イエスという人物について

イエス・キリストと呼ばれている人物の実在を裏付ける証拠についてふれて、イエスの思想を紹介する。奇跡

古代ユダヤ人が待ち望んでいたメシア

先週の講義で、旧約聖書に描かれている「メシア」について、いくつもの「預言」をみてきた。「栄光に輝く勝利者としてのメシア」(救い主)を記述する多くの預言の中に、「身代わりとなって苦しむメシア」を描く預言もあることが解った。ローマの抑圧のもとに苦しんでいたユダヤ人たちはローマ軍を追い出して、ダビデ王時代の国の独立と繁栄を取り戻してくれるメシアの到来を願望していたため、「栄光に輝く勝利者としてのメシア」を描く預言者のことばだけを考えていた。こういうわけで、奇跡の男イエスがエルサレムに入って来たとき、彼をそういう「メシア」として迎えられた。イエスを裏切った弟子ユダもそういう誤った期待感があって、イエスを窮地に追いやれば、仕方がなく、「天の軍」を呼び求めて、期待通りの「栄光に輝く勝利者」となるに違いないと思い込んでいた。ユダはもともと「熱心派」に属していたと聖書に記されていることから判断すれば、彼には特にそういう期待があり、イエスがいろいろの奇跡を行なったことを自分の目でみていたので、この人こそ、イスラエルに派遣されたメシアだと信じていた。

しかし、先週みたように、イエスの使命はそういうメシアではなく、もう一つの描かれている「苦しむメシア」だった。こういうわけで、皆が願望していた形のメシアではないと明らかになったとき、イエスを殺そうとしていた権力者たちが群衆を煽動して、イエスを見捨てるように説得できた。こうして、十字架にかけられる結果となり、「身代わりとなって苦しむメシア」の預言が成就された。

紀元前と紀元後の分かれ目

現代の殆どの国が「西暦」を使っている。場合によって、日本と同じように、元号と同じような独自の暦を併用する国がある。でも、どの国に行っても、このいわゆる「西暦」が通用する。この世界共通の暦はどういうふうにできただろうか。イエスの時代では、日本の元号と同じように、皇帝の即位から計算していた。例:「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2)

こういう制度がさらに500年ほど続き、現在使われている「紀元前」と「紀元後」が初めて使われたのは525年だった。しかし、広く使用されるには8世紀ごろだった。伝統的に使われているのは「BC -“Before Christ”」と「AD -“Anno Domini”」(ラテン語、主の年 –“Anno Domini Nostri Iesu Christi”)、「私たちの主イエスキリストの年」の略)。“BC”と“AD”を使うことはまだ一般的だが、近年、“BCE”と“CE”という書き方もよくみられるようになった。これらは日本語の「紀元前」と「紀元後」と似ていて、”Before Common Era”と”Common Era”(共通時代)の略だ。しかし、どちらの書き方であっても、その前後の変わり目はキリストの誕生の年だ。

この制度が考え出された6世紀には、キリストの誕生の年を正確に計算する情報が不十分で、数年ずれたと現在の学者が把握したことだ。聖書に記された情報によると、イエスが生まれた時、ヘロデ大王が死ぬ2〜3年前だったので、ヘロデが紀元前4年に死んだので、イエスの実際の誕生はおそらく紀元前6年、あるいは7年だったと推定できる。

奇跡物語の信憑性

新約聖書を読むと、いろいろの奇跡物語があるし、イエス自身、また彼の弟子はイエスが人間となった天地創造の神様だと断言する箇所がある。その上、このイエスが十字架の死刑を受けてから、死を克服して、死人の中から甦ったと主張されている。そのことを実際に信じる人なら、クリスチャンとなるのは当然だが、信じない人々はそのような主張を受け入れない根拠を見出そうとする。実は、これらの主張に対して、4つの可能性しかない。①詐欺師:イエスが何らかの運動を起こそうとするために、嘘をついたこと。つまり、自分が言っていることは真実ではないと知りながら、他の人をだまそうとしたこと;②精神異常者:自分が言っていることは真実でないと認識できないで、自分自身が信じ込んでいたということ;③本物:イエスが言ったことばと行なった業が真実で、彼が実際に人間の形をとった天地創造の神様であること;そして、④イエスという人物が存在しなかったこと、また、存在していたとしても、ただ、普通の人間だけで、聖書に述べられている奇跡物語などはずっと後に付け加えられた伝説(神話)だけだということ。

①と②をまじめに考える人は殆どいないのではないかと思う。なぜなら、そのような人物が実際にいたとすれば、2000年後の私たちがおそらく、それを知ることができないだろう。というのは、死んだ後に、弟子たちが自然に消えたはずで、何も残らなかったはずだ。あったとしても、考古学的発掘調査によって、そういう人物が存在したと発覚しただけで、現代に影響を及ぼすことはないはずだ。

従って、殆どの人は③と④のどちらかの選択肢を選ぶ。もちろん、その中で、様々な形がある。例えば、「本物」と思っても、信仰が表面的で、宗教心が浅いことがよくあることだ。実は、全世界の20何億人のクリスチャンの大部分は、「文化的キリスト教徒」で、「聖書の世界観」を実際に持っていないと言える。

また、④の選択肢を選ぶ人々にも、幅広い考え方がある。例えば、イスラム教では、イエスが神から送られた偉大な預言者だと考えている。しかし、「神の子」であることや実際に死人の中から甦ったことを否定する。イスラム教の聖典である「コーラン」によると、イエスが奇跡(処女降誕)を通して神から派遣された特別な預言者で、アラーの神の力を通して、多くの奇跡を起こした。しかし、「人間となった神様」であることや、人間の罪のために十字架の上で死んで、実際に甦ったことなどの中心的な主張を強く否定する。コーランによると、これらは後世のクリスチャンによって、新約聖書に付け加えられた「冒涜」だと主張する。

また、「エホバの証人」や「モルモン教」というような「正規のキリスト教」と対抗する、歴史的にキリスト教と関連のある宗教もあり、聖書に述べられているイエス像の一部分を否定する。その詳細は講義のテーマから外れるので、省略するが、「聖書が正しく伝達されなかった」ことなどの理由にして、キリストの神性や「三位一体」の正規のキリスト教の中心的な教理を否定する。(彼らに以上の4つの選択肢の内にどれを選ぶかと聞かれたら、もちろん、③を選ぶが、その「本物」という内容を変えてしまうので、事実上、④の一種だと言わざるを得ない。)

そして、懐疑論者や無神論者は明らかに④を選択する。彼らの場合、超自然そのものが存在しないという大前提のもとで、すべての奇跡物語は作り話だと決め付け、ずっと後に付け加えられた迷信だと主張する。例えば、数年前に出された「ダヴィンチコード」の主張は新約聖書に含まれている福音書は存在していた数多くの「福音書」の中から、325年のニカイア公会議で選ばれたものだけで、他の「福音書」が描くイエス物語は随分異なるので、真実が解らないという主張だ。「ダヴィンチコード」の場合、それこそ「作り話」だと証明できるもので、小説として優れている作品であるかもしれないが、「歴史的事実」に基づいているという主張を簡単に論破できることだ。第一に新約聖書に含まれている4つの福音書はイエスの生涯を目撃した多くの人たちがまだ生きている内に書かれたもので、その他の「福音書」は2世紀や3世紀にできたもので、目撃者証言に基づいていないものだ。その上、新約聖書に含まれている4つの福音書がニカイア公会議で選ばれたのではなく、ずっと前から認められていた「聖典」が再確認されただけだった。

この他に、いろいろの説がある。例えば、イエス物語は以前から存在していた別の神話を練り直しただけのものだという主張もある。「死んで甦る救い主」という話がキリスト教以前からあって、それを取り入れただけだったと言われている。例えば、ミスラス(Mithras)を崇拝する宗教が古代ペルシアから、ローマ帝国に入り、初期のキリスト教の「競争相手」となっていた。懐疑論者たちの主張によると、イエス物語とよく似ている点が多く、初期のキリスト教徒がそれらを取り入れて、キリスト教を発展させた。しかし、実際の証拠を研究している学者が証言するのは、ミスラスという神の存在そのものは紀元前からだったが、キリスト教的な色彩は紀元後2世紀以降だったので、その影響は逆だった。つまり、キリスト教の思想が逆にミスラス教に取り入れられたことだったという結論。これと同じような他の例もある。要するに、天地創造の神が人間の赤ん坊となり、人間の社会で育って、そして、人間の罪のために命を犠牲にしてから、死を克服して甦ると似たようなシナリオはキリスト以前にあったと裏付ける証拠がないばかりか、似たような内容がある別の思想はキリスト以降のものであると裏付ける証拠が多くある。だから、「練り直す」ことがあったとしたら、それは全部逆の方向だった。

日本の歴史に関係する面白い例がある。聖徳太子(紀元後574 – 622)は古代日本の歴史の中心的な人物で、数百年後の平安時代になったら、聖徳太子を神性化するいろいろの伝説が現れて来た。まず、伝説によると、聖徳太子は馬小屋に生まれた。用明天皇の息子でありながら、「厩戸皇子」(うまやどのみこ)と呼ばれていた。また、「救世菩薩」(ぐぜぼさつ)とも呼ばれ、一種の救い主とみられていた。伝説によると、生まれる前に、「救世観音」が夢の中に間人(はしひと)皇后に現れ、胎内にいる子が特別な存在であることを知らせた。「処女降誕」とまで言われていなかったが、天使がマリアに現れ、イエスの誕生を知らせたこととよく似ている。また、大人となった聖徳太子に対して、「日羅聖人」と名付けられた人物が聖徳太子を「救世観音」と呼んで、崇拝する場面もあり、その人が後に殺された。何となく、洗礼ヨハネがイエスを「神の子、世の救い主」と呼んで、ヘロデ王に殺されたことと似ている。そして、日本書紀には聖徳太子が「片岡山で飢えた者に衣食を与えたという話し」…「それに続いて、その飢えた人がやがて死んで葬られたが、数日の後復活して、ただ棺の上には衣だけしか残っていなかった。」言うまでもなく、聖書物語とよく似ている。    

もう一つの類似点は聖徳太子が「大工の祖」として考えられ、「大工の守護神」として崇められていた。今日に至っても、広隆寺やその他の寺で、毎年の正月に「チョンナ初め」という儀式が行なわれ、聖徳太子が「大工の祖」と呼ばれている。イエスも大工だったので、これは偶然ではない可能性が高いだろう。関西大学の池田栄教授の結論は「聖徳太子の当時、キリスト教の何らかの一派が、既に我が国においてキリスト教を伝えていたと思われる。そのために仏教徒の間に、このような一種の習合伝説が生まれたのであろう」と。その「一派」は景教だった。

イエスの歴史性

では、イエスが実際に存在していた人物だったと裏付ける証拠があるのだろうか。どの古代歴史の人物の実在を証明しようとする場合、同じ問題にぶつかる。その人の名前とその人に対する情報を記述している文書などは多くの場合、ずっと後に書かれた原稿しかないので、どれほど正確であるかは疑問視される。しかし、石に刻まれた当時の文書や彫刻と彫像が残っている場合はその確実性が高まる。イエスの場合、どうだろうか。同じ時代の他の人物の実在性と比べれば、歴史性が薄いのだろうか。

例えば、イエスと同じ時代のローマ皇帝ティベリウス(紀元前42-紀元後37)の実在性と比較しよう。聖書にも記述されてはいるが、死後の150年の内に彼を言及するそれ以外の歴史家や著者は10ほどで、その最も古い現存する原稿は死後1000年ほど後の写本だ。もちろん、当時の彫像や貨幣などの証拠も多くあるが、文書だけを考えると、以外と少ない。イエスの場合、聖書以外の文書だけを考えると、皇帝とほぼ同じ数だ。例えば、イエスを信じていなかったローマの歴史家コルネリウス・タキトゥス(紀元後55〜120年頃)が「年代記」の中で、クリストゥス(キリスト)について、次の記述をしている。 「そこでネロは、この風評(彼がローマに放火を命じたこと)をもみ消そうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手の込んだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、『クリストゥス信奉者』と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元地方総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。しかし、しばらく押さえつけられたこの有害な迷信が発祥地であったユダヤ地方だけでなく、全世界の憎むべき恥じるべきことが集中して人気となってしまうこのローマにも現れた。従って、このことを認めた人たちをまず逮捕して、彼らの情報のもとに、大勢の信者が有罪判決となった。それは放火の犯罪を理由にするより、人類への憎悪の罪のためだった。」こうして、タキトゥスが指摘したのは64年に起きたローマの大火災はネロ皇帝自身の所為だったが、その責任を逃れるため、嫌われていたクリスチャンにその責任を負わせた。

タキトゥスの「年代記」の最も古い写本は11世紀ごろのものだから、1000年ほど前に書かれた原文に同じことが書いていたことを証明できることではないが、彼はキリスト教に対する自分の嫌悪を表しているし、「年代記」に書かれてあるその他のことの真実性に疑問視すべき重要な点はないので、後世のキリスト教徒が勝手にそれを加えた可能性が極めて低いことだ。その動機はないばかりか、そのようなことを書くなら、それほどの否定的なことばでキリスト教を描写するはずがない。その上、違う地方に存在していた他の写本をそれに合わせられたことは極めて考えにくいことだ。また、その他のキリスト教徒ではない同年代の著者の文書の中にも、イエスに対する同じような記述があるので、後の時代に捏造されたことではない証拠となる。その上、イエス物語は単なる作り話だったら、このようなイエスを否定的に描く文書がないはずだ。

古代の文書として、伝わってきた新約聖書の原稿は他の文書より遥かに多いが、「宗教の聖典」であるから、客観性がないとよく言われている。一般的に考えたら、「宗教の聖典」の客観性を確認せずに、信じるべきものではないことは正しいことだ。つまり、その聖典以外の考古学的証拠と照り合わせて、合致するかどうかを確認する必要がある。例えば、「モルモン系」と呼ばれているモルモン教の聖典は古代アメリカの歴史を記録していると主張するが、その本に出てくる地名やその他の地理的なこと、また、文化的技術的な面においても(馬車の存在など)を裏付ける考古学的証拠は一つも発見されていない。それに対して、聖書に出てくる地名や歴史的詳細を裏付ける考古学的証拠が多くあり、聖書に記録されたできごとは実際になかったことを証明する証拠はない。もちろん、聖書に記述されているできごとを裏付ける聖書以外の証拠がまだ発見されていないケースがあるが、新しい発掘調査が今まで聖書にしか記録されていなかったできごとを裏付ける証拠が出てくることがよくあることで、聖書以外の証拠がない聖書に記録されたできごとの数が随分減って来た。

聖書が「宗教の聖典」であるから、歴史に対する客観性がないと決めつけることは以上の理由で、すべきことではない。今までの成績を考えると、これからの考古学的研究の計画を導く有力のヒントを与えるし、実際にそういうふうに利用している考古学者が多くいる。

もちろん、歴史的な詳細が正確であるため、直接に確かめられない奇跡物語や霊的な宗教的な事柄も正確であるとの証明とはならないが、ある程度の信憑性を与えるに違いない。それは十分であるかどうかは個人個人の判断になってしまう。しかし、受け付けないなら、それは歴史性がないからという理由でそう考えることは証拠に反する。その真実性を正当な理由で拒絶するなら、それは哲学的な理由しかない。つまり、超自然そのものがないという大前提のもとで、門前払いをすることだ。

奇跡物語の信憑性

では、奇跡を考えてみよ。聖書に記されている奇跡には三種類がある。①超越的(transcendent)奇跡、②変貌的(transformational)奇跡、と③維持的(sustaining)奇跡である。①の例として、宇宙の起源そのものが第一にあげられる。つまり、自然法則を超える、自然界の枠組みの中で説明ができない奇跡のことだ。生命の起源ももちろんだが、聖書の中で直接に言及するできごとの中で、この範疇の中に入る奇跡は瞬間的な癒しや死人から甦らせることだ。これらは自然法則を明らかに破ることだ。イエス自身が行なったとされている奇跡は超越的の方がほとんど。(水の上を歩いたことや生まれつきの盲人を癒したことなど)

②の「変貌的奇跡」を説明するために、自然法則を超える必要がない。例として、この前にみた「出エジプト」に連発した奇跡のほとんどがこのタイプだ。例えば、紅海の横断が可能にしたのは神が一晩中強い風をちょうどよい方向から吹かせたため、海の水を押し出したと書いてある。こういうわけで、「奇跡」となるのはその規模とタイミングのことで、神が自然法則を超えることなく、自然界のプロセスを誘導することだけだ。実は、聖書に述べられている奇跡物語の過半数はこの範疇に入る。

そして、③維持的奇跡もある。普通に考えたら、これらはあまり「奇跡」と考えないのだが、自然界の絶妙なバランスなどは「奇跡的な」ことで、まさに「奇跡」だ。聖書にはこれらのことは詳しく書いてないが、パウロが書いた「コロサイの信徒への手紙」に神がそういう意味で宇宙の全てを支えていることを教える。つまり、その支えがなかったら、宇宙が存在しなくなってしまうという教えだ。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ1:15-17)

この「維持的奇跡」を裏付ける科学的データが最近明らかになって来た。地球上に生命が38億年も前から維持されてきたが、どの惑星にそんなに長い間に生存し、高等生物まで発展して行けることを可能とする条件が極めて厳しいことだと解ってきた。生命維持可能な惑星の存在に関わる要素が今まで800以上発見され、それぞれの要素が自然法則とチャンスに任せただけでは、必要な範囲内に入る確率が低く、それぞれの確率を合計すると、ゼロに等しい。ある天文学者の概算によると、その全体的な確率が何と10-1054だ。つまり、創造主が宇宙を創造しただけで、後は自然に任せたら、生命が宇宙のどこにも存在しないはずだ。このデータは地球が生命のためにきめ細かくデザインされたことを意味する。

イエスの復活

キリスト教にとっては、一番重要な奇跡はイエスの地上人生の始まりと終わりの奇跡だ。つまり、「受肉」と復活だ。これらはキリスト教の暦の最も重要な「祭り」であるクリスマスとイースター(復活祭)に記念されるできごとだ。「受肉」という専門用語は霊である天地創造の神が「肉を受けて」人間となることで、クリスマスを取り上げるとき、再び考える。では、復活はどうなっている。それは実際にあったことを裏付ける証拠があるのか。

キリスト教の長い歴史の中で、イエスの復活がいろいろの形で議論されてきた課題だ。パウロがコリントの教会に書いた書簡にこの問題を取り上げて、こう書いた:「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(1コリント15:14,17)

しかし、どういう意味の「復活」か、議論の余地があって、「啓蒙時代」 以降、「霊的な復活」と定義して、「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」を区別して考える神学者が現れた。特に19世紀後半から20世紀にかけて、このいわゆる「リベラル派」と聖書の記述を文字通りに解釈する「保守派」の間に、亀裂が深まってきて、現在にも続いている。それぞれの陣営に様々な立場がもちろんあるが、大きく分ければ、超自然を強調する本来の聖書の世界観を取り入れる伝統的な「保守派」とそれを軽視する、自然主義の世界観に影響されている「リベラル派」という範疇に分離できる。現代のキリスト教の世界では、「リベラル派」が衰えているが、「保守派」がかなり伸びている。「保守派」に対しては、「福音派」や「原理主義派」(多くの場合、この呼び方は否定的、軽蔑的な意味合いがある)とも呼ばれるが、カトリックやプロテスタントの宗派的な違いとあまり関係なく、幅広い考え方がある。

まず、聖書そのものはイエスの復活をどう描いているか考えてみよ。例えば、復活の日、イエスが突然に弟子たちに現れた場面はこう書いてある。

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。(ルカ24:36-43)

恐ろしがっていた弟子たちはイエスの実際の復活を期待していなかった。一週間前に、群衆の大歓迎を受けて、エルサレムに入ってきた時の頂点に達していた期待感がそのすぐ後に十字架の死刑によってどん底まで突き落とされた。極度の困惑と恐怖におびえていた弟子たちはまたどう受け止めればいいか分からない体験をする。「うれしさのあまりまだ信じられず」と書いてあるように、次々起きるめまぐるしいできごとの意味を整理するために、やはり、時間がかかった。

では、歴史的に確認できる事実をまずリストしよう。第一にイエスの遺体が葬られていた墓が空っぽになっていた。イエスを死刑にした権力者たちはそれを認めていた。イエスの遺体が墓に葬られた後に、入り口が封印され、数人のローマ軍の兵士が24時間体制でその墓を監視していた。しかし、目撃証人によると、三日目の朝早く、地震が起こり、墓の入り口を塞いでいた大きな石が横に転がされ、どういうわけか、中にあったはずの遺体がなくなっていた。遺体がなくなっていたという事実はだれも認めざるを得なかった。権力者がその遺体を見つけて、噂を打ち消したかったが、できなかった。

そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。(マタイ28:12-15)

ローマの兵士が任務中寝てしまうことは厳しい刑罰を意味したが、こういう言い訳をするしかなかったと推測できる。しかし、例えば、弟子たちが実際にそうしたとすると、どうなるのだろうか。聖書の記録ばかりでなく、聖書以外の証言によると、その同じ弟子たちが拷問を受けても、その「陰謀」を諦める弟子は一人もいなかった。イエスを信じていなかった反対者でも、そこまでは認めていた。しかし、どう考えても、「嘘つきはやぶさかでない殉教者にはなれない」ということばは真実である。その上、学歴のない漁師などの力のない少人数の弟子が「嘘のために」当時の世界をひっくり返して、全世界の歴史の流れを変えたことは道理に適わないことだ。

空っぽの墓という事実と共に、だれでも認めていたもう一つの事実は,イエスの弟子たちがイエスの実際の復活を信じていて、大胆に述べ伝えっていたということだ。この事実を説明するために、いろいろ試みられたが、その「陰謀説」と共に、「気絶説」もある。つまり、十字架にかけられたイエスはまだ死んでいなかったことで、ただ、気絶していたということ。死亡を確認して、十字架から体を下ろした兵士が間違っていて、涼しい墓の中に入れられた後に、目が覚め、墓から出て、弟子たちに自分が甦ったことを説得できた。その後、どこかに消えて、復活したという伝説が発展していたと言う。言うまでもなく、このような説にいろいろの無理がある。重傷を受けた極度に弱っていた人間が墓の中から重い石を転がして、兵士たちを追い払って、そして、多くの人に自分が死から甦ったと騙したとすれば、それこそ「奇跡」だと言わざるを得ない。

もう一つの説は「幻覚説」で、弟子たちはイエスが甦ったという幻覚をみただけ、それを信じ切って、伝えたことを想定した人もいる。しかし、500人以上の人が同じ幻覚をみることがあり得ないことで、そうだと言っても、墓にまだあったはずの死体を取り出して、それは嘘だとできたはずだ。

このような説を立てて、言い抜けようとした試みがあるが、論理的に無理があるとだれでも解るはずだ。だから、残っている抜け穴として、話そのものがずっと後にできた伝説に過ぎないという「伝説説」だ。聖書に書いてある話はイエスの直接の弟子の後の時代の人たちによって、誇張された話だと想定する。来週の講義で新約聖書がどういうふうに出来上がったかを考えるが、要点は4つの福音書やその他の書簡が直接の目撃者がまだ生きている内に出来上がったことを裏付ける強い証拠があるということだ。事実と異なる伝説が発展して行くのに、普通は数世代交代が必要だ。例えば、聖徳太子に関する伝説が出来上がったのは本人の数百年後のことだった。しかし、イエス物語が固定した文書にできたのは早いものは十数年後で、一番遅くできたヨハネによる福音書は50年ほど後のことだった。これらの書物の写本がすぐ作られ、多くのところに広まって行ったので、そして、そういう古い写本が多く残っているので(一番古いのは2世紀初めで、完全な写本が3世紀からあり)、写している内に大きく変わったことがなかったと証明されている。

こういうわけで、100%証明できることではないが、その真実性を裏付ける多くの証拠があると言わざるを得ない。しかし、それはどう受け止めるかは個人個人の自由で、この授業の目的は人類の歴史を大きく影響したキリスト教はどういう宗教であるかを理解させ、なぜ、こんなに議論されてきたかを考えさせることだ。

Updated: 2012 年 02 月 17 日,04:16 午前

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