部落差別の簡潔な歴史


部落差別の簡潔な歴史

長い時間の流れの中で発展して行く文化の他の要素と同じく、部落差別は短い文書で包括的に述べることのできない複雑性があります。特に、外国の人に解りやすい形で述べにくい課題です。それでも、私はこの執拗な差別の一種が日本の文化の中でどのようにできあがってきたか、また、なぜこんなに根強く残っているかを概略的に書こうと思っています。内容的には、関西大学の講師である上杉聡氏が書いた「これでわかった!部落差別の歴史」と題した本を中心にして、そして、その他の研究者から得た情報や自分で気付いたいくつかの点をそれに加えます。部落差別という「怪物」を作り出した要素の詳細は地域によってかなり異なりましたが,その基本的な原理は共通しています。この文書は全体的な概観ですので、その大筋のことに焦点を合わせ,その中で取り上げる地域の詳細はその大筋のことを例証するためです。

ケガレ感:基礎をなす理論的根拠

このような宗教的に支えられた階級差別を理解するために不可欠なのは「ケガレ」という概念です。何か、あるいは誰かが「ケガレている」という考えは何に基づいているのでしょうか。基本的には、なにかが、あるいは誰かがある社会における「正しい」位置づけではないと判断されているとき、「ケガレている」とされます。これはほとんどの古代文化に共通する基本的世界観と関連しています。すなわち、自然界の秩序とその人間社会との関係は、神々の領域に起きる出来事や神々の気まぐれによってコントロールされているという世界観です。従って、社会の秩序を保つために、魔法的な呪文や儀式を通して、神々をなだめること、また、ケガレていると思われた事物や人を「清める」ことは極めて重要視されてきました。

このアニミズム的な世界観が社会のすべてを理解する根拠となっていたので、これを部落差別に当てはめる前に、まずは、古代日本の社会において、どのように機能していたかを少し考えてみましょう。そこで、この古代的世界観を理解するための手助けとなる二つの単語の構成を考えましょう。「天気」という言葉は「天」と「気」という二つの字から構成される言葉で、この古代の世界観をうまく表します。「天」の「気」です。つまり、「天気」は神々(天)の「気分」によって左右されるという概念でした。何かに対して天気を司っている神々が怒っているなら、嵐やその他の不順な天気になり、それを平常に戻すのは神道の神主だと考えられていました。「神主」は「神」の「主」と書きますので、やはり、定められた儀式や魔法的呪文などを通して、神々をなだめる(コントロールする)ことができるのは「神主」でした。従って、このような古代社会が抱いていた世界観によると、神々にとって不快と思われていた事柄を取り除くことは最も重要視されることで、これが排除とそれに関連する差別の根拠となったわけです。

では、古代日本では、「ケガレ」として考えられていた事柄は何であったかを考えてみましょう。実は、古代イスラエルを含むほとんどの古代文化とほぼ同じことでした。レビ記を中心に旧約聖書に描かれている古代イスラエルの社会と同じように、死と血と関係している事柄は「ケガレて」いると考えられました。子供の出産という喜ばしい出来事でさえ、この清めなければならない「ケガレ」という範疇に入りました。なぜなら、出産は出血を伴うことだからです。面白いことに、語源的には「怪我」ということばは「ケガレ」と関係しています。これはもともとの中国語の「けが」を意味することばと違います。それは「受傷」、「傷を受ける」ということばで、「怪しい我」と書く日本語と全然違います。(「ケガレ」と漢字は「穢」で、この字が差別的ニュアンスが強いので、一般的に避けられています。その代わり,「かな」で書かれることが多いのです。)ですから、「怪我」は明らかに当て字で、漢字を取り入れる以前から存在していたことばだったことを示唆します。ですから、おそらく、日本列島に最初に人間が住み着いた時代から存在していた概念だったのでしょう。

悪循環の始まり

差別そのものの起源は人類の歴史の初期に遡りますが、部落差別という特定の差別のルーツは紀元後10世紀ごろの京都に見ることができます。その時代、政治権力と文化の中心は京都にあり、その社会が発展していくうちに、富と権力のある者とない者とのギャップが広がりました。貴族を支える高い税金を払えない人たちが排除され、川の氾濫などの被害が及ぶ好ましくない土地に余儀なく住まわされました。このことは、同じように排除されるのを恐れていた他の人々にその(税金を払うという)重い負担を忍耐せざるをえないと考えさせる結果となりました。現代の日本の日雇い労働者と同じように、このように軽んじられていた人たちが、だれもやりたくない、しかも社会が必要としていたいわゆる「3K」の仕事をするようになりました。

その中で、死体の処分という特に「ケガレる」仕事がありました。(古代世界観には、もう一つのレベルの「3K」になりますね。「ケガレさせる、軽蔑される、嫌悪されている」仕事です)。1015年に京都に疫病が起こり、京都は大きな危機と直面しました。死体の処理が行われなければ、社会が正常に戻ることができない状態でしたので、もう既に「ケガレている」と見なされていた人たちは「キヨメ」を強いられました。言うまでもなく、これは悪循環となり、「ケガレた仕事」に関わっていたため、これらの「キヨメ」はなおさらケガレている者とされるようになりました。彼らのために指定されていた住むのに適さない土地はこのために無税とされて、社会のシステムの「外」にある者とされました。これはやがて部落差別につながって行く「カースト制度」のような形にだんだんと固められていきました。

この蔑まれていた「キヨメ」はさらに二つのグループに分離されるようになり、やがて、極めて軽蔑的なレッテルが貼られました。すなわち、人間として認めない「非人」と、ケガレが多いと思われていた「穢多」という不快な名称です。(以上と同じように,この漢字はあまりにも差別的な含意を持つので,一般的には避けられていて、仮名の「エタ」と書かれることが多いのです。)しかし、この区別がはっきりとされるようになるのに、長い年月かかりました。そして、その上、さまざまな職業が特殊化されるようになっていくうちに、それぞれの広い枠組みに細かく区別されることも生じて来ました。

基本的な区別としては最初に付けられた区別は動物の死体と人間の死体の処理に対する区別でした。なぜなら、人間の死の場合、喪の儀式や威厳的な葬儀が含まれるからでした。人間の死体を専門的に取り扱う人々はやがて「非人」の範疇となり、動物の死体を処理した者は「エタ」とされました。後者の方はより多く「ケガレている」と考えられていたので、文字通りの「穢多」とされました。こういうわけで、「エタ」が動物の皮の取り扱い、そしてそれによって発展していた皮革の作業の独占権を持つようになりました。実は、彼らの独自の文化が発展して行くうちに、かなり裕福になった人もいました。しかし、これは一般社会に復帰し、受け入れられるようになる道ではありませんでした。なぜなら、一般社会にとっては、金持ちであっても「エタ」は「エタ」だったからです。

しかし、「非人」とされた人たちのうちに、「ケガレ」とされていた職業に携わる人であるという理由以外で排除された者がいました。多くの場合、それと関係ない理由で、村八分されるという罰として「非人」とされ、その場合、10年間のうちにある条件を満たすことができたら、もとの階級に戻ることができました。言うまでもなく、それは頻繁に起こるパターンではありませんでしたので、そのように落とされたら、そのままになってしまうケースが多くあり、彼らの子孫はそこから抜け出す道が途絶えていました。ただし、偽の身分を装って違う地域に逃れるという「道」はある程度残っていました。このようなことが実際に起こっていたのを証明する証拠として、当時の記録には、身分を偽っていたことがばれてしまって捕まったケースは何件もあります。しかし、江戸時代になると、それ以前までに存在していた国が将軍によって統一されてからは、この制度がだんだんと厳しくなり、そのように差別から逃れることは極めて難しくなりました。

結果として徳川幕府が日本の統一を実現するに至った戦国時代の長いプロセスは、軍事用の皮革産業が極めて重要な産業とされるというる皮肉な結果をもたらしました。というのは、この「穢らわしい」仕事は「エタ」に独占されていたので、彼らが軽蔑され、排除されていたにもかかわらず、彼らの仕事は重要視されました。ですから、そういう意味で、定められた距離を保っている限りは、一般社会から寛容に対応されました。

封建時代の日本社会

上杉氏は本の中で、封建時代の社会構造に対する間違った思想を指摘し、それは封建時代の中国社会の用語を日本に当てはめたことによるものだと説明します。典型的に使われているピラミッド型の図形では、封建時代の社会構造は武士が上部に位置づけられ、その下の層に「農民」、「職人」と「商人」という順で、そして、ピラミッドの土台となっているのは「エタ、非人」という形でした(いわゆる、「士、農、工、商、エタ・非人」という図式です)。上杉氏が指摘したのは、この図形は間違っていて、「エタ、非人」は社会の「外」に位置づけられていたということです。(英語の“outcaste”ということばの通り、“caste”(階級身分)の外に排除されています)。彼が描いているのは二つの別々の「ピラミッド」で、正常の社会のピラミッドの「冠石」は天皇と貴族となり、その下には武士の層があり、そして、その下には同じレベルに位置づけられる二つの範疇しかありませんでした。それらは、「町民」(職人と商人)と「農民」だけでした。「エタ」と「非人」は全く別な「階級組織的なピラミッド」を構成し、「エタ」は「非人」の上でした。そのトップに「エタ頭」がいて、その別社会を統治しました。もともとは「エタ」はより「ケガレている」と考えられていたにもかかわらず、彼らは上となりました。それぞれのピラミッドの下には、さまざまの奴隷がいました。「エタ」でも金持ちであれば、自分の「奴隷」を支配していました。

権力者がこの細かく工夫された制度を自分の利益のために操っていくうちに、その制度を管理するために必要とされた制御措置がより抑圧的となりました。社会をコントロールするための手段として、現代の「戸籍制度」へと発展していた登録制度が江戸時代の初期に制度化されました。この制度のもう一つの目的は「キリシタン」、つまり、ザビエルをはじめとする宣教師たちの50年間の宣教活動によって生まれた多くのキリスト教徒を撲滅することでした。すべての人は地元の仏教の寺に登録することが義務づけられ、それによって、実際の信念と関係なく、皆が「仏教徒」とさせられました。結果的に、日本人は少なくとも表面的に仏教徒と、日本の特有のアニミズム的な神道の信者と同時になりました。(この二つの宗教の関係は複雑ですが、結果的に仏教は葬儀や法事を中心にして、神道は結婚式、祝福式などのその他を司ることになりました)。

キリシタンとの関係

「キリシタン」(中世期の日本で使われていたクリスチャンの名称)と「エタ」、「非人」の関係は非常に興味深いものがあります。1549年に来日したザビエルの時から、多くのイエズス会の宣教師たちが日本で布教活動を行いましたが、ほとんどの場合、上流階級の人たちに焦点を合わせました。権力者がクリスチャンとなれば、下の人たちも信仰に入りやすいと考えていました。例外としては、長崎近辺では、「エタ」をも対象にしましたが、一般的には、クリスチャンとなった「エタ」は少なかったのです。浄土真宗は仏教の宗派の中で、比較的に寛容であったため、ほとんどの「エタ」がそこに入信しました。もちろん、その寛容さは階級制度の厳しい制限の中だけで、相対的なものでした。そのような状況の中で、独自の「エタ寺」や墓場があり、その同じ宗派の一般の寺と全く違いました。

しかし、「非人」の場合は、状況は随分違いました。多くの「非人」は「キリシタン」となりました。しかし、それは宣教師たちが直接に彼らへの伝道に力を入れたからではなく、幕府が鎖国政策を取り、キリシタンの迫害を徹底したことによる間接的な結果でした。将軍たちが考えていたのは、ヨーロッパの宣教師たちが布教していたキリスト教は日本をヨーロッパの植民地にしようとする前ぶれに過ぎないということでした。(実際に、何も防衛措置を取らなかったならば、その通りになったのかもしれません)。彼らの立場から言えば、キリスト教を撲滅することが最優先されるべきことでした。

1600年代の最初の数十年間に殉教したキリシタンの人数は20〜30万人と推定されています。その多くの場合は棄教を意味する「踏絵」を踏むのを拒んだためでした(キリスト教「信仰」は外国の宗教、ひいては、「ケガレ」をもたらす宗教だと考えられていました)。その大勢の人たちの処刑というこの「ケガレる」仕事をするのはだれかというと、もちろん、「エタ」でした。

最大勢力の時に、少なくとも75万人のキリシタンが日本にいたと一般的に推定されていますが、ある研究者はそれをかなり上回る人数だったと考えています。殺されなかった数十万の人たちはどうなったかと言いますと、二つのグループに分けられます。すなわち、その抑圧に負けて、踏絵を踏んだ人たちとそれを逃れて地下に潜った人たちです。この人たちは「隠れキリシタン」と呼ばれ、外国の勢力が圧力をかけることによって、キリスト教を禁じる法令を解禁するまでの250年間の間に、その信仰の基本的な要素を保つことができた多くの集落がありました。

そして、踏絵を踏んだ元キリシタンたちは何もなかったかのように、一般社会にそのままに戻ることは許されませんでした。やはり、本当に棄教したかどうかを疑われるという社会的制裁を受けていたので、結果的に「非人」に加わる者が多くいました。当時の記録によると、大阪のある地域に2000人の「非人」とされた人たちがいて、そのうちに920人が「キリシタン」でした。その他の断片的な記録もありますが、それに近い比率で、多くの「非人」は「キリシタン」になっていたことを示すことから言えば「キリシタン」となった「非人」は「エタ」より遥かに多かったのです。

迫害されていたキリシタンの多くが「非人」に加わったことに加えて、非人の数が多かった別の理由は、「非人」とされたきっかけの一つが「ケガレさせる」重い皮膚病にかかったためでした。「ライ病」(現在はハンセン病と呼ばれますが)はもちろん含まれていましたが、それ以外の皮膚病も一緒に扱われました。このような病気は神々の祟り(天罰)と考えられていたので、それにかかってしまった人たちの家族でさえ、彼らを村八分にして、「非人」村まで追いやる他はありませんでした。

本格的な迫害の前からも、キリシタン達はこの様な不幸になった人たちのための療養所を20カ所以上作りました。衛生と栄養の改善によって、多くの者が癒され、場合によって、奇跡的と考えられたケースもあったため、当然、伝道的なインパクトが大きかったし、多くの者は熱心な信仰者となりました。そして、迫害の時代が来た時、キリシタンや「元」キリシタンのために逃げ場を与えてくれ、その人たちを「非人」として迎え入れました。

しかし、この「避難所」は長続きしませんでした。権力者はキリスト教を自分の領土から完全に撲滅することを固く決意していたので、これらの隔離されていたキリシタンも一掃しなければなりませんでした。中には、結局仏教徒に成り済ました人もいたでしょうが、当時の記録が示すのは多くの者が日本から追放されました。例として、「キリシタンらい患者」が「刀を穢さぬように」フィリピンのルゾン島へ追放された記録があります。日本語の文法はだれの刀であるかを示す代名詞を必要としないのですが(これは日本語の曖昧さの一部です)、きっと、死刑執行人の刀を示していたのでしょう。しかし、死刑執行人は全員「エタ」でしたので、その「ケガレ」は一体どう見なされていたか不思議に思えます。おそらく、権力者が考えたのは、その人たちの処刑を命じることによって、自分の領土に「ケガレ」を増やす危険性を覚悟のうえでやるよりも、外国追放の方が都合いいと思ったのでしょう。

死刑執行人がこの人たちを処刑するという命令に従うのはかなりいやがっていたようです。「エタ」であった死刑執行人の中には、このような「聖人」を処刑するよりも、自分の命を捨てることを選んだいくつもの例が記録されています。また、その弾圧に参加することそのものを拒否した「エタ村」があった記録から考えると、思い浮かんでくる全体像はキリシタンを撲滅させながら、幕府が自分の権力を保証するために作り上げられた厳しい「カースト制度」を固めようとする「堤防の穴塞ぎ」を懸命にやっていたということです。

支配の強化

幕府はこれらの二つの目標を無慈悲に、しかも効率よく目指してはいきましたが、絶対的支配を手に入れることはありませんでした。なぜなら、人間の心は独占的な全体主義を無期限に存続することを許さないからです。江戸中期(18世紀)になると、差別と排除の根拠となっていた「ケガレ感」は徐々に緩んできました。ですから、それに対抗するために、幕府は差別を強要する新しい法律を作りました。「エタ・非人」が自分たちにかけられた侮辱を拒むのは厳しく罰するだけではなく、今度は他の人が彼らを法に定めていた通りの取り扱いを義務づけられるようになりました。彼らを厳しく差別しなければ、自分も彼らと同様に村八分される結果となるように決められました。実際に町民や農民が罰として「エタ」の身分に落とされたケースが多く記録されています。そして、万一極度に恐れていた皮膚病にかかってしまった場合、また、その他の理由に社会的追放を受けた場合、「非人」にされました。この制度を逃れようとして町民や農民に成り済まそうとしていた者を探しまわった「エタ狩り」の記録がこの時代の多くの文書に書かれています。捕まえられたケースはたくさんありましたが、成功した例も多くあったに違いないのです。ですから、アメリカの軍艦が東京湾に侵入して日本が鎖国政策の廃止を要求する前からも、身分制度が崩壊し始めていたことを裏付ける証拠が多くあります。

「エタ」に加えられた侮辱は具体的にどういうものであったかと言いますと、住むのに適さない土地の孤立させられた集落に住まわせて、「ケガレる」職業をやらされたほかに、身分を明らかにする服装を着るように強いられました。他の日本人と見分けられる肉体的な特徴は何もなかったので、他の身分の人と同じ服装のであれば、その人たちに(一時的に)溶け込みやすかったのです。ですから、ナチス・ドイツでユダヤ人が「ダビデの星」を服に付けさせられたと同じように、一目で分かるように「エタ」も皮のパッチなどを絶えず服に付けるように強いられました。

この時代では、「蝦夷」(えぞ、主に現在の北海道)を自分の領土にしていた国家はまだありませんでした。この領域には先住民であったアイヌ民族が住んでいましたが、日本人は彼らを「野蛮人」と見なしていました。この領土をロシアやその他の外国によって先に占領されてしまわないように、江戸末期では、日本の領土にするために、開拓移民を送るという先手を打つことが真剣に議論されていました。「エタ」の起源に関する当時の仮説の一つは彼らがアイヌの子孫であることでした。他の仮説は彼らが違う「野蛮人」の系統を引いているとされていましたが、共通することは日本人と違う人種である事でした(もちろん、この説は全くの間違いです)。とにかく、まじめに議論されていた提案の一つは、同意する「エタ」を儀式的に「きよめて」、「自分のルーツ」に帰らせて、日本国家の先陣としてアイヌ民族の領土を占領することでした。

外圧と崩壊の始まり

しかし、このような計画が実施できる状態になる前に、ペリーの軍艦が1853年に東京湾に入り、これは15年間続く大変不安定な時代を引き起こしてしまいました。権力を握ろうとしていた派閥が争っていましたが、長年徳川幕府の崩落を願っていた長州藩はその一つでした。実際には、幕府を崩壊させるのに中心的な役割を果たしましたが、彼らが「エタ」の問題をどう取り扱ったかは、その賤民制度がなくなっても差別が終わらなかったことを理解するために役立ちます。

江戸時代の記録が示すのは、当時の権力者たちは一般的に極めて自民族中心主義の外国人嫌いという考え方を持っていたことです。基本的にはすべての外国人は劣等の「野蛮人」と見なされていました。1863年に長州藩の指導者が、若く健康な「エタ」に、彼らの劣った階級からの出口を提供することに決めました。それは恐れていた「野蛮人を追い払う」ための特別な兵隊の連隊として戦うことでしたが、1866年に幕府軍が長州藩を攻撃したとき、この「エタ」の歩兵連隊の見事な戦いぶりによって幕府軍を敗北させました。この事実は関係者全員に明らかでしたので、彼らが英雄として歓迎され、自分たちが「利用されて」いたにも関わらず、それを逆に利用して、人々からの不承不承の尊敬を勝ち取りました。

歴史を80年ほど進めると、基本的な人権が同じように奪われたもう一つのクループがいました。第二次世界大戦中のアメリカに住んでいた日系人が強制的に収容所に入れられたことですが、この人たちの中には部落民の子孫が多くいました。収容所から出るのに、兵士として志願する道が与えられ、それが「100大隊/442番歩兵連隊」となり、ヨーロッパの戦場で大いに貢献したことは一般のアメリカ人社会から尊敬され、受け入れられる大きな要因となりました。しかし、封建時代の末期と現代国家の始まりの混乱状態に巻き込まれていた部落民の場合、残念ながら、結果は随分違いました。その主な理由として、それぞれの社会の基本的世界観によることだったと私は考えています。アメリカの政府による日系アメリカ人の待遇はキリスト教の精神とその世界観(すべての人間が「神にかたどって創造された」者として見なされる理解)から自然に流れてくる人権と完全に矛盾していたのですが、部落民が「解放」された後にも受けていた差別扱いは以前から続いていた世界観、すなわち、「ケガレ感」を中心とする考え方とその「ケガレ」をどう避けて、またどう「きよめられる」のかを重要視されていた世界観と合致します(これは「純潔」を保とうという強い意識も含まれていたので、「異質」と思われたことを排除する働きも強かったのです。)

徳川幕府を陥落させた勢力は(265年ぶりに)天皇を権力の座に復帰させることに懸命でした。幕藩の崩壊が明らかになった時から、その戦いがすぐ終わりました。結果として、「エタ」が勇士となって、尊敬を勝ち取る機会がすぐ失われてしまいました。その上、天皇制そのものは階級制の継続に基づいていたので、緩み始めていたアパルトヘイト的な分離制作を再び強める動きが再び起こりました。例えば、天皇が京都の御所から大阪に行くことになった時、「非人乞食」や「エタ」が陛下の視線に入らないようという命令が下されたのです。そのルートから見える「エタ村」を隠すように、そして、その住民がそこから出ないようにと命令されました。

公の差別制度の終結

徳川幕府の崩壊と鎖国政策の終わりとともに、発足したばかりの明治政府に対しては、日本を封建制度から西洋の(軍事力や技術の面において)「優れた」近代国家に沿う形の国家に改革するための数多くの挑戦がありました。元武士をどうするかだけではなく、「エタ/非人」をどう取り扱うかというもっと困難な課題もありました。彼らに職業訓練などを与え、優れた成績のある者から、彼らを徐々に一般社会に溶け込ませようという考え方を勧めた者がかなりいました。皆が一致していたのは、賤民という社会的地位から一般人へと変えさせることは個人として準備が整のってから、徐々にすることでしたが、相互関係のあるあらゆる法律を改正することになっていたので、結局その制度を突然に終わらせるしかありませんでした。

封建時代の社会制度を放棄したことを表すことばとして、「解放令」が一般的に使われていますが、これは英語に翻訳しますと、アメリカの黒人奴隷が解放された時の“Emancipation Proclamation”と同じことばです。しかし、上杉氏が彼の本に指摘するように、そのいわゆる「解放令」には「解放」という単語は一回も使われていません。元の書類には題名そのものはついていませんでしたが、その文書を言及するのに、「賤民廃止令」と呼ばれていました。要するに、これは身分制度の廃止だけで、人権や正義に基づいていたことではありませんでした。封建制度の廃止、そして工業化の促進や土地の個人的所有権の制度や公平な税制度を確立するには、その時まで強いられていた(個人の住居に関する制限をも含む)身分制度を保持することが不可能となりました。ですから、身分制度を終わらせたことは単なる都合主義なことに過ぎませんでした。「解放令」という用語が身分制度の廃止に対して初めて使われたのは大正時代の「修正主義の歴史」の中でのことでした。そのときに広めようとしていた解釈は江戸時代の差別は実際に天皇陛下の意思に反することであって、陛下の偉大な寛大さの故に、賤民が解放されたということでした。この事実を考えますと、いまでもそれを「解放令」と呼ぶべきかどうか問われるのではないでしょうか。

アメリカの解放された元奴隷が直面し続けていた差別と似た形で、自ら自称した「新平民」にも以前と変わらない厳しい差別が待ち受けていました。実は、ある面において、以前よりも大変でした。というのは、古い制度に含まれていた数少ない特権も廃止されたからです。例えば、以前は社会制度の「外」に存在していたため、住んでいた土地は無税とされていましたが、賤民制度の廃止とともにそれもなくなりました。もちろん、一般社会に平等の人間として受け入れられていたのであれば、その負担を喜んで受け入れましたが、何百年も続いていたこの人たちに対する非人間的な扱い方は一般人の心に深く刻まれていたので、その考え方が一夜にして変えられることではありませんでした。

しかし、そのときから今日に至るおよそ140年間は「一夜」を遥かに超えているので、この差別制度の名残が今でも続いている理由を考える必要があります。しかし、その課題を取り上げる前に、もう一つの重要な歴史的事実を考慮する必要があります。それは、賤民制度の廃止とともに、「非人」はどうなったのかということです。「エタ」と違って、「非人」のほとんどは公の土地に隔離されていたので、ある意味では、彼らに起きたことはより不公平だったと思われます。「新平民」の場合、少なくとも自分が住んでいた土地の登記簿謄本を受けたのに対して、「非人」が住んでいた「公」と見なされていた土地の所有権は与えられませんでした。しかし、長い目で見れば、これはかえってよかったと言えるかもしれません(少なくとも彼らの子孫にとっては)。というのは、差別の根拠となっていたグループとしてのアイデンテティーとそれに伴っていた差別が徐々に消えてきたからです。

それには、もちろん、例外がありました。例えば、ハンセン病の患者に対する隔離制度の例があげられます。伝染病としての有効な治療方法が開発される前に、その患者を隔離する必要性をある程度理解できますが、その人たちの人権に対する著しい侵害はそれでも非難すべきことです。しかし、1940年代に有効な薬が開発された時から、この人たちを隔離する必要性が全くなくなりました。それにもかかわらず、日本ではその強制的な隔離制度が廃止されたのは何と1996年でした!その理由としては、やはり世界観による基本的信念が働いていたと思われます。古代における差別の根拠となった「ケガレ感」と多少違っていたのかもしれませんが、日本の社会に「異質」を排除するという概念が依然として根強く残っています。

明治時代のことに戻りますが、言うまでもなく、「元賤民」たちの生活は大変苦しいものでした。しかし、少なくとも原則として、貧困と差別を逃れる自由が与えられていました。ですから、日本を離れて違う国で働くチャンスに飛びつく者が大勢いました。初期の移住労働者の大半は出稼ぎのつもりで、貯金してから、日本に戻る予定でした。しかし、結局定住してしまった者も多く、また、長い間耐えてきた抑圧を逃れるために、はじめから移民することを計画していた者もいました。1800年代の末期から1930年代に続けて、何万人の日本人がアメリカ、ブラジルやペルーに移民しました。そのうちの何パーセントが元賤民の子孫であったかを確定する記録がありませんが、明らかに多くいました。

また、国内では、明治維新後、明治政府が北海道などの北国の領土を日本の領土にするために、開拓者を多く行かせました。しかし、賤民制度がもう廃止されていたので、以前に考えられていた「エタをきよめて」先駆者として送ることはその計画から取り外されていました。実際は、明治政府は北海道に移住する元「エタ」を10%未満にすることを決めました。ですから、公式な差別は終わっていたはずでしたが、現実には非公式な(また、この場合は準公式な)差別が多くの形で続いていました。

戦いは続いている

明治時代初期に賤民制度が廃止された後の部落差別の歴史に関する重要な事柄はまだ多くありますが、この論文の締めくくりとして、数世代が経過したにもかかわらず、このような古代からの家系だけで差別対象となることが、なぜ消えなかったその理由を考えてみたいと思います。古代の部落は町外れにあったのですが、それぞれの町が大きくなるにつれ、以前から存在していた部落はとり新しく開発された地域に囲まれてしまいました。1960年代と1970年代において、政府がこれらの貧しい部落のインフラストラクチャーを改善するために多くの資金を投入する前は隣接する新しい地域との差は顕著でした。その上、部落出身の多くの人は貧しくて、十分な教育を受ける機会が与えられていなかったので、彼らの発展はなお遅れがちでした。

日本政府や地元の自治体が再開発のプロジェクトや優先的雇用プログラムや学校における反差別教育を通して、改善しようとしましたが、これらのプログラムを実行していた多くの役員自身が部落民に対して強い偏見をもっていたこともあって、その結果は不十分と言わざるを得ません。アメリカの黒人の苦境と似ていて、このようなプログラムは「逆差別」という苦情をも生み出して、この人たちが「異質」であるという誤った認識を強める結果となる場合もありました。今でも、部落出身ということは多くの日本人にとって、かなりマイナスのイメージとなっています。口先では、差別に反対していると言うかもしれませんが、例えば、自分の子供が部落出身の人と結婚したいということになったら、条件反射的にそれを嫌がります。そうなりますと、親族などはどう思われるかという恐怖感は、表面的な平等宣言を上回って、その婚約を諦めるように自分の子供に強い圧力を加えます。

このシナリオは一般的にどういうふうに展開して行くと言いますと,部落出身ではない結婚相手の親は相手の「身分調査」を行い,それに部落関係があると分かれば,結婚をやめるよう強く働きかけるのです。こういう「身分調査」を可能とする大きな要素は封建時代から受け継がれた「戸籍制度」です。なぜなら、「戸籍」に部落関係があったかどうかは自分の家系の詳細が記録されているからです。自分の家族の「ルーツ」の住所はその決め手となる一つの要素です。資格のない他人がそれを観覧することは法律違反とはなりますが、そのような「漏れ」が未だ頻繁に起こります。その上,細かい住所を含む部落区域のリストが不正にインターネットを通して簡単に手に入りますので,そのような「身分調査」をしたいどんなたでも方法を見つけられます。それは法律違反とはありますが、この情報が公式に保管してあるということは、それが悪用されることを保証してしまいます。そのアクセスを制限するだけで、その悪用を防ぐことになりません。

同様に、多くの民間の会社が部落出身の人の雇用を避けます。なぜなら、「そういう人」とつき合いたくないと考える客がいるかもしれないので、「安全策」として、はじめから雇用しない方がいいと考えるからです。そういうわけで、同じような「身分調査」を依頼して、「不適切な」人間を避けようとします。部落出身であるということだけで、本人の能力とは関係なく、その人を「不適切」であると決めつけてしまいます。

こういうわけで、少しずつ少なくなっているとは言えますが、このような差別が根強く残っています。ですから、部落解放センターや同じように反差別運動を進めている他の組織の働きは当分の間、欠かせない重要な働きです。

Updated: 2013 年 08 月 23 日,03:06 午前

アップロード 編集