天国と地獄 ― 夢か真か?


天国と地獄 ― 夢か真か?

2011年7月24日 (Kobe Union Church)

人は死ぬとどうなるのでしょう?天国や地獄は実在するのでしょうか?誰もが天国や地獄は実際どういうところなのだろうかと疑問に感じています。また、それらは(少なくとも、地獄は)実在するのだろうかと疑う人もいるでしょう。聖書は勿論、どちらとも実在すると教えています。人間は皆、神様の似姿として創造され、その魂は永遠に生き続けるとも強く主張していますが、それは神様とともに天国で生きることか?もしくは、神様とすべての良きものから永遠に切り離され、地獄の闇に放り込まれることなのか?ですから、存在するとは言っても、その形態はこの2つに一つなのです。天国について語るのは素敵なことかもしれません。そういう説教を聞くのを嫌がる人は勿論いないでしょう。しかし、私は今朝、「険しい道」を選ぶことにし、地獄と言う概念に焦点を置くことにしました。

終りなき地獄での苦しみとは、殆どの人がやはり抵抗を感じてしまう概念でしょう。少なくとも、英語圏の背景では近頃、大きくクローズアップされるようになりました。今年の初め、アメリカ人牧師のロブ・ベルが「愛は勝つ」(原題: “Love Wins”)という著書を出しました。これは後にベストセラーになったのですが、最近になって地獄という概念をどう理解して良いのかについての関心がより一層高まったのは、おそらくこの本が主なきっかけになったからかもしれません。ベル師が取り上げた点をこれから考えて行きたいのですが、まずはこの牧師がYou Tube(動画サイト)に載せた動画をご覧ください。この動画こそが、議論の発端となりました。グーグルで検索しても、この動画に対しての反応や反対意見をたくさん見つけることができます。実に、議論の「嵐」 が巻き起こったわけです。話題が地獄だけに、「嵐」がおそらくぴったりの表現かもしれませんね!

(ビデオの内容 ― 和訳) 「数年前、私達の教会で開かれたアート展に、たくさんの方々の彫刻や絵画が展示されました。そのうちの一点には、ガンジーの名言が加えられていて、多くの方々に感動を与えました。来場者は、その作品の前で立ち止まり、じっと見つめては、心にしっかりと受け止め、じっくりと考えたりしていたのです。しかし、皆が皆、同じ感動を共有したわけではありませんでした。アート展の期間中、誰かがその作品に手書きのメモを引っ付けたのです。そのメモには、このようなことが書かれていました:「目を覚ましたら?この人は地獄にいるよ。」ガンジーが地獄に?それは一体どういうこと?しかし、やたらと確信を持った誰かが、皆に伝えたくてこのようなメモを付けたのでしょうか?数少ない選ばれし者達だけが天国に行き、その他の数え切れないほどの人々が地獄の火に永遠に焼かれるのでしょうか?もしそうだとしても、どうしてそれが分かるのか?どうすれば、数少ない者の一人になれるのか?それは、何を信じているかによるのか?それとも、自分の言動?もしくは、誰を知っているかによるのか?それとも、心の内で何かが起こるから?それは、授与されるべきもの?または、洗礼を受けなければならないのでしょうか?授業で学ばなければいけないのでしょうか?改宗すれば良いのか?それとも、生まれ変わらなければいけないのか?一体、人はどうすれば数少ない選ばれし者になれるのでしょうか?さらに、この質問の背景には、また別の疑問があります:「神様は、どのような御方なのか?」なぜなら、イエス様を信じなければ神様によって地獄に堕とされるという第一の教訓(すなわち、イエス様の福音の軸にあるメッセージ)を多くの人々は教えられているからです。ですから、それとなく把握され、教え込まれたことは、つまりイエス様ご自身があなたを神様から救うということ。しかし、そんな神様とは、一体どのような神様なのでしょうか?良い御方なのか?信頼できる神様なのか?果たして、それが福音(=良き知らせ)と呼べるものでしょうか?そういうわけで、多くの人々はキリスト教と関わりを持ちたくないと思っています。要するに、不条理と矛盾を数え出せば切りがないと感じていて、「そんなものに関わりたくない」と言うのです。私達が、天国や地獄について信じていることは、とてつもなく重要。なぜなら、神様が誰であり、どういう御方なのかという自らの信仰がさらけ出されるからなのです。では、聖書を通して知り得ることは何でしょう?それは、実に驚きに満ち、思いがけないことであり、麗しい事実。よって、これまで伝えられたこと、教えられたことよりも、福音のほうが実は遥かに望ましく、私達の想像を遥かに超えています。その良き知らせとは、愛は勝つということなのです。」 (ビデオ、終り)

さて、お聞きになられたロブ・ベル師の言葉ですが、とても魅力的で、引き付けられるものでしたね。その上、考慮されるべきありとあらゆる問題が提起されています。一度の説教では語り切れないほども。また、上手くまとめ上げられているとも思います。ベル師は、自分の考えを直接述べず、ただたくさんの問いを投げかけました。これらの問いは勿論、誰かに答えを見つけて欲しいから聞いているのではありません。答えを必要としない問いかけなのです。死後の世界に対するベル師自らの理解を裏付けるため、いろいろと主張したいので、これらの質問が投げかけられていました。

私は、ベル師が挙げた点のいくつかには賛成ですが、その結論をまったく支持できるとは言えません。それでも、この議論によって大きな関心が呼び起こされたことを嬉しく思い、健全なことだとも思います。私だって、ある面においては、自分が信じていることが間違っているのかもしれない。だからこそ、より深く聖書を掘り下げ、どこに真実が眠っているのかを一生懸命に探ろうとする努力は、良いことなのです。

ベル師の見解は、基本的に「ユニバーサリズム(万人救済説)」に基づいています。つまり、結局最後には誰でも天国に入れるという考え。つまり、最後には「愛は勝つ」ということ。しかし、これは何も新しい思想ではありません。3世紀に実在したオリゲンという人物は、最も影響力のある「教会の父」の一人に数えられていますが、この人も同じ考えの持ち主でした。オリゲンが言わんとしたことは根本的に、次のとおり:「この世でイエス様を信じることにより義とされなかった者にはもう一度チャンスが与えられる。神様の愛はあまりにも強いので、誰もが結局のところ赦しを受け入れる。」実のところ、オリゲンはサタンとその手下さえも最終的には引き寄せられるのだとまで言ったのです。オリゲンのその他の信条は概して正統派と見なされましたが、この教えだけは教会の公会議によって異端だと非難されました。同様に、私が属する教派の某指導者がその説教で、「誰もが一人残らず居るからこそ天国ではないか?」と語ったことを覚えています。つまり、愛する者達が共に居なければ、そこを天国と見なすことができるのか?と言うこと。ですから、ロブ・ベル師だけが、このような考えを持ったクリスチャン指導者ではないのです。

さて、私自身もこれらの感情に共感できます。もし自分だけで決められる問題ならば、「勿論、誰でも天国に入れてあげて!」と言うでしょう。神様とその愛から永遠に切り離される定めなど、考えただけでも恐ろしい。だから、誰もそういう目に遭わないことを願います。実際、神様でさえ、ある視点から見ればそう感じているのでしょう。神様が何を望んでいるかに限って言えば、(理想としては)皆が救われることがその願いなのです。イエス様も、「・・・すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネによる福音書12章32節)と言われました。また、「・・・これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイによる福音書18章14節)とも言っています。しかし、聖書には、すべての者が救われることはないのだとはっきりと記されているのです。では、一体何が問題なのでしょう?

要するに、問題とは、愛だけが神様のご性質ではないと言うこと。神様はまた、聖く、正しい方でもあります。私達が自由意志に基づいて、神様を受け入れることを選ぶのを願っておられるのです。しかし、神様でさえも、無理に人の「自由な」選択に割って入ることはできません。例えば、「丸い四角」など無いように、または「既婚の独身男性」なんてあり得ないように、矛盾してしまうわけなのです。そのような本質など存在できるはずありません。ですから、全知全能の神様が人の自由意志を力ずくで左右できると主張するのは、筋が通らない話なのです。

聖書にははっきりと、神様は私達を自由意志を持った者として創造されたと記されています。ロボットのように一つ一つの行動が予め決まってはいません。私達は神様との永遠の交わりのために創られましたが、歴史を見れば明らかなように、人類のおそらく殆どは自由意志で創造主を受け入れず、好き勝手に自分の道を選んだのです。実のところ、私達は皆、そうしてしまいましたが、中でも一部の人達は神様の赦しを受け入れ、その御元へもう一度引き戻されることを選びました。ですから、誰もがいつかはたどり着けるような場所として神様が実質的に天国を「全員参加」の場とすれば、人間の如何なる自由も事実上否定されるということになります。しかし、この自由こそ神様が最も大事にしていることなのです。ご自身を押し付けるのではなく、神様を崇め、褒め称えるために「膝を屈める」ことを自由に選ぶ者たちに天国を与えることによって、現に神様は私達の自由意志に基づく選択肢を尊重し、配慮してくださっているのです。

それは、このようにも表現されています:「『御心が行われますように』とこの世で神様に応えるのか?それとも、死ぬ時に『自分の思ったとおりになるが良い』と神様に言われてしまうのか?」もしこの世で神様を受け入れなければ?神様はただ、私達が求めていたもの(つまりこの世での私達の「意志」)をお与えになられるでしょう。それはつまり、神様とはまったく無関係になってしまうと言うこと。そのようなことを知っておきながらやってしまう人がいるでしょうか?しかし、無心論者の主張はまさしくその通りなのです。ある無心論者は言いました、「地獄で君臨する事は、天国で仕える事に勝る!」と。要するに、神様とまったく関わりを持ちたくないと言うことなので、神様も「自分の思ったとおりになるが良い!(お好きなように!)」と、ただただその者がしたいようにさせるのです。

さて、キリスト教徒でない者のほとんどは、そうではありません。では、どういう者達なのでしょうか?ロブ・ベル師は聞きました、「ガンジーは、地獄にいるのか?」と。勿論、私には、ガンジーの魂が今どこにいるのかを正確に答えることはできません。もしかすると、本当は天国にいるのかもしれません。ただ、もしそうだとすれば、それはキリストがガンジーのためにも十字架で行った御業によってであり、ガンジーがその定めが決定づけられる前に心で信じたからなのです。

では、なぜロブ・ベル師は、ガンジーが天国にいると確信しているのでしょうか?それは、ガンジーが善人だったから?しかし、ベル師はどうやってガンジーの心の奥底までを知ることができたのでしょうか?確かに、ガンジーはたくさんの偉業を果たした人物です。ただ、聖書の核となる教えの一つに、神様の御前で義と認められるのは、行いによってではないとあります。私達は、キリストに対する信仰によって、またキリストが私達のために行ってくださったことによって義とされるのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神様の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソの使徒への手紙2章8~9節)。

ベル師はまた、「数少ない選ばれし者達だけが天国に行き、その他の数え切れないほどの人々が地獄の火に永遠に焼かれるのでしょうか?」と問いましたが、この答えを必要としない問いかけをこれ以上ないほど酷い観点から聞いているわけです。ここで、イエス様ご自身の言葉を見てみましょう:「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音書7章13~14節)。なるほど確かに、厳しい言葉です。私も、あまり「気に入った」とは言えません。人としての限られた観点からすれば、そうでなければ良いのにと思ってしまいますが、一体何様のつもりで、「不公平だ」と神様に言えるのでしょうか?

ベル師は続けてこう言いました:「この質問の背景には、また別の疑問があります:『神様は、どのような方なのか?』なぜなら、イエス様を信じなければ神様によって地獄に堕とされるという第一の教訓(すなわち、イエス様の福音の軸にあるメッセージ)を多くの人々は教えられているからです。」言わんとすることが、こういうことだろうと多くの人は思ったでしょう。実際、たくさんのクリスチャンはそうだと誤解しています。しかし、聖書が伝えていることはそうではありません。聖書は、イエス様を信じなかった者が地獄に堕とされるとは伝えていません。では、なぜ地獄に堕ちてしまうのか?それは、神様の掟を破り、キリストへの信仰によって与えられる赦しを拒否し、キリストが十字架で私達の罪の身代わりになってくださったことを認めないからなのです。また別のよくあるお思い違いでは、神様は私達の良き行いと悪い行いを天秤にかけ、良き行いが上回っているのなら天国に入れると言いますが、それも違います。神様の基準は完全無欠なので、イエス様以外の誰も聖なる神の御前で罪のない者にはなれないのです。従って、私達自身の真価によるのなら、皆は地獄へ堕とされても仕方ないでしょう。ただ、そのような定めを免れる者は、神様の恵みによって救われた者達なのです。

引き続き、ベル師の問いかけを見て行きましょう:「それとなく把握され、教え込まれたことは、つまりイエス様ご自身があなたを神様から救うということ。しかし、そんな神様とは、一体どのような神様なのか?良い御方なのか?信頼できる神様なのか?果たして、それが福音(=良き知らせ)と呼べるものだろうか?」ここで、また問題となっているのは、神様の基本的ご性質の一つだけ(つまり、神様の愛だけ)しかロブ・ベル師は見ていないということなのです。もし神様が愛以外の何者でもなければ、ベル師は正しいのかもしれません。愛だけの神様なら、イエス様がそのような方から「救ってくださる」ということは筋が通りません。しかし、違う意味で考えると、確かにイエス様は私達を神様の別のご性質から救ってくださいます。それは、神様の聖なる怒り。イエス様ご自身の言葉によると、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネによる福音書3章36節)。つまり、どの人間も、そのままの状態であれば、「神様の怒り」が留まってしまっているのです。なぜなら、私達は皆、罪深い者と神様の目に映るから。第二テサロニケの使徒への手紙でパウロは、このように綴りました:「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(1章10節)。

この聖句以外にも、あらゆる種類の罪に対する神様の怒りが聖書のあちらこちらに記されていて、私達はその怒りや、それから来る結果から救われなければなりません。しかし、その救いこそ、イエス様がご自身に信頼を寄せる者に行ってくださる福音の「良き知らせ」そのもの。そして、それは神様が全世界の全人類にお望みのことなのです。だからこそ、ヨハネによる福音書3章の最後に述べられる警告の前に、ヨハネは聖書で最も有名な聖句を記しています(3章16節):「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そしてまた、ヨハネはこのように続けました(17~18節):「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

ベル師は、その著書を語るビデオの締めくくりに、こう述べました:「私達が、天国や地獄について信じていることは、とてつもなく重要。なぜなら、神様が誰であり、どういう御方なのかという自らの信仰がさらけ出されるからなのです。では、聖書を通して知り得ることは何でしょう?それは、実に驚きに満ち、思いがけないことであり、麗しい事実。よって、これまで伝えられたこと、教えられたことよりも、福音のほうが実は遥かに望ましく、私達の想像を遥かに超えています。その良き知らせとは、愛は勝つということなのです。」ここでベル師が述べていることは的を射ていると思いますが、私がそう思うのは、ベル師と同じ理由からではありません。「愛は勝つ」、なぜなら神様が勝つからです。愛は全体像のごく一部に過ぎません。愛と共に、正義も勝つ、また聖さも勝つ。なぜなら、それらすべてが神様であり、そのご性質はそれらだけにも留まらないのです。

要は、愛だけが孤立して勝つのではなく、神様がそのご性質すべてを持って勝つのです。それこそ、私が付きたい側です!また、神様の備えを受け入れた時、私達は神様の側に付けるであろう確信を頂くことができます。つまり、地獄に繋がる如何なる罪でさえも、イエス様の十字架での購いによって赦されるということ。ただし、それは私達が、その赦しを受け入れいれればということ。実に、「良き知らせ!」だと思いませんか?

今朝の説教時間も残すところわずかとなりましたので、最後に地獄やその様子についての間違ったイメージを見て行きたいと思います。天国がどのような場所かについて非現実的な思い違いがあれば、地獄についても多くの突飛な誤解があるようです。中世の絵画などでよく目にする地獄の描写ですが、それらは聖書に基づいた正確な教えと言うよりも、当時の地下牢が描かれているに過ぎません。ただ、このような空想的な地獄の描写も、悪いことばかりではないと思います。死後の世界について真剣に考え、そのような定めに苦しまないよう神様に信頼を置こうと人の心を動かす動機となり得るかもしれないからです。

ただ、「人を怖がらせて天国に近づける」ことは、とても理想的とは言えません。地獄の恐れによって天国を乞うよりは、神様の愛によって天国に引き寄せられるほうがずっと望ましいでしょう。しかし、恐れにも適所があります。イエス様は言われました、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイによる福音書10章28節)。ですから、キリストを通して神様の赦しを受け入れなければ、聖い神様の御前で恐れおののいてしまっても仕方のないことです。ローマの使徒への手紙でパウロは次のように綴りました(1章18~20節):「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」従って、私達が恐れなければならない「神の怒り」と言うものがあります。ただ、神様と御救いを拒まない限り、その怒りを恐れることはありません。

そう言うわけで、今朝の説教で触れたい最後の点に辿り着きました。要は、地獄というところ、またその実体をどのようにして理解すべきか?と言うこと。聖書では、「火の池」や「外の暗闇」など鮮明なイメージで表されています。しかし、考えてみると、これらはこの地球上の物理的な領域をそのまま表現してはいません。なぜなら、「火の池」があるところでは、何も見えない真っ暗闇であるはずもないからです。従って、これらは比喩的表現であり、私達が理解し得る言葉で地獄を表しているわけです。

地獄についての誤った考えは様々ですが、中でも最も危険な誤解は、神様は地獄に送った者達を「拷問にかける」という考え。まず、神様が人を地獄に「送る」と言うのは正確ではありません。その上、地獄に堕ちてしまった魂を神様が自らの手でひどく苦しめることはあり得ないのです。(地獄に堕ちた者が)苦しみを確かに味わうとしても、それは神様によるものではなく、むしろ自分自身の行いのせいであったり、悪しき霊がそうしているからです。

天国や地獄について私達が抱くこれらの考えにはある程度、若干の推測が含まれています。なぜなら、身近な体験を超えた領域の話であり、聖書に記されている象徴的な描写しかないからです。ここで、私個人の推測を語らせてください。願わくは、聖書の言葉による鮮やかな描写に基づき、一致していますように。日本は、クリスチャン人口が少なく、非キリスト教の宗教的伝統が根強い国です。では、「良い」人達でもキリストを知らなければ一体どうなるのか?この問題は、私達が特に考えて行かなければならないものでしょう。

この世の中には、イエス様のことを耳にしたことがない人達がたくさんいます。また、正確な、理解しやすい方法でイエス様がどのようなことを私達のためにしてくださったかを聞いたことがない人達も多いのです。では、そのような者は皆、地獄に堕ちてしまうのでしょうか?何度言っても足りないぐらいですが、ここでもう一度言わせてください。イエス様を救い主として受け入れなかったからと言って地獄に堕ちる人は一人もいません。 そうではなく、神様の掟を破り、神様を褒め称えないから地獄に堕ちてしまうのです。私達は皆、罪人なので、地獄は誰にとっても「初期状態」のところでしょう。そのような定めから人々を救うのが神様の仕事ですが、御国に加えて欲しいと私達が願うことも求めておられるのです。イエス様について聞く機会が一切与えられない状況に生まれて来た人がいたとしても、神様は誰にでも自然を通して啓示を与えてくださいます。神様は私達の心をご存知なので、進んで求める者がいるのなら、その者が決心できるよう十分な光を与えてくださるでしょう。このようなことは、イエス様がこの地上に来られる前に明らかにそうでありました。しかし、イエス様がお生まれになる以前の時代の人達のためにも、創造主に信頼を置くことにより、彼らにとって遥か未来のことだったとしても、やはりイエス様の十字架での犠牲が救いの基となりました。現代でも、同じだと思います。イエス様の福音を耳にし、理解する本物の機会がない人々は事実上、未だ「紀元前」の時代を生きているのです。この人達の世界では、キリストはまだ「お生まれになっていない」ので、未だ耳にしていないことに基づき裁きを受けるのではなく、賜った啓示によって判断されるのです。

純粋に心を開いている者に、神様は福音を届ける手段をたびたび見出されます。今日の世界でも、いつもそうされているのかもしれません。どこで線引きをされるのかはっきりとは分かりませんが、私はあることを確信しています。それは、「ああ、知っていれば良かったのに!知っていれば、主よ、あなたを選んでいました!」と神様の哀れみを懇願する者は、地獄には一人もいません。地獄にいる人達は、なぜそこにいるかと言うと、神様を拒み、己が好む道を進んでしまったからです。現実となってしまった苦しみを味わうことをきっと後悔しているでしょうが、悔い改めようとはしていません。実のところ、悔い改めることがもうできないのです。死後に悔い改めの機会がもう一度与えられ、神様の永遠の御国の一員となりたいと決心できるなど、聖書のどこを見ても、そのような教えは記されていません。神様は、人が求めるものをお与えになります。神様とかかわりを持ちたくないと願ったので、それが最終的なものとなりました。そのご臨在から永遠に追放され、己の反抗心に対する報いだけを得るのです。

地獄の存在を考えるにあたり、一つの方法は、地獄を暗闇や冷たさと比べてはどうでしょうか?なお、暗闇も冷たさも、物理的に実在するものではありません。暗闇は、ただ単に光のない状態であり、冷たさは熱がないことを意味します。どちらも、それ自体としては存在することはありません。この比較を用いることにより、地獄が実際は存在しないなどと言おうとしているのではありません。ただ、私が言いたいことは、同じような意味で、地獄と言うのは神様のご臨在がなく、すべての良きものが欠落している場所だと言うことです。天国がプラスの存在であれば、地獄はマイナスのような存在です。聖書では、「外の暗闇」(マタイによる福音書8章12節)と言い表されていて、「神は光であり、神には闇が全くない」(第一ヨハネの手紙1章5節)ので、必然的にも地獄とは神様の存在がまったくないということ。これら2つは共存することがあり得ず、離されなければならないのです。

では、地獄に堕ちた者達は、どのような苦しみを受けるのでしょうか?ここでもまた、推測することしかできませんが、いわゆる物理的な「火の池」で焼かれるような文字通りの物理的処罰ではないでしょう。地獄に居る魂には、私達のような肉なる体がありません。とにかく、どのような罰であっても、それが心地良いものでないことは確かです! 私のちょっとした推測は、次のとおり:人の考えや行いはすべて、思いや潜在意識に刻み込まれています。それらの考えや行いの殆どは、生きている間、抑制されていて、自分自身でさえも自覚していないでしょう。人には生まれ持った防御力と言うものがあり、それによって自身が何者かであり、どのような行いに身を投じたかの恐るべき事実に圧倒されないよう守られています。しかし、死んでしまうと、その防御力が取り除かれてしまうのです。赦しがなければ、私達はいつまでも自分の考えや行いの記憶に苦しめられるでしょう。それらは、神様の聖さや純粋さに反してしまったものです。しかし、当然ながら、そのような考えや行いをまったく赦してくださるのは神様以外におられません。そして、その赦しによって、私達はそれらの消せるはずなき記憶に苦しまずに済むのです。

いずれにせよ、私が言わんとすることは、地獄に堕ちた者達を苦しめたり、まして拷問にかけたりしているのは、神様ではありません。堕ちてしまった者達自身が、自分や他人を苦しめているのです。神様の聖い御霊はこの世の悪を抑えてくださいますが、その抑制も地獄ではもはや存在し得ないもの。従って、地獄では言わば「大混乱」が生じるのです。

この話題についてまだまだ多くのことを語れますが、時間が来てしまいました。ですから、最後に一点だけ挙げて締めくくらせてください。天国も地獄も、次の世では必ず実在するものであり、これらは真っ向から相反するものであります。だからこそ、今日の私達の人生は大いに意味のあるものなのです。この短い人生で何をするかにより、さらに具体的に言うと、どの御方に従う決心をするかによって、私達の永遠の定めは決定付けられます。イスラエルの民が「約束の地」へ入る準備をする中、モーセはその者達に主の御言葉を与えました:「わたしは今日・・・生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び(なさい)」(申命記30章19節)。この言葉は、私達のためでもあります。永遠の定めに備える私達に、神様はまるでこのようにおっしゃっているのでしょう:「天国と地獄をあなたの前に置く。さあ、命を選びなさい。天国を選ぶように。」しかし、どちらを選ぶかは、私達次第なのです。また、モーセの後継者であるヨシュアは、自分に預けられたイスラエルの民に向かい、真実なる神様とこの世の神々のどちらを選ぶか問いかけました。その問いに加え、ヨシュアはまた、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア記2章15節)と述べたのでした。

Updated: 2011 年 10 月 24 日,03:32 午前

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