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ヨハネ9:1-9 Tim Boyle 今日は、「ダーウィンと悪の問題」という表題のもとに、科学と宗教の関係、またその関係が私たちの信仰にどう影響 するかということに関する正しい理解について考えてみたいと思います。私自身は大学で物理学を専攻し、科学的な研究を中心とするこのつくば学園都市でキ リスト教を宣べ伝える事業に携わっていますので、キリスト教の信仰と科学の接点を考えて、福音の宣教のために利用する試みをするちょうどよい場所だと考 えています。アメリカにある”Reasons To Believe”という伝道組織に属して、過去の10年間において、数冊の本やビデオを日本語に翻訳して、それらの日本語版を出版 し、ホームページをも作りました。この働きに関わってから、だんだんと確信するようになったことは、科学と宗教の関係に対する正しい理解を持つことは極 めて重要なことだということです。 わたしは現代科学の発展の歴史を研究してきました。それによって徐々に分かってきた重要なポイントがあります。つ まり、現代科学の発展に関わってきた人たちの世界観が、どれほど大きな役割を果たしたかということです。「世界観」とは自分が生きているこの世の中をど ういうふうに理解しているかということで、すべての人が「世界観」を持っています。科学史家はある一つの見方を共有しています。つまり、「聖書的世界 観」と呼ぶことのできる世界観を人々が取り入れることが現代科学誕生の必要条件の一つであった、という点についてです。「聖書的世界観」を受け容れると は、自然界の現象が神々の気まぐれによって決まるのではなく、唯一の創造主が設定した法則に従っているということを認めることを意味します。この基本的 な条件が初めて他の必要条件とそろったのは、歴史家が確認したところによれば、ヨーロッパにおけるルネッサンスの時代でした。他の必要条件とは社会の情 況に関わることで、たとえば、人々の間に時間的、また、経済的な余裕を持つ人が現れることなどです。社会全体がぎりぎりの生活をしているような状態で は、科学を発展させる余裕は生じないからです。 とにかく、このような基本的な世界観が欠けていたため、現代科学は、言わば「流産」してしまいました。聖書のメッ セージを受け入れたユダヤ教徒とキリスト教徒を別として、それ以外のすべての古代人は、天気など自然界のことはそれぞれを司っている神々がその時々の気 持ちによって決めていることだと思い込んでいました。或いは、神々の世界における戦いなどの出来事の結果であると考えていました。ですから、自然現象は 人間の理解が及ぶこととは全く考えていませんでした。たとえば、海の神の機嫌がよければ穏やかな海となりますが、何かに怒って機嫌が悪くなれば、嵐が起 こる。そういう世界観であれば、自然現象を支配する法則があることや、そういう自然法則を発見する可能性があることなどは、全く思いつかないことでしょ う。これは私の推測ですか、日本語の「天気」という言葉にさえ、その考え方が何となく見えます。「天」の「気」と書きますね。つまり、「天気」は天 (神々)のその時の気分によって決まるものだという感じですね。とにかく、このような世界観であれば、自然界を実際に理解しようとする試みなどは生まれ て来ません。代わりに、宗教的な儀式や魔法的な呪文を通じて、神々を宥めることばかりを考えることでしょう。このように、自然界は創造主の設定した自然 法則によって動いているということが理解できるようになって、初めて現代科学が可能となったわけです。 もう一つの重要なポイントは、初期の科学者のほとんどが敬虔なクリスチャンだったということです。ガリレオ、 ニュートン、また、それほど名の知られていない数多くの科学者たちがクリスチャンでした。(そして、私と同じ苗字のロバート・ボイルもいましたね。)彼 らは現在私たちが「科学的方法」と呼んでいる原理を聖書から読み取って、神によって創造された世界を理解する方法論として利用しました。そして、彼らの 働きが基礎となって、現代科学が発展してきました。 では、キリスト教的な世界観をベースにして始まったこの科学という事業に、反キリスト教的な側面がこれほど強くなってきたのは何故でしょうか。科 学者は自然界の客観的な証拠に導かれて、創造者は実際には存在しないこと、そして、生命は行き当たりばったりの偶然によって発生し進化してきたとの結論 に達したのでしょうか。今日は、その課題を取り上げたいと思います。なぜ科学はこのように変わってしまったのでしょうか。その背景には、神学的な理由が あると私は思います。というのは、悪と苦しみの問題に対して、キリスト教の教会は、十分に取り組んで納得できる回答を与えていなかったという結論が成り 立つからです。全能で愛に満ちていると言われている神が悪と苦しみを許す。その理由をどう説明できるのか。このジレンマは昔から頭を悩ませてきた問題 で、世の人々は答えを求めています。答えはあるのでしょうか。 今日は、この昔から議論されてきた難しい問題を、全面的に解明しようとするわけではありません。それは私の能力を 超えることですし、短いメッセージで到底できることでもありません。実は、長いメッセージででも無理ですね。そして、悪について一般論的な答えを出すこ とはそれほど難しいことではありませんが、特定の個人の場合に当てはめると、事柄は違ってきます。3年前の同時多発テロや新潟、福井などで起きた集中豪 雨のような自然災害が起るたびに、多くの人が経験する悲劇を思い起こされます。このような状況の中に巻き込まれてしまう人にとって、悪と苦しみに関する 一般論的な答えでは満足し難いのです。私たち人間は一つの時間、一つの場所に制限されている小さな存在であるため、何故ある場合には神は癒しを与え、他 の場合は苦しみと死を許すのか解りません。しかし、それでも、神の全体的な計画の中で、悪と苦しみがどういう役割を果たしているかは理解し得ることで す。ですから、そのことについての理解を得ることによって、信仰が強められ、どんな状況の中にあっても、神を信頼できるようになるのです。 このことは後ほどもう少し深く考えたいと思いますが、まず歴史的な背景をみてみましょう。というのも、このメッ セージの表題として、「ダーウィンと悪の問題」を選んだのですから。なぜダーウィンを選んだかと言うと、彼は自然主義による現代科学乗っ取りの中心的な 人物であると同時に、彼の個人的な経験やそれらが彼の考え方にどう影響したかについてかなり多くの情報もあるからです。 チャールズ・ダーウィンはクリスチャン・ホームで育てられ、若い頃は、牧師になるつもりで神学を学んでいました。 その時代にはよくあったことでしたが、ダーウィンは数々の悲劇を経験しました。一番大きな打撃は8歳の時、ダーウィンのお母さんが亡くなったことでし た。やがて神学校を出たダーウィンは、あまり忙しくない田舎の教会で牧会しながら、「自然史」と呼ばれていた自然界を観察したいと思うようになりまし た。その頃、1831年には、もう一つの悲劇がおこりました。長年願望していたカナリ諸島への旅に一緒に行く予定だった親友が突然死んでしまって、その 旅行を断念せざるを得なくなったのです。ダーウィンは大変に落ち込みましたが、結局その体験を通じて、「自然科学者」として南アメリカへ行く英国海軍の 艦船であるビークル号の探検旅行に参加するようになったのです。 若い時に抱いていた信仰を離れさせた要素は他にも様々あったに違いないのですが、この悪と苦しみの問題に直面するジレンマをよく例証する中心的な 経験がありました。それは10歳の娘が病死したことでした。これはダーウィンにとって重要な転機となりました。懸命に祈っていたにもかかわらず死んでし まったために、神はいるとしても人間の世界を少しも顧みてくださらないと結論し、信仰離れに拍車がかかりました。また、数年後にもう一人の子を失い、ま た、ダーウィン自身も長年病気と闘っていたので、以前に持っていた信仰を完全に捨てる結果となりました。完全な無神論者にこそならなかったのですが、こ の世に密接な関係を持つ聖書の神をはっきりと拒否しました。つまり、自然界を創造した神がいることは認めたのですが、その神は全てを自然法則にまかせて しまって、決して介入することはないという考え方を持つようになったのでした。 このようにして、ダーウィンが生命について自然主義的な、つまり神の介入を必要としない説明を探求し始めた時に は、彼にはすでに主観的な目的がありました。その探索が始まった当初は、その目的地はそれ程はっきりしてはいなかったのかも知れません。しかし、個人と しての苦しい体験が重なって行くうちに、その目的ははっきりしてきました。それは生命体の進化を自然主義的に、つまり創造主を必要としないで説明できる 方法を見つけることでした。しかし、今からみると、彼の結論は客観的な証拠に基づいているというより、悪と苦しみの問題に対する彼の感情的な反応に強く 影響されたことであると、私は思います。しかし、それだけで、ダーウィンの結論が間違っているとは言い切れません。そう断定するには、科学的な証拠を、 偏見なく公平に判断することが必要です。はっきり言えるのは、自然主義を讃えている科学者たちが主張している客観性は怪しい、ということです。彼らも、 他の人間と同じように、主観的な偏見を持っています。ただ、それを認めたくないだけなのです。 私の結論は、人の世界観が発展して行く過程において、このような感情的な反応は必ず大きな影響を及ぼすということ です。数年前にアメリカの「Free Inquiry」―「「自由の探求」という雑誌に興味深い統計が掲載されていました。「世俗的ヒュマニズム学会」という会員制の無神 論者の団体が、この雑誌を出版しています。記事によると、その会員のほとんどが厳しい宗教的な家庭で育てられたとのことでした。特に原理主義的なクリス チャン・ホーム育ちの人が多かったそうです。これには重要な意味があると思います。というのは、彼らが子供時代の否定的な経験に反発しているということ が明らかだからです。最近、有名な無神論者の人生を考えた本を読みました。その本によると、その人たちは例外なく自分の父親と極めて悪い関係を持ってい たのでした。父親に虐待された場合もあり、良くても見捨てられていたのでした。 この事実を考えますと、すべてのケースとは言えないまでも、多くの場合、無神論の原因には感情的反応という面が強 く、神や宗教に関係があると考えられる子供時代の否定的な体験に対する反発の結果なのです。もちろん、そういう体験があった場合は必ずそうなるとは限り ません。そういう否定的な面が他の肯定的な体験によって克服される場合もあります。しかし、それがない場合には、無神論的な世界観を持つようになる可能 性が高くなるのです。 現在、おそらく一番影響力のある無神論者は、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンズ博士ではないかと思いま す。彼の個人的な背景については何も知りません。しかし、今まで話してきた文脈から考えますと、彼にも幼い頃に教会に関係のある嫌な経験があったと想定 できます。彼が「創造論」、そして、もっと広い意味の宗教そのものに対してあれほど熱心に闘うのは、そのような個人的な恨み以外のことが動機となること はないのではなかろうかと思います。「世俗的ヒュマニズム学会」の会員のほとんどが育った厳格で宗教的な環境、そして、それに対して拒絶反応を起こして いるという事実は、彼らの動機が真理を客観的に探し求めることにはないことを意味します。「世俗的ヒュマニズム学会」に入ることは、自分たちの育ちを拒 否したことを正当化する手段に過ぎないのです。自分たちを「懐疑論者」と自称していますが、実は、逆説的に、彼らは十分に懐疑的でないとも言えます。 闘っている宗教的な主張に対してばかりでなく、自分の動機についても、懐疑的になるべきです。場合によって、懐疑論はよいことです。ある意味で、聖書は 私たちに「懐疑的」になることを勧めています。すなわち、ものごとを簡単に信じる前に、それらが正しいかどうかを確かめるべきであると教えています。第 一テサロニケ5:21に書いてあるように、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」これこそ「科学的方法」の本質なのです。すべての主張を試 して本当であるかどうかを確かめるということです。 悪の問題を取り上げる前に、もう一点指摘したいと思います。それは自然主義の哲学的前提です。この頃、「知的デザ イン」と呼ばれている運動が盛んになってきました。私はそれを支持する学者とそれを批判する自然主義者との間の議論を数回聞いています。それを批判する 側が必ず主張するポイントは、科学は「方法論上の自然主義」の立場からしか成り立たない、ということです。その定義は、「科学は自然的な因果関係しか研 究できないものであり、超自然的な側面をそれに取り入れる余地はない」ということです。従って、自然界を超越する存在者からのインプットの可能性を受け 容れている「知的デザイン」は科学ではなく「宗教」だ、と主張し続けています。 このことを考えているうちに、議論がなかなか進展しない理由は、科学の二つの異なる領域をきちんと区別していない からだということに気づきました。つまり、「経験上の科学」と呼ばれている普通の科学と、もう一つは「歴史的科学」と私が名付けた分野です。この「経験 上の科学」の分野は直接に観察でき、そして、繰り返して実験できる自然界の現象に当てはまります。つまり、学校での理科の授業における実験などの普通の 科学です。この場合は、このいわゆる「方法論上の自然主義」は絶対条件であるということは私も認めます。「知的デザイン」を勧めている学者の中に、そう ではないと主張する人は誰もいないはずです。何らかの直接的な観察や実験をする時に、「超自然的なインプット」を取り入れることは許されません。実は、 それこそが現代科学の基礎、そのものなのでした。もし科学実験を行うたびに、それが超自然的にコントロールされているために結果が違ってくる可能性があ ると疑われるなら、科学は成り立たないことになり、自然現象は気まぐれの神々に支配されているという古代の世界観に戻ってしまいます。 しかし、これで必然的に、創造主による超自然的な介入を排除したことになるのでしょうか。普通、自然現象は自然法 則に従って動くものと考えますので、奇跡というものが実際に存在するとしても、それは予測できるものではありません。もちろん、私は奇跡があることを信 じています。しかし、初めからそうだと思い込むのはよくないことです。先ずは、過去からの証拠をよくみて、そこから判断すべきです。これはもちろん、 「経験上の科学」ではありません。しかし、進化論や地球上の生命の歴史の研究も同じです。これらは「経験上の科学」ではなく、「歴史的科学」なのです。 それは科学的方法によって成り立つより、歴史的分析の法則が適応されるものです。化石学のような分野の中に、経験上の側面が含まれてはいますが、総じて 見れば、起源や過去の出来事を研究する科学の分野は、本質的に経験科学ではなく、歴史なのです。 人間の普通の歴史の場合、過去のできごとに関して実際に何が起ったのかは、どうして分かるのでしょうか。できるこ とは、入手できる情報を分析して、それらの事実と合致し得る可能性のあるシナリオを割り出すしかありません。でも、歴史は未確定であり、新しい歴史的証 拠が発見されれば、その歴史は根本的に書き直される可能性があります。とにかく、歴史的証拠がキリストの復活の奇跡を強く支持するのと同じように、自然 界にみられる証拠が生物に超自然的にデザインと情報がインプットされたことも支持しています。そうではないと主張するのは哲学上の理由だけからに過ぎ ず、その目的は超自然的介入を初めから排除することにあるだけのことです。 では、これほど必死に自然主義のモデルにしがみつく動機は何でしょうか。決して証拠がそれを支持するからなのでは ありません。ただ、初めから決めつけた前提であるだけなのです。私の考えるところ、その基本的な理由は宗教、特にキリスト教会の失敗に対する感情的な反 応に強く影響されていると思います。多くの失敗を指摘することができます。しかし、この問題に一番深く関係しているのは、クリスチャンが悪と苦しみの問 題に十分に取り組んで納得できる答えを出していない。そういうことではないかと思います。たとえば、アインシュタインが聖書の神を結局否定してしまった 中心的な理由はこれだった、と報告されています。自分の科学的な研究からは宇宙の創造主が存在すると納得していました。しかし、愛である全能の神がなぜ 自分の目で見たひどい悪を許すのか。そういう疑問を、知っているクリスチャンにぶつけた時、彼らは満足できる答えを出せなかった。だから、結局、聖書に 示された神を受け入れなかったし、神はこの世に関わりを持たない、遠い存在の神だと考えるようになったのです。 この悪と苦しみの問題は極めて重要です。残りの時間で、それを詳しく考えていくことはできませんが、少なくとも大 筋のことは考えてみたいと思います。以前、つくばの教会で行った「なぜ悪い事が良い人に起こるのか」と題した説教で、この問題を聖書全体の観点からどう 考えるべきかについて話をしました。今朝の残りの時間では、聖書の多くの箇所を取り上げることはできません。一箇所だけ選びましょう。先ほど朗読したヨ ハネ福音書9章ですが、その観点から考えてみましょう。この箇所によると、イエスの弟子たちは、何故ある人は生まれつき目が見えなかったのかを知りたい と思いました。彼らは目が見えない人に生まれた理由は罪によると思い込んでいました。このことや他の問題は、ある意味で、神に逆らった結果としての堕落 した世の中に生まれたためにくる、広い意味で間接的に人間の罪による結果だとは言えます。しかし、イエス様は、これはその視覚障害者自身の罪にも、また 親の罪にも原因があったわけではないと指摘し、これは、ただ、神がご自分の力と栄光を現すためにあったことだと言いました。 この話は神の長期的な目的を取り入れていて、この問題を考えるうえでの新しい観点を与えてくれています。問題は、 私たち人間には、すべてを自分の制限されている観点から物事を考える傾向があるということです。つまり、この地上での短い一生という枠組みの中からしか 見ていません。それしか直接に経験できないので、これはごく自然なことではあります。私たちが神の全体的な視野を取り入れるのは、神が御言葉を通して私 たちに信仰の目を開かせてくださることによってのみ、可能になるのです。 神の究極的な支配のもとにあるこの世に、悪と苦しみが存在することは、人間の狭い視野から見れば矛盾と映ります。 その解決への道は、神の広い視野を取り入れることにあります。神の究極の目的は、人間の自由意志を侵さないまま、悪と苦しみを完全に克服することにある と、聖書は教えています。この宇宙を創造した神の目的は二つありました。一つは私たち人間を育む環境を造り上げること、もう一つは人間の自由意志を保ち ながら、悪の問題を素早く解決することでした。 神は二つのタイプの生命を創造しました。目で見える肉体的な生命と、目では見えない霊的な生命です。私たち人間は、この両方の生命が相俟って与え られた唯一の被造物です。肉体的には、私たちは動物です。しかし、この肉体には神にかたどって創られた霊が宿っています。自由意志を与えられた被造物と して、私たちは創造主に従うことを決意することができますし、また、創造主に逆らうこともできます。しかし、この自由意志は無制限なものではありませ ん。当たり前のことですが、自由意志によって自然法則を破ることはできませんし、霊的な意味では、自由意志を働かせて神の究極的な目的を打ち破ることも 不可能です。これらは絶対的な制限です。 実は、このことはキリスト教のもう一つの逆説に関係しています。私たち人間にはこの制限の範囲内での自由があるのと同時に、神はすべてを予めご存 知であると、聖書は明白に教えています。キリスト教のある教派は、神が初めからすべてのことを決定している、というふうに聖書を解釈します。これは「予 定説」と呼ばれていて、そのもう一つの考え方である「自由意志説」を論じる多くの本が書かれてきました。しかし、その解決はどの視点からこの問題を考え るかにある、と私は思います。人間の立場から見れば、これをするか、あれをするかは制限範囲内での自由意志によるものです。しかし、空間と時間の制限の 外にいる神の立場から考えますと、神は、例えば詳細なことまででなくても、少なくとも重要なことのすべてを既にお決めになっているのです。しかし、この 概念を人間の言葉で表すのに「既に」と言わざるを得ない。私たちはそれによって、私たちの限られた視点に戻ってしまいます。ですから、どう考えても、こ れは私たち人間の思考能力を超える問題です。 では、悪と苦しみの問題はどうなったのでしょうか。具体的なケースになると、どうしても疑問点が残ります。しか し、私たちには、この人生において起こるできごとを永遠の生命の立場から考える枠組みを与えられています。幸せな人生を送るために必要な二つの原理に関 する英語のことわざを思い出します。第一に「些細なことに気をとられるな。」第二の原理は「すべてが些細なことだ!」この地上の人生の立場から考えれ ば、そんなことは決して言えないのですが、永遠の生命の立場から考えれば、その通りなのです。この短い地上の人生がすべてと思うなら、どれほど長い人生 を送るか、どれほど楽な人生を送るかが一番重要なこととなります。しかし、永遠の生命の立場から考えれば、そうではなくなります。これは、健康的な長い 人生を送ることができるように努力しなくてもいい、という意味ではありません。自分をはじめ、すべての人の健康を守ることは、キリストの弟子としてなす べきことです。しかし、それと同時に、神によって創造され永遠に生きるものとして、この肉体的な人生が私たちの存在のすべてではない。そのことを忘れて はなりません。譬えて言うなら、この人生は劇の「序幕」に過ぎないのであり、主要な「幕」は約束されている「新しい天と新しい地」において演じられるの です。必ず訪れる人生の嵐に耐える力の源となるのは、この観点です。 人間の限られた立場から考えると、人生は本質的に不公平なものです。ある人は若いうちに死んでしまい、また、極めて不幸な人生を送らなければなら ない人もいますし、他の人はとても裕福な楽な人生を送るということがあります。何故、そのようになったか。その具体的な理由を割り出すことはできないか も知れません。しかし、すべての人の人生は何らかの形で神の偉大なご計画に添うものだと理解すると、私たち自身はどんなことになるとしても、神を完全に 信頼できると確信するようになります。もちろん、これで受け身になって、積極的に物事を改善しようとしない方が良いという、そんな意味ではありません。 だた、よく識別してからそうするべきだという意味です。「アルコール中毒者の祈り」として知られている、とてもふさわしい祈りが、この点をうまく説明し ています。「主よ。変えられることを変えて行く勇気と、変えられないことを受け入れる寛大さ、そして、その二つを見分ける知恵をもお与えくださ い。」 もし、ダーウィンにこのような理解があったならば、自分の信仰の危機に対する反応は変わったものとなっていたのでしょうか。もちろん、それを確実 に知る方法はありませんが、おそらく違ってきたと思います。もし、ダーウィンが娘の死や自分に降り掛かったその他の悲劇を健全な仕方で受け止める洞察力 があったなら、自然主義の進化論の説を立てた科学者としてではなく、偉大な神学者として世の中に名を残したかもしれません。そうだったとしても、神に不 満を持つ他の人が、ダーウィンの代わりに、その同じ仮説を考え出すことは時間の問題だったでしょうが。 最後に、皆さんにお勧めしたいメッセージは、神を信頼してすべてを御手にゆだねてもいいということを心に留めてく ださい。イエス様の忠実なしもべとして、この世で平和と正義の器となるように勧められてはいますが、その結果は、神に任せることです。ですから、自分の 支配の及ばないことに余計な気を使うことは避けるべきです。先ほど読み上げた祈りを、毎日、心から祈ることが必要です。では、それを一緒に祈りましょ う。「主よ。変えられることを変えて行く勇気と、変えられないことを受け入れる寛大さ、そして、その二つを見分ける知恵をもお与えください。」 |