日本の教会における弁証学


今日は、「弁証学」について簡単に概観し、日本人に福音を述べ伝えるために、どういうふうにそれを有効的に利用できるか考えてみたいと思います。まずは、「弁証学」はどういうものか考えましょう。英語では、“apologetics”と言いますが、日本語の「弁証学」はキリスト教用語として、その意味を表す為に作られたことばです。英語の単語も元々作られたキリスト教用語でしたが、その語源はギリシャ語の“apologia”という単語に由来します。ちょっと困ったことは、「お詫びをする」という意味の“apologize”もこの同じギリシャ語の“apologia”から来ていますので、キリスト教(また、他の宗教)の教えを説明してその真実性を説得しようとする“apologist”は英語で聞くと、何となく、「お詫びをする」“apologize”かのように聞こえてしまうことがあります。日本語の「弁証する」ということばにも「弁解」の「弁」という字も含まれていますから、「うまく言い訳する」という意味合いも含まれていると言えるかも知れませんね。しかし、「弁証者」が何かの思想を弁証するなら、それが真実であることを裏付ける論理的根拠と証拠を説明して、説得しようとするという意味なのです。決して、「お詫びをする」“apologize”しようとしているのではありません。

では、私達クリスチャンが信じていることをなぜ信じているのでしょうか。その答えは「弁証学」なのです。これを考えるのに、まずはギリシャ語の“apologia”は聖書の中では、どういうふうに使われるかを見てみましょう。ギリシャ語の新約聖書には、この単語は名詞(“apologia”)として使われているのは8回で、そして、動詞(“apologeomai”)として10回使われています。それらのほとんどはルカとパウロの書物にしかありません。ルカは彼の福音書に2回使って、いずれもイエスが弟子に自分たちが権力者の前で訴えられている時に何を言うべきか心配しないように勧められている時のことで、使徒言行録には、パウロが権力者の前に証をして、自分を弁明した時に、数回も使っています。パウロもいくつかの手紙に同じように使っています。こうして、全体の18回の内に15回はこのような自分の行動を弁明する意味で使われています。

残りの3回は福音そのものを弁証するという意味で、この“apologia”という単語が使われています。その内の2回はフィリピの信徒への手紙で、そして、もう一つはペテロの第一の手紙で使われています。いずれも、これらは福音そのものを信じる理由を説明するという意味でした。このより広い意味は「弁証学」の背景で、これに焦点を合わせたいと思います。

ではこれらの3カ所では、“apologia”が具体的にどういうふうに使われているかをみてみましょう。フィリピの信徒への手紙1:7bで、パウロはこう書きました:「というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」ここでは、パウロの伝道について、「福音を弁明し立証する」と説明されています。そして、少し後の16節でも、この同じ意味でもう一度この“apologia”が使用されています。使徒言行録17:2-4にはパウロが「福音を弁明し立証する」ために具体的に何をしたかが書いてあります。「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。」こうして、パウロが証拠を強調して、キリストに対する自分のメッセージが真実であることを説得しようとしたことが分かります。

もう一つ取り上げたい箇所は第1ペテロ3:13-16です。さっき、“apologia”が使われた箇所のほとんどは、ルカとパウロの書物にあると言いましたが、これは唯一そうではない箇所で、ペテロが書いたことばです。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明(apologia)できるように備えていなさい。」これこそ、聖書に出てくることばとしては、キリスト教の「弁証者」になるように勧めている最もはっきりしている箇所だと思います。人々は人生の意味について知りたい気持ちがあり、特に自分の人生の意味についていろいろな疑問や質問があります。なぜものごとがこのようになってしまったかという問いかけの答えを求めているのです。もちろん、あまり意識して考えていない人が多いでしょうが、そのような答えが実際に存在していると解っていれば、だれでも知りたいと思うでしょう。私たちクリスチャンでも、確信を持って信仰している他の人でも、なぜそれを信じているか、その根拠を知りたいのです。

この箇所では、ペテロがこのことばを対象とした人たちは、その社会の中で他の人が持っていない特質を持っているとほのめかしています。というのは、彼らには「希望」があって、他の人々には希望を抱いていないか、もしくは、あるとしても、基本的には違う種類の希望であるともほのめかしています。これこそ、福音のメッセージが提供してくれる思想なのです。それは、神が私たちのためにしてくださったことに基づいていることです。自分ではなく、全面的に神がなさることによって実現されることですので、確信を持って頼ることが出来ます。これは本当の希望に至らせることです。こうして、人々が私たちにこのような希望があることをみると、なぜその希望を持てるか尋ねたい気持ちが湧いて来るのです。これゆえに、ペテロは私たちが他の人に聞かれるときに、「いつでも弁明できるように備えていなさい」と言いました。

弁明できるように備えるのに、やはり、ある程度の準備が必要です。私たちが信じていることについて他の人が尋ねることに対して、うまく答えられるために必要な「弁証学的な道具」を備える必要があります。まずは、キリスト教の基本的な教理に対して十分な理解が必要です。その上、それらの信条を裏付ける客観的証拠は何であるかの理解も必要です。そして、それらの情報をうまく伝えるスキルをも身に着けることも大事なことです。

まずは、「信仰」という概念に関する大事なポイントを考えてみましょう。「信仰を持つ」とは本当にどういう意味なのでしょうか。キリスト者の中にでも、「信仰を持つ」ことについて誤解していることがあると思います。一般社会では、宗教的信仰は主観的なものに過ぎないのであって、客観的事実、特に、科学的事実と相反するものとしてよく描かれています。このような偏った考え方では、「信仰」とは何の根拠ももたない、道理にかなわない事柄なのです。結果としては、それは単なるご利益的な「願い事」で、たとえば、相撲の高見盛が大げさのしぐさを持って、一所懸命に気合いを入れようとすると同じように、霊的な希望を絞り出すかのような感じです。「信じよう!信じよう!」つまり、「信仰」を持つ人はあり得ないことを信じ込む人です。「信仰」を持つ人は事実に逆らっていることを信じ込む人です。「信仰」を持つ人は証拠に反していることを信じ込む人です。「信仰」を持つ人は現実を無視する人です。結局、このような考え方では、「信仰」はそういうものだというふうに考えてしまいます。

この混乱状態の原因の一つはクリスチャンが置かれている状況を気にしないように教えられていることだと思います。つまり、自分が置かれている状況に圧倒されて絶望しないように勧められていることです。それはもちろんその通りですが、問題はこれが誤解を招くことになってしまう可能性があることです。というのは、信仰というものは現実と全く関係のない盲目な「飛び込み」のようなものだと思わせることがあるからです。

ある教えによると、信仰を裏付ける事実を探し求めること自体は無駄なことです。なぜなら、信仰は事実と直接に結びつくことではないからだと考えるからです。信じていることを裏付ける確定的な証拠があるなら、もう本当の信仰ではなくなると考えています。こういう考え方では、信仰は知識と証拠によって、骨抜きにされてしまうと考えています。こうして、証拠に逆らって信じることを神が私たちに求めている美徳であるかのように考えてしまいます。しかし、これが聖書に教えられている「信仰」でしょうか。いいえ、そうではありません。

このような盲目的な信仰が私たちをどこに導いてしまうかを考えてみましょう。J.P. Morelandという哲学者がその問題点を次のように説明します。「もし、これが信仰に対する聖書的な見方だとすれば、キリスト教にとっての最も望ましいことはイエス様の遺骨が発見されることです。発見される遺骨がイエス様のものだと確定されたとすれば、彼は実際に復活していなかったことを証明します。それで、クリスチャンがそれでも肉体的な復活を信じるなら、それが最も賞賛すべき信仰を示すことになります。なぜなら、証拠に反していることをそれでも信じるからです。」

言うまでもなく、これはとんでもないことです。イエスが実際に甦った証拠があるからこそ信じるように勧められているのです。ですから、イエスが復活したために、私たちが彼を信仰の対象とするように勧められているのなら、信仰に対するもう一つの見方(つまり、盲目的な信仰)が間違っていることを意味します。あるクリスチャンはそう思っているのかもしれませんが、それは聖書の教えではありません。それは正統のキリスト教の考え方ではありません。

もし、宗教というものが単なるご利益的な願い事であるのなら、私なら、決してキリスト教を選びません。というのは、不便過ぎるからです。実は、多くの方が馬鹿げた宗教的な考え方を持つ理由はここにあるのではないかと思います。つまり、彼らはご利益に魅力を感じるのです。また、神が人格を持たない「力」であることを願っています。なぜなら、そのような「神」は聖書に示されている聖なる神のように、自分に何も要求しないからです。自分が何をしても、そのような人格を持たない神は異議を申し立てないのです。

とにかく、聖書的な信仰は証拠に逆らって信じることではありません。本当の信仰は具体的な行動に結びつく洞察力なのです。聖書的な信仰を持ちたいと思うなら、まず、聖書が信仰をどう定義しているかを考えるべきです。最も明確な定義はヘブライ人への手紙11:1にあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この聖句には聖書的な信仰を記述する3つの動詞があることに注目しましょう。それらは、「望む」、「確信する」と「確認する」という動詞です。私たちに「確信」を与えてくれるのは何でしょうか。

現代的な例を考えてみましょう。もし、宝くじのチケットを買えば、それに当たることを望んでいますか。もちろん、望んでいます。しかし、一等に当たる確信を持っていますか。ありませんね。ただし、自分の番号が選ばれるようにそのくじ引きをコントロールできる方法があれば、別ですが。でも、そういうインチキをしないなら、自分のチケットが何百万枚ものハズレくじと違うということを知る方法がないはずです。

現代的な例を考えてみましょう。もし、宝くじのチケットを買えば、それに当たることを望んでいますか。もちろん、望んでいます。しかし、一等に当たる確信を持っていますか。ありませんね。ただし、自分の番号が選ばれるようにそのくじ引きをコントロールできる方法があれば、別ですが。でも、そういうインチキをしないなら、自分のチケットが何百万枚ものハズレくじと違うということを知る方法がないはずです。

この点を説明するためにこのたとえを利用したということは、キリスト教の信仰が操られている宝くじのようなものだという意味で語ったのではもちろんありません。ここで指摘したいことは本当の信仰は単なるご利益的な願い事ではなく、確認された証拠に基づいている信仰だということです。聖書的なクリスチャンにとっては、事実が重要です。実際に当たるかどうか分からないことに対して確信を持てないのです。ただ望みをかけるしかありません。

こういうわけで、イエスの実際の復活が焦点となります。イエスの復活が私たちの望みに確信を与えるのです。パウロはこのような信仰の理解を持っていたので、第一コリント15章に、もし私たちが確信のない、ただの望みしかないなら、つまり実際の歴史にイエスが肉体的に甦っていないなら、私たちが「すべての人の中で最も惨めなものだ」と書きました。

パウロが主張している確信はただの「信仰的な」復活、神話的な復活、また浪花節的な物語の中の復活に基づいている確信ではなく、実際の歴史にあった本物の復活に基づいている確信なのです。もし、本当の復活が起きていなかったとすれば、すべてが違って来ます。私たちの信仰は空虚なもので、私たちの望みがむなしいものとなります。聖書的な信仰は宝くじに望みをかけるような、証拠のない盲目な信仰ではありません。その反対に、パウロが言ったように、実際の証拠と私たちの望みが合致していないなら、信仰はむなしいものとなってしまいます。

こういうわけで、聖書的な信仰はそれを構成する歴史的事実にかかっています。これを他の宗教と比較してみましょう。例えば、仏教はどうでしょうか。もし、お釈迦様の遺骨が発見されたら、それは何の問題もありません。なぜなら、彼は死人の中から復活したとだれも言っていないからです。実は、多くの仏教の寺院に釈迦の骨の破片が祭られていると断言しているのです。しかし、たとえば、この釈迦という人物がその物語のように実際に木の下で瞑想している間に悟りが開けたという経験がなかったと証明できたとすれば、また、その人物そのものが実際に存在していなかったという証拠が発見されたとすれば、仏教という信仰はどう影響されるのでしょうか。それほどの影響はないと思います。なぜなら、仏教の信仰は歴史的人物に対する信仰ではなく、哲学的な思想に対する信仰なのです。釈迦という人物は実際の歴史性にかかっていないのです。しかし、キリスト教はそうではありません。実際の歴史にかかっています。

こういうわけで、聖書的な信仰は実際の証拠に基づいている確信をもたらす知識によるものです。しかし、それだけではありません。もう一つの面があります。信仰はただ知識を持つことだけではありません。その知識が行動に移ることも条件なのです。確信があるからこそ、行動に現れます。ですから、信仰は知的な同意だけではありません。聖書の人物や歴史に対する事実を認めるだけではありません。サタン自身がその同じ事実を認めているのです。しかし、サタンはそれらの事実の裏にいる存在者に信頼を置くのではありません。ですから、聖書的な信仰はイエスに対する歴史的な事実を認めるだけではなく、自分の人生のすべてをそれらの歴史的事実をもたらした人物にかけることです。

それでは、この聖書的信仰を例証する有名な話を考えてみましょう。この話は実際の出来事に基づいているか、それともだれかが作ったたとえ話であるかは確認していませんが、かなりの信憑性があるので、実際の話に基づいていると思います。おそらく皆さんが西部劇の映画でこのようなシーンを見たことがあると思いますので、想像してみてください。ラバに生活品などを乗せて、砂漠の中で砂金を探していた「デザート・ピート」(Desert Pete)という人物がいました。この話は有名になった理由は彼が書いた手紙によります。

とにかく、ある人が砂漠に迷い込み、大変困った状態になりました。というのは、持っていた水がなくなり、どこにも水が見当たりませんでした。死にそうな状態となり、救われる望みが薄くなってきました。しかし、たまたま昔に掘られた井戸を見つけました。その上に、手で動かすポンプが付いていましたので、それに最後の望みをかけました。しかし、渇いていたので、呼び水を入れないと、水が出て来ない状態でしたので、ハンドルを動かしても水が何も出ませんでした。その時、ポンプに縛り付けていた缶に気付いて、そのふたを開けたところ、中に手書きの手紙を発見しました。それは「デザート・ピート」が書いた手紙で、その内容は実に素晴らしいものでした。こう書いてありました。

「1932年の6月にこのポンプを点検した時、大丈夫でした。新しい皮のワッシャーをつけましたので、少なくても5年間もつはずです。しかし、ワッシャーが渇くので、十分濡らさないとだめです。横にある白い石の下に水が入っているビンを埋めておきました。このポンプに呼び水をするには十分ですが、先に少し飲んでしまえば、足りなくなるかも知れません。呼び水をするのに、まず、水をゆっくり注ぎ込み、皮のワッシャーを濡らしなさい。そして、柔らかくなってから、残りの水をポンプに注ぎながら、一所懸命ポンプのハンドルを動かしなさい。必ず水が出ます。信仰を持ちなさい。そして、あなたが必要としている水を十分汲み上げてから、水をビンに入れて、しっかりとふたをして、次の人のための準備をしてください。デザート・ピートより。追伸:その水を先に飲むんじゃないよ!それをポンプの呼び水として使えば、たくさんの水が必ず出るのです。」

これは本当に素晴らしい手紙ですね。信仰というものの原理をうまく言い表していると思います。私たち人間は信仰ということを考えますと、何となく神秘的なものとして考えてしまいがちです。しかし、本当はそうではありません。キリスト教の信仰の働きはほかの「信仰」の働きと同じです。違うところは、その信仰の内容とイエス・キリストに対する信仰を持つ力を与えて下さるのは神様であるということだけです。でも、他の面においては、他の信仰と変わりがありません。

実は、私たちの日常生活のあらゆる面においては、何らかの形で、広い意味での「信仰」にかかっています。ほとんど何をしようとしても、何か、まただれかを信頼して行動しなければ、何もできません。何も理由がないのに、そのようなことを信頼しないとすれば、すべてが麻痺状態となってしまいます。たとえば、食堂の衛生さに対する基本的な信頼感がなければ、また、だれかが自分を毒殺しようとしていると思い込んでいれば、外食することは出来ませんね。このような基本的な信頼感、言い換えれば「信仰」がなければ、偏執病的になってしまいますね。こういう精神病にかかっている人は環境に対する信頼感がないからです。ですから、正常な人生を送るのに、このような「信仰」が必要です。

キリスト教の信仰の場合、何が違うかと言いますと、その対象となることだけです。要するに、私たちが聖書の神に信頼を置くのです。この「デザート・ピート」の手紙がこのことをうまく例証すると思います。もし、あなたが砂漠をさ迷っていたあの人のようにそのポンプを見つけたら、どうするでしょうか。あなたの行動は自分の信仰に対する考え方を表します。デザート・ピートを信頼すべきでしょうか。それとも、その尊い水を呼び水としてポンプに入れるリスクが多すぎて、そうしない方がいいのでしょうか。

デザート・ピートの手紙に書かれていることをヘブライ人への手紙の教えと比較すれば、同じ3つの原理が見られます。まずは、信仰の対象が必要です。よく聞かれることばですが、「信仰を持ちなさい」や「信仰をしっかりと保ちなさい」などのようなことばは、もしその信仰の対象となる存在者がはっきりしていないなら、あまり意味のないことばです。ただ「信仰を持つ」、すなわち「信仰に対する信仰を持つ」ということはできません。本当の信仰となるために、何か、あるいはだれかを対象にして、信じて行くしかありません。

この場合の信仰とは、会ったことのないデザート・ピートを信頼して、彼が言う通りに従うことです。それは決して簡単なことではありません。知らない人ですから、どんな人であるか分からないのです。どこか歪んだ性格を持つ残酷ないたずらをしている人かもしれません。しかし、この手紙を読んでいるうちに、そして、自分が直面している死活問題を考えると、この人が信頼できる人で、自分を救うためにずいぶん親切にこのポンプの呼び水を用意してくれたことを納得できるかもしれません。

ですから、信仰の第一の要素は「適切な証拠」に基づいている何か、まただれかに対する信頼感です。この「適切な証拠」の妥当性が大事です。絶対的な証明があったら、信仰が必要でなくなるからです。レストランで外食する例をもう一度考えますと、もし、行くたびに毒が入れられていない証拠を要求するなら、例えば、料理している間に立ち会って、そして、食べる前にコックさんがその一部を食べてもらうなら、それは「信仰」を表しているとは言えませんね。この場合は、「適切な証拠」はレストランが衛生的に見えることで、食事の見た目と味に問題もなく、他の客が普通に食べていることなどの証拠を見て、自分の「信仰」、すなわち信頼感をそれに置くことです。

このことは信仰の第2の要素に導きます。それは「リスク」です。もし、あなたがその砂漠を歩いていて、その古いポンプとデザート・ピートの手紙を発見したら、本当に命がけの決断を迫られるでしょう。これは大きなリスクです。水がないので、その時、自分にとって、一番尊いものはその小さなビンに入っている水でしょう。しかし、デザート・ピートによると、それを先に飲んでしまえば、終わりです。なぜなら、井戸から何も水をくめなくなるからです。ですから、決断を迫られるのです。のどの乾きを部分的に、そして一時的に解消するのか。それとも、命がけでその水をポンプに注ぎ入れてみるか。信仰というものはある程度のリスクを伴う決断を要求します。

これはさらに信仰の第3の要素に繋がります。すなわち、行動です。自分の信頼をだれか(又何か)にかけたら、具体的な行動を取らなければなりません。デザート・ピートの語るところによると、彼に信頼して、指示した通りにビンに入っている水をポンプに注ぎ入れるというリスクを取ってから、一所懸命にポンプのハンドルを動かさなければならないのです。

私たちが天地創造の神を信頼して信じるということは、デザート・ピートの手紙を見つけた、砂漠で迷っていた人とよく似た立場にあるのです。私たち宛の「手紙」があります。すなわち、神のみことばである聖書です。神様についていろいろ教えてくれます。イエス様を通して、神がどのように私たちにご自分を啓示したことや、人生の本当の目的などを教えています。しかし、その中に含まれている素晴らしい約束や教えは、もし、その背後にいる存在者が信頼すべき方でなければ、何の価値もありません。

私たちが天地創造の神を信頼して信じるということを考えますと、私たちは、砂漠で迷っていた時にデザート・ピートの手紙を見つけた人とよく似た立場にあるのです。私たち宛の「手紙」があります。すなわち、神のみことばである聖書です。神様についていろいろ教えていますが、キリスト教の信仰はそれらの教えに対する信仰ではありません。信仰の対象となるべきことはそれらの教えを裏付ける存在者なのです。宗教的な原理や神学的な教理、また倫理的な教えに対する信仰ではありません。それらは重要ではありますが、信仰の対象となり得るのは神ご自身です。信仰は神の性格が信頼できるものだという認識です。なぜなら、その信頼性が天地創造を通して、そして最も決定的にイエス・キリストの人生を通して示されたからです。従って、信仰というものは自分に起きた霊的な体験に基づいていることではありません。それはどんなに素晴らしい経験であっても、そうです。「悟り」ではありません。また、自分の現在の感情によるものでもありません。聖書によることでもないのです。物質的に言えば、それはただの紙とインクだけです。その中には素晴らしい約束や教えが含まれてはいますが、もし、その背後にいる存在者が信頼すべき方でなければ、それらには何の価値もありません。

こういうわけで、私たちの神に対する信仰は神の信頼性にかかっています。神の性格は良いものですから、彼のみことばも良いものなのです。ヘブライ人への手紙11:6によると、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」そして、続きのことばで、それはどういう意味かを説明します。「神を求める者は、神が存在しておられること」を信じなければならないと書いてあります。しかし、それだけではありません。神の信頼性と善意をも信じなければなりません。つまり、「神は御自分を求める者たちに報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」

多くの人にとっては、この点が問題となっています。神様の性格、つまり、神はどういう方でいらっしゃるのかがよく分からないので、信仰になかなか入れないのです。また、ある程度の信仰があっても、それを深めることができない人も多くいます。彼らには、特に潜在意識のレベルで、間違っている非聖書的な概念を持っています。たとえば、イエス様に示された神ではなく、私たちの幸せを考えてくれない、興ざめなことをするような神様で、また、理由なしに悪いことを許す気まぐれな神であるかのように考えてしまいます。そして、「年寄りの時計屋さん」の概念もありますね。それによると、神は宇宙という「時計」を最初に制作して、「バネ」を巻いてから、どこかに行って、そのあとのことを自然に任せているという遠い存在です。

日本語では、"Theos" — "God"の翻訳として、曖昧な「神様」という単語が一般的に使われています。しかし、あまりにも曖昧ですから、人によって、また、場合によって、意味が全く違って来ます。場合によっては、ほとんど何でも「神様」と呼ばれることがあります。「イチローは野球の神様です。」また、自然界に見られる珍しい岩や木などの物体も「神様」として祭られることがあります。また、東照宮に行ったら、徳川家康の霊が「神様」とされています。これらは皆、宇宙の創り主を言い表すためにも使われる「神様」と同じ単語です。ですから、私たちがクリスチャンでない人々に「神様」について何かを話す時に、相手が「神様」に対して、同じような概念で考えるとは限りません。日本でキリスト教が伸び悩んでいるという実態の様々な原因の中にはことばと概念のこのような曖昧さの問題が大きいと思います。

こういうわけで、日本人に通じる「弁証学」を開発しようとすれば、私たちが伝えようとする概念が明白であることを確認しなければなりません。その上、いろいろな体験をした、また学問的な背景を持つ人に福音を伝えようとしているので、さまざまな弁証学的な「道具」を開発する必要があります。ここ数年、私が一番力を入れている弁証学的方法は“science apologetics”「科学の弁証学」というアプローチです。このアプローチはもちろん、全ての人に合うアプローチではありません。しかし、科学に対して興味のある人で、基礎的な知識を持つ人なら、このアプローチは効果的です。

それでは、科学とその裏にある哲学の歴史的背景を簡単に紹介したいと思います。私は現代科学の発展の歴史を研究してきましたが、それを通して分かってきた重要なポイントがあります。それは、現代科学の発展に関わってきた人たちの世界観が、どれほど大きな役割を果たしたかということです。「世界観」とは自分が生きているこの世の中をどういうふうに理解しているかということで、すべての人が何らかの「世界観」を持っています。科学の歴史家は、ある一つの見方を共有しています。それは、「聖書的世界観」と呼ぶことのできる世界観を取り入れることが現代科学の誕生を可能とした必要条件の一つであったということです。「聖書的世界観」を受け入れるとは、自然界の現象が神々の気まぐれによって決まるのではなく、唯一の創造主が設定した法則に従っているということを認識するということを意味します。この基本的な条件が初めて他の必要条件とそろったのは、ヨーロッパにおけるルネッサンスの時代でした。他の必要条件とは社会の情況に関わることで、たとえば、時間的、また、経済的な余裕を持つ人が現れることなどです。社会全体がぎりぎりの生活をしているような状態では、科学を発展させる余裕は生じないからです。

とにかく、それ以前の全ての文明には、このような基本的な世界観が欠けていたため、現代科学は、言わば「流産」してしまいました。数学においては、それが世界観にあまり左右されないので、エジプトやギリシヤのような古代文明でもかなり進歩しました。こういうわけで、そのような古代文明は素晴らしい建造物を建てることができたのです。しかし、「科学」と呼ぶことができるようなところまで発展することができませんでした。なぜなら、彼らの世界観がその誕生を可能にしなかったからです。聖書のメッセージを受け入れたユダヤ教徒とキリスト教徒以外のすべての古代人は、天気などの自然界のことはそれぞれを司っている神々がその時その時の気分によって決めていることだと思い込んでいました。或いは、神々の世界における戦いなどの出来事の結果であると考えていました。ですから、自然現象に人間の理解が及ぶものとは全く考えていませんでした。

これは「聖書的世界観」と逆なことですから、「非聖書的世界観」と呼びましょう。私の推測ですか、日本語の「天気」という言葉にさえ、何となくその考え方が見えます。「天」の「気」と書きますね。つまり、「天気」は天(神々)のその時の気分によって決まるものだという感じですね。たとえば、天気を司る神の機嫌がよければ穏やかな天気となりますが、何かに怒って機嫌が悪くなれば、嵐が起こる。そういう世界観であれば、自然現象を支配する法則があることや、そういう自然法則を発見する可能性があることなどは、全く思いつかないことでしょう。このような世界観であれば、観察や実験を通して、自然界を実際に理解しようとする試みなどは生まれて来ません。代わりに、宗教的な儀式や魔法的な呪文を通して、神々を宥めることばかりを考えることでしょう。このような考え方が日本の神道を含む精霊信仰の根底をなすのです。神道の神主は何をするかというと、ご利益をくださるように、儀式を通して、神々を操ろうとするのです。その字の通り、「神の主」になろうとします。これが聖書的世界観とは正反対のことです。聖書的世界観では、祭司は「神の主」なのではなく、「神が主」であることを認めるのです。このように、自然界は創造主の設定した自然法則によって動いているという理解に導いたのはこの聖書的世界観で、その世界観によって、初めて現代科学が可能となったわけです。

もう一つの重要なポイントは、初期の科学者のほとんどが敬虔なクリスチャンだったということです。ガリレオ、ニュートン、また、それほど名の知られていない数多くの科学者たちがクリスチャンでした。(そして、私と同じ苗字のロバート・ボイルもいましたね。)彼らは現在私たちが「科学的方法」と 呼んでいる原理を聖書から読み取って、神によって創造された世界を理解する方法論として利用しました。そして、彼らの働きが基礎となって、現代科学が発展してきました。

多くの人はこれに対して驚きます。なぜなら、現代科学は信仰を無用なものとすると教えられてきたからです。科学は「客観的事実」で、キリスト教を含む宗教は「主観的信仰」だと言われています。それはどういう意味かと言いますと、現代科学は宇宙や生命が神によって創造されたという考え方は単なる「神話」に過ぎないことを証明したということです。そのような「神話的」な説明は科学的な事実を知る前に作られた原始的な説明に過ぎないと言います。

ここ数十年、このようなことがアメリカの公立学校で教えられているのですが、世論調査によると、そのことを実際に信じているアメリカ人の割合はほとんど増えていません。実は、およそ90%のアメリカ人が何らかの創造主の存在を信じています。やはり、人生に目的と意味を求める存在者として、私たちの存在が何の究極的な意味も目的もない、行き当たりばったりの盲目的なプロセスによって説明できることは到底受け入れられないからです。

そのような主張は道理に合うように思えないだけではなく、実際の証拠を客観的にみるとダーウィン主義のパラダイムを裏付ける実際の証拠はほとんどなく、それに反する証拠が急速に増加していることが次第に明白になっています。ですから、これらのことは、キリスト教の信仰を支持する強力な証拠として、弁証者が利用できるのです。1994年から、私が属している “Reasons To Believe”(信仰の根拠)が試みているのが、まさにそのことです。

“Reasons To Believe”は天文学者であるヒュー・ロス博士によって、1986年に設立され、現在は日本を含む数カ国に支部があります。数人の科学者がスタッフを構成し、数多くのボランティアが活動しています。数百人の科学者、また私みたいに科学に関心を持つ者が「RTBの弁証者」として活躍しています。今まで、3つの本と2つのビデオの日本語の翻訳を出版し、そして、www.konkyo.orgというホームページをも作っています。ロス博士は今まで6回も来日して講演会などを開催しました。

この課題について、紹介したいことがたくさんありますが、このセッションを終わる前に、今日の話を総括して、皆さんのコメントや疑問点を話し合う時間を持ちたいと思います。今までの話では、弁証学の基本的な概念に触れてはいますが、それをもう一度はっきり述べたいと思います。

この中での最も重要なのは、真理であるかどうかの検証作業と論理の法則に従うことです。英語でこれを言い表すのに、「testing」という簡単なことばがありますが、その幅広い意味を網羅する日本語の単語がないようです。テサロニケの信徒への手紙 一 5:21はこう書いてあります:「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」パウロにとっては、これはあらゆる思想や教えを聖書の立場から吟味して、真理であるかどうか確かめることを意味しましたが、その原理はもっと幅広く適用されます。宗教や哲学的思想の場合、二つの有力な検証方法があります。それは自然界に確認できる事実と、歴史的な事実と照り合わせることです。つまり、自然界に見られる法則や確立された自然史と噛み合なければ、また、考古学的に確かめられた文明の歴史と合致しないなら、その思想は真理ではないと判断できます。このように検証するのに、普遍的な論理の法則に従うことも必要です。

真理というものは重要で、具体的なことです。例えば、自分が死んだら、霊魂が天国に行くと同時に、「無」という仏教的な涅槃に入ること、つまり、霊魂が消滅されてしまうことを信じることは道理にかなわないことです。しかし、このような、相反する概念を含む考え方が多くの人の思想に見られます。弁証学の目的の一つはこのような矛盾を指摘し、もっと良い道を案内することです。

世界の多くの世界観が論理的な思想をあまり重要視しないのです。伝統的な日本の文化もこの中に入ると言えるのではないでしょうか。実は、「世界観」という概念の基本的なこと、そして、あらゆる世界観の歴史的発展をよく考えると、基本的に2つの範疇しかないと分かります。それらは「合理的/論理的」考え方と「非合理的/非論理的」考え方です。これらのレッテルを張るのは誤解を招きやすいので、説明が必要です。「非合理的/非論理的考え方」とは非常識な、筋が通らない考え方という意味ではありません。

次のように説明すれば、もっと分かりやすいかもしれません。知識や体験を整理して処理するのに、「推論的方法」と「瞑想的方法」があります。「推論的方法」は論理的な手順に従って、前提から結論まで推理して行く客観的方法です。それと反対に、「瞑想的方法」は人生と人生の体験を理解するために、「悟りが開ける」まで瞑想する、またそのような主観的思想をもとにして考える方法です。このような思想には「論理的に」考えれば、矛盾や不条理な面が出てきます。

どのような用語を使うとしても、この二つの思考方法があらゆる世界観に含まれています。多くの場合、これらの二つの思考方法が混じり合って、ある分野において片方を利用し、ほかの分野においてもう一つの方法を利用します。良い例として、ある科学者が科学においては、「合理的/論理的考え方」(「推論的方法」)を使いますが、生活の他の面において、「非合理的/非論理的考え方」に戻ってしまうケースです。ある意味では、これはある程度だれにでも当てはまることだと言えると思います。というのは、人生の全ての面に置いて、「合理的」だとは言えませんね。

では、これらの2つの基本的な思考方法の根拠はどこにあるのでしょうか。私が辿り着いた結論はこれらの基本的な考え方がこの世を考える2つの基本的な世界観から成り立っているということです。私はそれらを「聖書的世界観」と「非聖書的世界観」と名付けています。さっき言いましたが、「聖書的世界観」を通して自然界を見ると、それが一人の普遍的な創造主によって設立された自然法則に支配されていると考えます。そして、「非聖書的世界観」はその反対で、もともとは、自然界が気まぐれの神々に支配されているという考え方です。従って、その時その時の神々の気分によって決まるので、自然現象を理性的に理解できるとは思っていません。

この2つの基本的形態の現代的な形には、例えば、唯物論的無神論も含まれています。実は、無神論という世界観が元の聖書的世界観から由来するもので、ただその根本原因である創造主を否定するだけです。その聖書的世界観の「借り入れ」によって存在するとまで言えます。自分の「合理的客観性」を誇ってはいますが、その合理性の根拠となり得るものは何もありません。無神論は聖書的世界観の「孤児」だと言えます。自分の「父」を否定して、まるで「寄生虫」のような存在となっています。例えば、ダーウィン主義によると、人間の脳の働きはランダムな無目的なプロセスによって進化してきた複雑な化学反応によって成り立っていると考えています。しかし、それは実際にそうであれば、脳で考える何事をも信頼する合理的な根拠はないことになってしまいます。

無神論はキリスト教の「孤児」であることを裏付ける面白い研究を見たことがあります。その中の一つは「世俗的ヒューマンニズム学会」という会員制の無神論者の団体が、自分が出している雑誌の中で触れていました。その記事によると、その会員に育った環境などを尋ねるアンケート調査をしました。結果として、それに答えた人の何と98%が「原理主義的なクリスチャ ン・ホーム」育ちだと答えました。これには重要な意味があると思います。というのは、彼らが子供時代の否定的な経験に反発しているということが明らかだからです。その上、自分の不道徳な生活を正当化するために利用しようとする人もいるのではないかと思います。

他方では、西洋文化には、「ポストモダニズム」という形で「非聖書的世界観」への逆戻りという流れが強まっています。ポストモダニズムという範疇に入る世界観はいろいろありますが、もともとあった「精霊に司られている自然界」というふうに自分を説明するものがそう多くはないでしょう。しかし、全部に共通しているのは相対性なのです。つまり、絶対的なことはないという見解です。「ニューエイジ」的な新興宗教はみんなポストモダニズムの範疇に入りますが、それらを概観するという立場から言えば、自然界が霊的な力によって支配されているという元の考え方に戻っていると言えます。

西洋におけるポストモダニズムは、現代の西洋では新しいことではありますが、決して「新しい」ものではありません。というのは、西洋的ポストモダニズムに見られる多くの特徴は古代東洋的宗教から借用している思想に過ぎないのです。多くの西洋人が聖書的世界観を放棄して、世俗的ヒューマンニズムという形で、その聖書的世界観から「借りていた資本」を利用しているか、また、非聖書的世界観に逆戻りしたニューエイジ宗教などの形で取り入れています。

この「科学的弁証学」を日本人への伝道の道具として、ここ数年にわたって、実験的に使ってみて、いろいろ学んできました。しかし、一つ不思議なことに気付きました。科学に関心を持つ多くの日本人はこのアプローチに心を開きましたが、その中で、数人のクリスチャンである科学者はかなり反発しました。この人たちは自分のキリスト者としての思想と科学者としての思想は少しも重ねることのない別世界だと思い込んでいたようです。ですから、関連させること自体はよくないことだと思っているようです。

最初は、これを非常に不思議に思いましたが、これに対して私が辿り着いた結論は、このアプローチを徹底すれば、科学的事実が自分の信仰を崩してしまう危険性があると懸念していたので、それをあくまでも避けたいという気持ちが働いていたことです。この二つの領域を切り離すことは信仰を保つ方法で、それによって生じる論理上の矛盾をなるべく考えないようにしているようです。私なら、このような「分裂病的な」世界観を保つことは考えられないことです。彼らはキリスト者として、目的を持って創造した神様を信じます。しかし、科学者として、目的のないランダムな進化論を信じます。私なら、内面的にこのような矛盾し合う世界観を到底満足できないと思います。その上、不必要な心配なのです。

もし、科学的事実、そして、歴史的事実がキリスト教の信仰を論破すると実際に思っているとすれば、私なら、キリスト教を捨てます。それを無理にして持ち続ける意味がないからです。しかし、それこそポイントなのです。自然界の中の様々なプロセスについて知識を重ねれば重ねるほど、そして、実際の歴史に何が起こったかを発見すればするほど、キリスト教の世界観を裏付ける強力な証拠が増える一方です。そして、同時に自然主義やその他の世界観の問題点が更に浮き彫りになってしまいます。ですから、真理を怖がる必要はまったくありません。聖書を通して示されていることと自然界と歴史に発見できることが矛盾しないことを確信できるのです。それは自分の信仰を強めることと同時に、その裏にいらっしゃる神様を他の人に紹介する為に利用できる強力な証拠となります。これこそが弁証学の目的なのです。

Updated: 2014 年 04 月 30 日,06:28 午前

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