使徒パウロの書簡

初期のキリスト教を迫害したこの人物が劇的な回心によって、キリスト教を一番布教した人物に変えられたいきさつとその意味について考える。

パウロの回心前の人生

パウロ(本名:サウロ)はユダヤ人として、紀元後2年ごろタルソスという小アジア(現代のトルコ)南部の町に生まれ育った。当時はギリシャ語を使う地域で、パウロの家族は社会の中で、ギリシャ語を使っていたはずだ。しかし、ユダヤ人として、家庭内では、アラム語とヘブライ語を使った。(アラム語とヘブライ語は「姉妹言語」で、同じルーツで、共通点が多い。当時のイスラエルでは、教育された人たちは地中海東部全体の共通語となっていたギリシャ語を使い、一般市民は日常生活の中で、アラム語を使っていた。そして、宗教行事ではヘブライ語を使うという複雑な言語関係だった。)

親が厳格なユダヤ教徒だったため、サウロ(パウロ)がおよそ14歳のとき、ユダヤ教の教育を受けるためにエルサレムに送り出された。(使徒言行録 22:2-3にこう書いてある:「パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。『わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。』」) ガマリエルは「ファリサイ派」の一流の先生で、パウロは彼の弟子となった。抜群の成績だったため、早く昇進し、若いうちにかなり任せられたようで、ユダヤ教の指導者たちにとって厄介な存在であったキリスト者の増加を押さえつける任務がこの若い実力家に委託されていた。サウロは自分の立場が正しかったと確信していたため、イエスに従おうとしていた人たちを迫害して、場合によって殺すことは神のみ旨であったと思い込んでいた。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(ガラテヤの信徒への手紙1:13-14)(現代のイスラム教徒がアラーの神に対する考え方と似ていた。)

パウロの劇的回心

使徒言行録には、初期の教会の歴史が述べられている。その中での中心的な出来事は使徒パウロの劇的回心だ。本名はサウロで、ファリサイ派の熱心なユダヤ教徒だった。イエスの死と復活、そして、50日後のペンテコステとステファノの殉教の間に、そしてステファノの殉教とパウロの回心の間にどのぐらいの時間が経ったか、使徒言行録の文書からは読み取れないのだが、それぞれは数ヶ月間と推定されている。使徒言行録 6章にステファノ(Stephen)という信仰深い人物が登場する。

こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。

そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。(使徒言行録 6:7-15) ステファノがイスラエルの歴史と神がその中でどのように働いたかを述べてから、結論として、そこまで聞いていた宗教の権力者たちを厳しく非難した。

かたくな…人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。(7:51-8:4)

散って行った弟子たちがサマリアなどのところでの活躍を述べてから、ルカは次の出来事を記述する。 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(日本語の表現:「目から鱗が落ちる」)

サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。(9:1-22)

サウロからパウロへ

使徒言行録13章まで、パウロは本名のサウロと呼ばれているが、13:9に「パウロとも呼ばれていたサウロは…」と記した後に、理由を述べることなしに、突然「パウロ」と呼ばれるようになる。パウロが自ら呼び名を変えたようで、その理由として、有力の説がある。イスラエルの最初の王は同じ「サウロ」という名前で、彼は王となった後に、高慢となり、神との正しい関係を離れたため、邪悪な人となった。次の王となるダビデがまだ若いうちに、サウロが彼を迫害して殺そうとした。パウロが回心する前に、同じ「サウロ」という名前で「ダビデの子」と呼ばれていた、待ち望んでいたメシア(キリスト)に従おうとしていた人たちを迫害していた。こうして、そのいやな関連を断ち切るために、呼び名を変えたと考えられる。なぜ「パウロ」という名前を選んだかも書いていないが、これはラテン系の名前で、ラテン語では、「小さい」という意味だ。本名と似ている発音もあったが、それより、サウロ王は「民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と書いてあるので、その逆の意味を取りたかったのではないかと推測されている。

回心後のパウロの働き

使徒パウロの人生と働きに関するほとんどの情報は同僚であったルカが記した使徒言行録とパウロが書いた手紙に残した記録によるものだ。ルカによると、回心後、ダマスコにいたパウロは「裏切り者」として狙われたため、逃げなければならなかった。エルサレムに戻って、以前に迫害していた弟子たちと交わりをすることがしばらくできたが、同じように狙われるようになったため、自分の故郷タルソスに戻ってしばらく滞在した。しかし、パウロ自身が書いた手紙の中で、自分の回心後何をしたかはかなり違うことを書いた。

御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。それから三年後、ケファ(ペテロ)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。(ガラテヤ1:16-19)

このような矛盾に見える証言を両立させる試みはもちろんあるが、容易ではない。というのは、どちらの記録も部分的であり、違う目的のために書かれたので、不明な点がある。パウロの本格的な働きが始まったのはそれ以降だったので、回心後の最初の10年あまり、パウロ中心の伝道旅行が始まるまで、あまり重要視されなかった。

パウロの伝道旅行

「異邦人のための使徒」(ローマの信徒への手紙11:13)として知られていたパウロの働きはもちろん、「異邦人」だけを対象にしたのではないが、結果として、同じユダヤ人への働きよりも、その狭い範囲を超えたどの民族にでも対象となった伝道(布教活動)だった。ユダヤ人が商人として、多くの町に移住していたので、作戦として、パウロはまずそれぞれのユダヤ教の会堂に行って、イエスがユダヤ人が待ち望んでいたメシアだったと伝えようとした。納得した人もいたが、大反対した人も多く、激しい議論となったことが多かった。当然、分裂が起こり、迫害がローマ帝国の権力者からだけではなくユダヤ人によってもあった。こうして、パウロはユダヤ人向きの伝導よりも、「異邦人」向きの伝導をメーンにして、布教した。

できつつあった初期のキリスト教会がパウロを「宣教師」として任命して、伝道旅行に送り出した。パウロに協力者バルナバとヨハネ・マルコ(後にマルコによる福音書を書いたマルコ)が同行した。第一の伝道旅行はアンティオキアから始まり、キプロス島へ、そして、現在のトルコ南部に移った。合計2年あまりをかけて、7つの場所に伝道活動を行なった。44年〜46年と推定されている。

アンティオキアに戻って、3年ほど滞在してから、第二の伝道旅行に出かける。今度はシラスという別な協力者といっしょに出発して、自分の故郷タルソスを経て、以前に行った町を訪ねていった。そこで、テモテという若いギリシャ人がパウロの弟子となり、ずっと同行するようになる。その人は後に教会の指導者となる(聖書に含まれるパウロの手紙の中で、二つがこのテモテ宛である)。49年〜52年と推定されている。

また、初期教会の中心地であったアンティオキアに戻って、教会の指導者たちと会議をしてから、次の年に第三の伝道旅行に5年をかけて、開始した。前回と似たコースを辿り、設立した教会を力づける目的を中心とした。その中でエフェソに3年間ほど滞在した。ギリシャのコリントまで行って、そして、58年に何年ぶりにエルサレムに行った。そこで、逮捕され、起訴された。二年ほど拘束されていたが、自分がローマの市民権を持っていたため、ローマ皇帝に上訴した。

(使25:10-12) パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。

60年の秋に、ほかの囚人と共に船に乗せられ、ローマへと出発した。船がマルタ島に難破したが、奇跡的に生き残った。次の年に、ローマに到着した。2年間監禁されてから、解放された。それ以降の活動が詳しく記されていないが、クレタ島やマケドニアに訪ねたと手紙の中で書いてあり、スペインまで行く計画もあったので、そこまで足をのばした可能性もある。どういうふうに逮捕されるかは書いていないが、67年に再び囚人としてローマに連行され、68年に死刑されてしまう。

パウロの教えと影響

イエスの弟子の中で、パウロは最も大きな影響を及ぼした弟子であったと言える。もとの12人の弟子の中でペテロやヨハネが目撃証人の証言を記録して、そして特にヨハネがその神学的な意味について語ったが、できつつあったキリスト教の神学に一番影響力があったのはやはりパウロだった。具体的に次ぎの要点があげられる:

・イエスの運動が、ユダヤ教の一派にとどまることを回避: 一番大きな影響はキリスト教を西洋文明の方へと広めたことで、彼の働きなしでは、イエスの運動はユダヤ人社会に留まった可能性があった。(あまり知られていないことは、イエスの12人弟子の中の一人であったトマスが東の方へ伝道して、南インドまでキリスト教を布教した。だから、ヨーロッパだけではなく、アジアの方へも広まった。後に、この東洋キリスト教(景教)は古代日本の文化にもかなり大きな影響を与えた。)

・信仰義認: 旧約聖書には、「神の救いは行いによる」とどこにも教えていないが、旧約聖書の「律法」を堅く守ろうとすることはユダヤ教の中心となった。モーセを通して神が定めた「律法」を、知らないうちに犯すことがないように、ずっと後のユダヤ教の指導者がルールをいっぱい作っておいた。イエスはこのことをよく非難して、外面的なことではなく、内面的なことの重要性を強調した。例:マタイ15章:「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」

それに対して、イエスは人間が作ったルールの例をあげながら、「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と言って、彼らの態度を非難した。そして、弟子たちにこう説明した:「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

回心の前に、パウロ自身はイエスが非難していたファリサイ派の人であったが、その過ちを理解して、「行いによる救い」のではなく、「信仰による救い」を教えるようになった。これがいわゆる「信仰義認」だ。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、——あなたがたの救われたのは恵みによるのです—— キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ 2:4-9)

・文化、民族の壁を乗り越える救済宗教への道備え: イエスの最初の弟子は皆ユダヤ人だったが、イエスが彼らに「宣教の大命令」をした。(マタイ28:18-20)「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

使徒言行録に、弟子たちがそれを実行しようとしたと記録されているが、その中によく出てくる問題の一つはユダヤ人と「異邦人」の隔てだった。当時のユダヤ人が長年抱いていた「選民思想」と(霊的な意味での)優越感が無意識に働いて、異邦人がイエスを信じて、自分たちの運動に加わる条件として、ユダヤ人の文化(しきたり)をも守る必要があると大半の弟子が考えていた。それで、議論が起こり、異邦人はユダヤ人のようにならなければならないという思想を一番強く反論したのはパウロで、やがて、彼の意見が採用された。

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒15:1-2)

このように、パウロの論理的な聖書解説と議論によって、キリスト教をユダヤ民族の狭い文化的枠組みからどの文化にも当てはまる宗教へと変化した。

(しかし、自分の文化を押し付けることは人間の有様だと言える。キリスト教の長い歴史の中で、結局同じようなことが何回も起こり、イエスのメッセージを他の民族に伝えたとき、それを伝える人が自分の文化をも押し付ける傾向が強かった。近代では、「福音」とともに、西洋文化をもいっしょに広めた。)

パウロにとっての「旧約」:ユダヤ教との関係;乗り越えるべき対象としての「旧約」

・旧約聖書はイスラエル民族の歴史を物語って、モーセを通して伝えられた「契約」を述べている。これは「旧約」だ。

・パウロが教えたのは、この「旧い契約」が目的を既に果たしていたので、神が「新しい契約」与えたことだ。 ガラテヤの信徒への手紙 3:23-29 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(3種類の差別:民族(人種)差別、階級差別、性差別)

Updated: 2012 年 02 月 20 日,12:13 午前

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