を持つことによって流れてくる同じ様な結果をもたくさん並べられます。 しかし、その反対に創造主が本当に存在するのであれば、目的を持って、私たちを創造した結論に導かれるし、その目的を見いだすことは重要です。その目的に関する神からの掲示はこの聖書なのです。ですから、長い目で見れば、その目的を理解して、自分の人生をそれに合わせることは何よりも大事です。ですから、神の目的の全体像、そして個人として自分はその中にどうかかわるかを理解するために、神のみことばである聖書を勉強することをお勧めいたします。これからの3ヶ月において、神が私たちに与えて下さった二つの「本」、つまり、実際の本である聖書と比喩的な「本」である天地創造のさまざまな課題を一緒に考えて行きたいと思います。この二つの記録を通して神様が掲示している真理を求めて行く努力を神様が祝福することを祈ります。

Updated: 2008 年 07 月 20 日,09:26 午後

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