「新約聖書」の誕生

キリスト教の基盤と考えられている「新約聖書」がどういう経緯で今日の形を取り、キリスト教にいかなる影響を及ぼしているか考察する。終末論

「新約」の意味

「新約」ということばは「新しい契約」(約束)の意味することで、「旧約」に対して付けられた名称だ。「旧約聖書」はユダヤ教と共通するもので、キリストの生涯と教えをまとめた「新約聖書」はそれに付け加えられたのはキリスト教の聖典である聖書。(もちろん、ユダヤ教では、その聖典を「旧約聖書」と呼ばず、「タナック」(Tanakh)と言う。「旧約聖書」と呼ばれるのはキリスト教の立場からなのだ。)キリスト教の立場から言えば、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた契約は「旧い」もので、その目的は、全世界の人々の救い主として派遣される「メシア」の準備を整えることで、そのメシア(キリスト)が来ることによって、新しい契約を与える計画だった。これは預言者エレミヤの預言に記されていることだ。(31:31-33)

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。」すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

つまり、「石に刻まれた戒めではなく、心に刻まれる戒めである。」

「新約聖書」の内容

「福音書」

マタイによる福音書(税吏出身の弟子マタイ)(AD 65-75)

マルコによる福音書(ペトロの同行者であったマルコがペトロの目撃証言をまとめた文書)(AD 55-60)

ルカによる福音書(パウロの協力者であった医師ルカによって書かれた文書)(AD 60-62)

ヨハネによる福音書(一番長生きしたイエスの弟子ヨハネによって書かれた文書)(AD 80-90)

(初期の教会の歴史)

使徒言行録(ルカによる福音書の続き、初期の教会の歴史)(AD 62)

(パウロの書簡)

ローマの信徒への手紙 (AD 57)

コリントの信徒への手紙一 (AD 54-55)

コリントの信徒への手紙二 (AD 55)

ガラテヤの信徒への手紙 (AD 48-53)

エフェソの信徒への手紙 (AD 60-62)

フィリピの信徒への手紙 (AD 60-62)

コロサイの信徒への手紙 (AD 60-62)

テサロニケの信徒への手紙一 (AD 50-51)

テサロニケの信徒への手紙二 (AD 51-52)

テモテへの手紙一(牧会書簡)(AD 63-65)

テモテへの手紙二(牧会書簡)(AD 66-67)

テトスへの手紙(牧会書簡)(AD 63-65)

フィレモンへの手紙 (AD 60-62)

ヘブライ人への手紙(著者は文書内に記されていない。伝統的にパウロだろうと考えられていたが、そうではない可能性もある。(AD 60-70)

(公同書簡:特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡)

ヤコブの手紙(イエスの兄弟ヤコブの文書)(AD 40-50)

ペトロの手紙一(イエスの弟子ペテロの文書)(AD 60-64)

ペトロの手紙二(イエスの弟子ペテロの文書)(AD 64-68)

ヨハネの手紙一(イエスの弟子ヨハネの文書)(AD 85-95)

ヨハネの手紙二(イエスの弟子ヨハネの文書)(AD 85-95)

ヨハネの手紙三(イエスの弟子ヨハネの文書)(AD 85-95)

ユダの手紙(イエスの兄弟ユダの文書)(AD 60-65)

(黙示)

ヨハネの黙示録(イエスの弟子ヨハネの文書)(AD 90-96)

合計、27の書簡。

内容的に、イエスの教えと行動を述べる4つの「福音書」、初期の教会の歴史を述べる「使徒言行録」、パウロやその他の指導者が書いた手紙、そして、多くの象徴を使う「黙示録」で構成される。マタイによる福音書とヨハネによる福音書はイエスが選んだ12人の弟子によって、直接の目撃者として証言した記録で、マルコは教育の殆ど受けていなかったペテロの秘書としてペテロの目撃証言をまとめたものとして考えられている。そして、もう一つの福音書は医者であったルカというギリシャ人が多くの目撃証言とパウロの側近としての自分の経験に基づいて、「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を一つのセットとして書いた。締めくくりとなっている「ヨハネの黙示録」はイエスの弟子ヨハネと同じヨハネであったかどうか議論されているところだが、紀元後95年ごろに書かれた文書で、最後の文書だったという見解が一般的だ。

新約聖書の残りはパウロの手紙を中心とするもので、「ローマの信徒への手紙」や「コリントの信徒への手紙」などで、初期の教会に生じた問題への解決のアドバイスやできつつあったキリスト教の「神学」に関する教えなどを内容としている。パウロ以外の「使徒」が書いた手紙もあり、ヨハネに三つ、ペテロに二つ、そして、イエスの実兄弟であったヤコブとユダに一つずつが含まれている。

本文批評

新約聖書の伝達と原文の確認を取り扱う分野は「本文批評」と呼ばれている。聖書の伝達は原文を注意深く写本することによって、使い古した原稿の代わりとなる新しい原稿を作って行くプロセスだった。旧約聖書の場合、ユダヤ人たちが厳しい訓練を受けていた専門的に写本をする写本筆写者に限定する作業で、間違いのないように、徹底した「品質管理」のシステムを開発した。「死海写本」という紀元前2世紀に作られた写本と比べれば、文字のスタイルというような小さな違い以外、全く同じだったということはその「品質管理」と徹底ぶりが証明された。

しかし、新約聖書の原稿の伝達は随分違うプロセスだった。同じように手で写本するしかなかったが、それぞれの書簡などをすぐ写したり翻訳したりして、数を増やして広めた。当然なこととして、多少の違いが出て来て、原本と少し違う文書が次の世代の写本に伝わり、現在に残っている数多くの古代写本には、そういう小さな違いが多くある。実は、バート・エアマン(Bart Ehrman)という「本文批評家」が出版した一般向きの本に、古代から伝わった新約聖書の原稿には「40万の異形や異文」があることを主張し、現存する新約聖書と元の原稿とに多くの違いがあり、それらは具体的に何であるか確認することが難しいという印象を与える。この主張はどう理解したらよいだろうか。

まずは、4世紀以前のギリシャ語写本の数は5500ほどあるので、同じ異形が多くの写本にあるなら、それぞれは一つの異形として数えられる。その中の殆どが意味のないスペルの違いなどで、中心的な教理に関わる相違は一つもない。それでも、原本には果たして何が書いてあったかはどう分かるかという疑問が残るので、その研究は「本文批評」の目的だ。それはどういうふうに進めて行くかと言うと、現存するそれぞれの写本を比べ合って、その写本の年代やどこで写本されたかなどの情報を考えた上、実際に原文に何が書いてあったかを割り出す。その上、そのそれぞれの判断の確実性をも推定する。結果として、数カ所以外、原文には何が書かれていたかは確実に割り出せたと言える。

新約聖書の場合、他の古代から伝わって来た文書と比べれば、時間的に原文に遥かに近い写本が残っているし、その写本の数も遥かに多い。聖書以外の古代文書の原文と存在する一番古い写本との時間的なギャップはよくても1000年以上で、残っている写本の数も少ない(多くても十数)。しかし、ギリシャ語の新約聖書の紀元後4世紀以前の古代写本は5500ほどあり、一番古い写本の破片は紀元後100ごろで、原文から数十年しか経っていない。ラテン語やコプト語などの同じ時代の翻訳の写本は2万を超えている。その上、2−3世紀の教父たちが残した多くの文書の中に聖書を引用していることも多くある。従って、それぞれの年代や書かれた場所などの研究から、文書の違いはいつからどこで現れたか分かるようになってきた。このおかげで、殆どの場合、原文のことばは何であったか確実に分かる。従って、ずっと後に、少しずつでき上がった伝説が後に付け加えられていないこと。もとの著者が書いた文書が伝わってきていると確信できる。(もちろん、もとの著者が書いたこと自体は真実であるかどうかは別な問題だ。でも、目撃したことだと断言している。)

マルコ16章とヨハネ8章に付け加えられた文書

中世に伝わった写本に基づいている伝統の深い「欽定訳聖書」などの聖書に含まれている、元々なかった重要な箇所は二つある。つまり、だいぶ後に付け加えられた箇所があると証明された。その他に数箇所の小さい箇所もあるが、問題されてきたのは主にこの二箇所だ。マルコによる福音書の最後となっている16章9節以降とヨハネによる福音書の7:53-8:11は一番古い写本にはないし、明らかに付け加えられた文書だ。

マルコの場合、イエスの復活の証言が途中で終わってしまうように見える。(女たちが日曜日の朝早く、イエスの墓に行ったときのこと。)

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(16:5-8)

その他の福音書から、それ以降の話が書いてあるが、マルコの場合、どういうわけか、このままで終わってしまったようだ。その上、イエスの誕生物語も欠けているので、元の原稿の一番最初とその終わりの文書は写本が作られる前になくされたという説がある。その真相が解らないのだが、この不自然な終わりを何とかして解りやすいように、3世紀ごろに、その締めくくりのことばを付け加えた。その上、その挿入した文書には多くの異文もあるので、後世の指導者たちはこの難点をどうすればいいか苦労した様子が見受けられる。

ヨハネに付け加えられた文書は有名な「姦通の女」の物語で、加えられた理由はマルコの締めくくりのことばと全然違う。大変有名な話であるから、まずその内容をみてみよう。

人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

この物語が本物のであれば、なぜ初めから含まれていなかったかというよい答えがないが、明らかに口頭で広く伝えられた話で、イエスの他の教えと合致していたので、どこかに挿入したかったようだ。この話が含まれる現存する一番古い写本は紀元後400年ごろのものだが、物語そのものを言及する4世紀の教父がいた。とにかく、信憑性のある話で、重要なことを教えるので、多くの人に愛されていることばだ。しかし、原文にはなかったので、現代の聖書はそれを本文から外し、参考のため、脚注に移している。

新約聖書の言語、翻訳

新約聖書に含まれる27の書簡は全部、「コイネー・ギリシャ語」と呼ばれている言語で書かれた。「コイネー」は「共通」という意味で、この「コイネー・ギリシャ語」はアレクサンドロス大王が帝国を築き、ヘレニズム文化と一緒に広めたことばで、地中海東部の共通語となった言語だ。アリストテレスやプラトンの文書は古典ギリシャ語で書かれていたもので、コイネー・ギリシャ語はそれと多少違っていた言語だった。イエス自身、また彼の弟子たちはギリシャ語をある程度話せたはずだが、普段はヘブライ語から発展した「アラム語」で会話をしていたはずだ。(ヘブライ語と同じ文字を使うし、共通する単語が多いので、素人が見るだけで、殆ど区別できない。) 新約聖書の執筆者の中で、母国語としてギリシャ語を話せたのはおそらくパウロとルカだけで、その他の人物の母国語はイエスと同じくアラム語だった。おそらく、アラム語で書かれていた記録が最初に存在していたが、ギリシャ語が広い地域の共通語だったので、最終的な原稿が出来上がったとき、全部ギリシャ語にした。元々あったと推測されている一部のアラム語で書かれた原稿は現存せず、あったとすれば、早いうちになくなったようだ。アラム語(シリア語)の聖書はその大分後にできた翻訳だ。

ローマ帝国の東の半分の共通語はギリシャ語だったが、ローマを中心とする西の方は当然、ラテン語で、早いうちに、ラテン語の翻訳も必要となった。初めは、独自の翻訳が所々にできたが、キリスト教が認められるようになった4世紀に、「聖ヒエロニムス」(St.Jerome)と呼ばれる人物がダマスス1世(ローマ教皇)の依頼を受け、「ラテン語の再訳版」を完成した。英語で、これは”Vulgate”と呼ばれているが、それは「日常口語」という意味で、ラテン語を母国語として話す人が分かりやすいように翻訳されている。これがローマカトリック教会の正式な聖書となり、今日に至って、使われている。(1964年まで、日本を含む全てのローマカトリック教会でのミサはラテン語のままで、第2バチカン公会議でそれぞれの現地のことばでやってもよろしいと決められた。)

必要に応じて、聖書が他の多くのことばに翻訳されてきたが、その中で、影響力の非常に大きかったのは1611年にでき上がった「欽定訳聖書」(King James Version)の英語の翻訳。面白いことは、当時の学者はコイネーギリシャ語の歴史がよく理解していなかったため、そのスタイルは特別な宗教的なものと思い込み、文語体のギリシャ語と考えていた。そのため、シェクスピーアと同じようなスタイルの英語で翻訳した。しかし、100年ほど前にエジプトの砂漠で、同年代に書かれた日常の手紙などが発見され、この同じスタイルのギリシャ語を使っていたことが分かり、新約聖書の原文は当時の文語体的なことばではなく、日常会話的なことばだったと分かった。こういうわけで、近代の聖書翻訳は口語訳的なものが多くなっている。

日本語への翻訳は16世紀のキリシタン時代に始まったが、一部の翻訳にとどまり、そして、キリスト教が禁じられた江戸時代に殆どなくなった。明治時代に「明治元訳」ができ、大正時代に改善され、「文語体」と呼ばれていた聖書が戦前に一般的に使われていた聖書だった。「美しい表現」を使っていたが、若い人にとって分かりにくいことだったので、1955に「口語訳」ができあがり、出版された。そして、現在一番使われている「新共同訳」が1987年にできた。現在、新しい翻訳プロジェクトが進んでいるところで、2015年頃完成する見通しとなっている。なぜ必要かというと、現代の日本人に分かりやすいより正確な翻訳が求められているからだ。その他に使われている日本語の翻訳は「新改訳」や「現代訳」もあるし、その他の新しい翻訳が進行中。

終末論

以前の講義で触れたが、聖書の主要なテーマの一つは終末論だ。この世はどこに向かっているのか。「世の終わり」があるのか。そして、その後はどうなるか。これらの質問に対して、聖書は多く語っている。

地球上に人間が永久に生きることができないのは科学的に証明されている。つまり、そういう意味で、「世の終わり」が見えている。物理的な意味で、人間が住める環境が存在しなくなるまで、何百万年があるかもしれないが、その終わりが来るのは確実だ。環境破壊などの問題を考えると、その時がそんなに遠い未来ではないという気がする人が多くいる。聖書の預言には、その終わりがいつ来るかは書いてないが、与える印象としては、「近い」ことだ。悪の力が一時的に猛威を振るうが、神がそのことを許した目的が達成したら、「新しい天と新しい地」を創造して、悪の問題を最終的に解決すると聖書が教えている。その世界では、悪や苦しみが存在せず、すべてが素晴らしい。そして、そこにいる存在者は自由意志をまだ持っているにもかかわらず、訓練されたものだから、悪を再び選んで、神に逆らうことがないと聖書が語っている。その「極楽」が永遠に続く。

2012年の世の終わり?

最近話題になっているマヤ文明の暦が2012年12月21日に終わるということは「世の終わり」の予言であるということはどう考えるべきだろうか。実は、「世の終わり」が○○年に起こるという偽予言が今まで、何回もあったことだ。「偽予言」と呼ぶのは、予言された通りにならなかったことによる。この課題を聖書の立場から考えるために、まず今までの「偽予言」の歴史を簡単に紹介しよう。

キリスト教関係の「偽予言」には、いくつかものがあるが、なぜそういう運動が起きたかと言うと、社会が厳しい情勢になって、不安が高まるとき、やはり、一般人でも、関心が高まる。「未来が明るい」と信じたいのだが、やはり、「未来が暗い」と心配する人が多い。これは人間の弱さを表すことだ。では、167年ほど前のアメリカのできごとを考えてみよ。聖書を細かく研究していたウィリアム・ミラーという牧師がキリストの「再臨」が1843年10月22日になると聖書を解釈した。それは聖書のいろいろのところに書いてある預言のシンボルの意味を推定して、計算したことで、多くの人を納得させた。結局、何万人もの人が白い衣を身に着け、丘の上に立って、キリストが雲の上に乗ってくるのを待っていた不思議な光景だった。言うまでもなく、実現しなかったとき、多くの人がその誤った信念を捨てたが、計算し直したり、解釈を変えたりして、新しい新興宗教を作った。その流れから、いくつかのグループが出たが、一番名が知られているのは「エホバの証人」だ。

エホバの証人が始まったのは、1877年に、キリストの再臨が「見えない形で」既に起こっていて、世の終わりが1914年に起こると予言した。それが実現しなかったが、第一次世界大戦がその年に勃発したので、これは「世の終わりの始まり」だと教えを修正して、更に、1925年、そして、それも実現しなかった後、1975年に新しい「終わりの時」を宣言した。現在、この「カルト」は具体的に何年に起きるか言っていないようだが、このように、人々の不安を扇いで、信者を作ろうとしている。

エホバの証人は歴史的にキリスト教の流れの中にはあるが(その中心的な多くの教えを否定しているので、別な宗教と言わざるを得ないが)、他の宗教や思想が同じように世の終わりを予言している。では、現在話題となった古代マヤ文明の予言はどんなものか見てみよ。

まず、2012年12月21日という日付は何を意味するか考えよう。1000年以上も前の人たちが、この迫っている日が世の終わりと本当に主張したのだろうか。研究者によると、決してそう言っていないのだ。言っているのは、その時に作り上げた暦の最後で、それ以降、新しいサイクルが始まるだけだ。大変複雑な関係を持つ暦だったので、説明しにくいが、なぜ話題になっているかと言うと、その日に、地球に大きな影響を及ぼす「何か」が起こると宣言した。はっきりした科学的な根拠がないが、太陽の磁場が逆になって、「太陽嵐」が起こる可能性が指摘されるなど、人の不安を扇ぐ。前もって、そうではないと証明できないので、そんなことが起こらないと保証できない。しかし、根拠がないことは事実だ。

ノストラダムスの予言も同じような問題だ。まず、あまりにも曖昧な言い方ので、できごとが起きてから、その予言の曖昧なことばを勝手に解釈して、そのできごとに当てはまることが殆ど。

以上(異常)なことは聖書の立場からどう考えるべきか以下のことばに表現されている。本当の神様が示した未来に対する予言であるなら、必ず実現する。だから、その通りにならなかったとすれば、それは神からの予言ではなかった証拠だ。

あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。(申命記18:21-22)

Updated: 2012 年 02 月 17 日,04:52 午前

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