「新約聖書」の内容概観

「新約聖書」は27の書簡の編集に成り立っているが、その内容の全体像を概観する。特にイエスならびにキリスト教を理解する上で重要と思われる人物を中心に見ていく。

4つの福音書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ

ほとんどの聖書学者はマルコが最初にまとめられた福音書だったと考えている。マタイとルカはマルコと共通する箇所が多く、場合によって、そっくりの表現が使われている。こういうわけで、「共観福音書」と呼ばれている。ヨハネは同じ出来事を描写するときにも、他の3つとは異なった視点やスタイルをとることが多い上に、他の3つの福音書に比べて思想・神学がより深められている。

「共観福音書」の中に、マルコが一番短い文書で、マタイとルカは共通するマルコの多くの内容にいろいろ付け加えている。それぞれ独自の記述もあるが、マルコだけが述べている箇所は全体の3%にとどまる。マルコの76%がマタイとルカにもあり、それぞれに多くの話しを付け加えられている。

マタイとルカにイエスの誕生物語が述べられているが、取り上げられる内容は違う。マタイは母マリアの婚約者ヨセフと彼の苦悩した決断の立場から、事情を説明して、それに訪れた「三人の博士」の話しをも付け加えた。それに対して、ルカはより詳しく、マリアの立場から誕生の事情を説明して、天使の知らせを受けた羊飼いの話しを付け加えた。また、イエスの少年時代の場面の一つも取り上げた。それ以降、共観福音書が似た内容で、多くの同じ場面を取り上げる。イエスが弟子を選んで、群衆にいろいろのたとえ話などを通して意味深いことを教えたり、病気を癒したりして、世間を騒がした。そして、権力者とぶつかることによって、捕らえられ、十字架にかけられるという極度に辱める死刑とされた。そして、人間の究極の敵である死を克服して、甦る。

ヨハネはこれらの同じ歴史的な出来事を取り上げるが、その神学的な意味をより強調する。マタイ、マルコとルカにも、イエスは人間となられた神であるという思想に触れるが、ヨハネでは、それが強調される。日本風に言うと、水戸黄門のように、「天の殿様」が平民の格好をして、不正や暴力に苦しんでいる人々を助けて「救い主」となる。地上の領主と違うのは、一時的に平民の格好をするのではなく、徹底して赤ちゃんとして貧しい家庭に生まれて育つ。そして、不正と抑圧と戦うために武力に頼るのではなく、犠牲的な愛を通して、勝利をえるのだ。

では、それぞれの特徴を見よう。

マタイによる福音書

新約聖書の始まりはマタイ1章1節で、長い系図で始まる。読みづらいカタカナの名前がずらりと並べられているので、読む気がなくなるとよく言われる。それが終わると、イエスの誕生物語があって、そして、大人イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受け、公の働きが始まる。マタイに記録されている最も有名な言葉は「山上の説教」と呼ばれている。

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(5:1-13)

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(6:1-15)

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:1-5)

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(7:7-12)

この最後の言葉は有名な「黄金律」で、他の宗教にも似たようなことばがある。ただし、その他の場合、否定的な形で、「自分にしてほしくないことをほかの人にするな」という内容で、イエスの場合、それを肯定的な形にした。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」この「山上の説教」を聞いていた群衆の反応について、こう記された。

イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(7:28-29)

マルコによる福音書

マタイとルカと共通するところが多く、それらと違うのはもっと簡潔で、イエスの公の働きの始めから始まり、誕生に触れていないこと。そして、復活後のイエスが弟子たちに現れたことなども取り上げていない。ほかの福音書と共通する場面だが、イエスと当時の宗教の権力者の代表的なやり取りの例をみてみよう。

さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(12:13-17)

ルカによる福音書

ルカは唯一ユダヤ人ではない著者で、パウロの医者として同行したギリシャ人だった。おそらく、地上を歩いたイエスを直接にみたことはなかったので、自分が目撃したことに基づいているのではなかった。使徒言行録と一緒に、このルカによる福音書はテオフィロというギリシャ人を宛てにしたキリストの生涯と初期の教会の歴史を記述した文書だ。「テオフィロ」という名前は意味として「神を愛する者」で、実際の人物ではなく、すべて「神を愛する者」を宛てにしたという解釈もあるが、それは定かではない。その上、ユダヤ人ではない「異邦人」の手によって「異邦人」のために書いた文書であることも特徴だ。

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。(1:1-4) この冒頭からわかるのは、ルカが多くの目撃者を取材して、また、既に書かれたその他の目撃証言を研究 して、歴史家のようにこの文書をまとめたこと。例えば、イエスの誕生に関する情報を集めるため、イエスの母マリアと直接に会って話を聞いた可能性が高いと思われる。イエスの弟子やその他の目撃者にどれほど直接に会って話を聞いたかは分からないことだが、ルカにしか書いていない話が多くあり、ルカの全体の35%がルカにしかない内容だ。その中の二つのたとえ話をみてみよう。まず「良きサマリア人」と呼ばれている話。

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(10:25-37)

キリスト教の長い歴史にこの精神に基づいて多くの病院が作られてきた。「良きサマリア人病院」という名称もよくあることだ。もう一つの代表的な箇所は人間のプライドに関する教えだ。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(18:9-14)

ヨハネによる福音書

ヨハネは「共観福音書」と違って、年代順の記述よりも、神学的な意味を強調する文書だ。ギリシャ哲学の中心的な概念である「ロゴス」を利用して、キリストを描写する。「ロゴス」は「ことば」(word) と翻訳されているが、それより幅広い意味で、「知恵」や「理性」というニュアンスもある。世界を理解するために必要な体系づける原理といった感じだ。

初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(1:1-14)

このように、ヨハネはイエス・キリストが全宇宙を創造した「神のことば」で、その「ことば」(理念)が「肉(人間)となった」と理解している。

もう一つの特徴は「わたしが○○である」(“I am…”)という表現。旧約聖書の出エジプト記にモーセが神と初めてであったとき、名前を尋ねた。神の答えは「わたしはある。わたしはあるという者だ。イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(3:14)これはヘブライ語では「ヤーウェ」(また、「エホバ」と読ませた)ということばだった。英語では“I am”と翻訳されていることばで、日本語にはなかなか翻訳しにくい表現だ。旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、それは「エゴ・エイミ」という表現で、「わたしが」を強調する意味合いがある。8:58にイエスがアブラハムについてユダヤ人の宗教者と議論していた場面で、彼らに次のことばを言った。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」これは同じ「エゴ・エイミ」で、彼らの反応から判断すれば、イエスは自分が旧約聖書の神「ヤーウェ」であると主張していると理解したとわかる。ただの人間であること人は永遠の神だと断言していることが明らかで、それは恐ろしい冒涜だと考えていたので、直ちに殺そうとした。そして、やがて、この「犯罪」のために捕らえられ、十字架にかけられることになった。

ヨハネにはほかの福音書にはない7つの「エゴ・エイミ」(“I am”)の陳述があり、これらはヨハネ伝の中心的な概念だ。日本語では「わたしが」と「わたしは」と翻訳されているが、その強調されているニュアンスが失われるし、「ヤーウェ」の翻訳として使っている「わたしはある」という表現の関連性も見えてこない。

わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(6:35)

わたしは、世にいる間、世の光である。(9:5)

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(10:9)

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(10:11)

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(11:25)

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(15:1,5)

このように、ヨハネはキリストの神聖を強調する。しかし、当時の世界では、「グノーシス主義」という宗教・思想があり、キリストの神聖を認めながら、その人間性を否定していた。その思想と戦うように、ヨハネはイエスの人間性をも強調した。それは特にヨハネが記した手紙の中ではっきり見える。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。(1 ヨハネ1:1-2) このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。(2 ヨハネ1:7)

イエスは「何者なのか」「誰であるか」という疑問点は新約聖書の中心的な問いかけで、ヨハネは特にこと問題に取り組んでいた。

使徒言行録

使徒言行録はルカ伝と同じような挨拶のことばで始まる。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」そして、それ以降、人間イエスがいなくなった後の弟子たちの働きを述べる。その最も中心的な人物はイエスの12人の弟子の一人ではなく、最初の数年において、猛烈に反対していたサウロというファリサイ派の指導者が劇的な回心経験をして、「使徒パウロ」となった人物だ。(サウロを改めてパウロと名前を変えた人物。)パウロと彼の書簡を来週の講義に取り上げるので、今日は使徒言行録のその他の特徴をみる。まずは「教会の誕生日」である「ペンテコステ」。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。(2:1-8)

この時から、キリスト教が爆発的に増え始めた。この初期の教会はまだ「キリスト教」という名称がついていなかった。最初はユダヤ教の一派としてみられた新宗教で、数年後、初めて「キリスト者」と呼ばれるようになった。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(11:26) パウロ以外の手紙 (パウロの書簡が来週のテーマ)

パウロ以外の手紙には、ヨハネの3つとペテロの2つの手紙、そして、イエスの実の兄弟ヤコブとユダの1つずつの手紙がある。その中で、ヤコブが特に注目される。すべての人に共感する箇所として、次の箇所がある。 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。(3:1-12)

このように、ヤコブが私たち弱い人間の本当の姿を描いているのではないでしょうか。

黙示録

聖書の最後の本である黙示録はおそらく聖書の中で一番分かりにくい文書である。なぜかというと、多くの象徴を使う、「世の終わり」に関する預言が述べられているからだ。ヨハネが幻の中で見たいろいろの不思議なことを書き記したのは「黙示録」。例:

わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。(13:1-3)

言うまでもなく、このようなことばは多くの解釈を生み出す。中には、現代の国々や出来事と結びつけて、迫ってくると思われている「世の終わり」の預言(予言)として解釈する人が多くいる。昔からあったことで、その当時の世界情勢から判断して、それぞれの象徴に与えた解釈は、状況が変わったため合わなくなってしまうために、新たな試みをすることが繰り返される。人間は未来がどうなるか知りたい願望が強く、このようなこじつけの解釈が出てくるのは当然なことだろう。しかし、聖書の本来のメッセージから外れるのではないかと思う。

このような分かりにくい面はあるが、黙示録の全体的なメッセージは分かりやすいことで、「世の始まり」であった「エデンの園」と「世の終わり」の後に造られる「新しい天と新しい地」を「命の木」というシンボルで結び合わせる。「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」(2:7) この「命の木」は「エデンの園」の中央にあった象徴的なもので、その実を食べることによって、命が与えられる。ヨハネがその新しい世界を見る幻の中で、こう書いた:「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。」(22:1-3) 現在の世の中では、多くの苦しみと不正があるが、このように神が一時的に許している悪と苦しみの目的が達成したら、悪と苦しみが全く存在しない新しい世界が造られることが約束されている。「夜明け前は一番暗い時だが、輝かしい明日が来る」という全体的な希望のメッセージだ。

まとめ

聖書には、超自然的な奇跡物語が多くあるし、現代人の私たちの中にそのようなことが受け入れにくい人が多くいるでしょう。しかし、他の宗教を信じる人間であっても、聖書にあるこのような教えに共感を覚える人が多くいるし、中には、これらの教えを自分の思想に取り入れた宗教者が多くいる。また、西洋文化だけではなく、多くの文化に深い影響を与えてきたと言える。聖書ほど影響を与えたほかの書物はどこにもないし、歴史的な観点から見れば、現代文明のあらゆる面の起源と基礎には聖書の世界観の影響が強く出ていることが分かる。こういうわけで、キリスト教徒ではない人であっても、この本を読む価値がある。

Updated: 2012 年 02 月 19 日,11:18 午後

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