イスラエルの歴史の概観2

預言者の役割とメッセージの意味について考えて、イエスの到来のお膳立てをしたことを考える。

イスラエルに派遣された預言者

先週の講義でイスラエルの王国時代の歴史の概要を紹介した。今日の講義では、旧約聖書に記された神がイスラエルに派遣された数々の預言者のメッセージ、またイエスの到来に道を備えたことやできつつあった聖書の世界観の発展に与えた役割を考える。イスラエル民族が「約束された地」を征服した後、12の種族に領土を分け、それぞれの地域を作った。レビ族は皆祭司となったため、自分の領土を治めることなく、その代わりに他の種族から「十分の一献金」を受け取った。それで、12の領土に分配するために、ヨセフ族に二つの領土を彼の二人の息子に与えた。これで、象徴的に重要な「12」を継続できた。

イスラエルには最初から王がいなくて、「士師」と呼ばれていた指導者によって、統治された。「主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。」(士師記2:16-19)

聖書に述べられているイスラエルの歴史にはこのような状態が何度も繰り返された。主なる神から派遣された士師や預言者の働きによって、民はしばらくの間に神に従うように頑張ったが、次の世代になったら、だんだんと離れ、再び裁きを受けるようになった。士師の時代がしばらく続いたが、イスラエル民族が周りの国と同じような王国の政権を求めていたので、紀元前1020年ごろ、サウロという才能のある若者が最初の王として神の預言者サムエルに選ばれた。最初はよかったが、結局彼が「失格」となり、国民英雄となっていたダビデが次の王となって、イスラエルを繁栄させた。

若いときのダビデが社会的に位の低い「羊飼い」の仕事をやっていたが、神に喜ばれる心を持って、イスラエルと敵対していたペレシテ人の英雄であったゴリアトという「巨人」を石投げで倒してから、次の王となった。ダビデが絶対的な権力を握るようになってから、結局彼も誘惑に負け、大きな罪を犯したが、自分のプライドを捨て、謙遜になり、神の赦しを求めたので、立ち直ることができた。どういうことをしたかと言うと、ある男性の妻を見て、あまりにも美人であったため、彼女に一目で惚れた。結局、自分の妻に迎えられるように、忠誠を徹底していた彼女の夫が戦死するように、一番危ないところに派遣した。

その時、神の預言者はナタンという人で、主はナタンをダビデのもとに派遣した。ナタンはダビデに次のように語った: 「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い,小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み,彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに,自分の羊や牛を惜しみ,貧しい男の小羊を取り上げて,自分の客に振る舞った。」

ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」

ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』」(サムエル記下12:1-10) 注:一夫多妻制度は当時の文化の一部で、まだ禁じられていなかった。聖書物語の流れの中でそれが禁じられるようになったのは新約聖書時代からのことだった。

ダビデがナタンのことばに打たれ、主の前にひれ伏して深く悔い改めた。権力が自分の心を腐らせたことに気づき、その悪が自分の心から取り除かれるように、神の助けを求めた。この精神は聖書に登場するすべての「聖人」に見られることで、それぞれの聖書の人物のことが述べられている時、その人がおこなった偉大な働きだけではなく、その人がやってしまった過ちや失敗をざっくばらんに述べるのだ。これは他の宗教の聖典や他の国民的英雄物語に見られることと違う。しかし、イエス以外の聖書の人物は皆、その「信仰の模範」となっている「聖人」でありながら、その人が行なった悪や過ちをそのまま述べる。ダビデが行なった罪は、特に現代の基準から見れば、卑劣な犯罪でした。当時の他の民族の権力者がそのようなことをするなら、だれも文句を言わせなかっただろう。ナタンが言ったように、王の行動を非難したら、ただちに殺されたはずだ。イスラエルの歴史にはそういう悪の王もいて、正しいことを言った神の預言者を迫害した場合もあった。しかし、ダビデは違った。 ダビデは多くの詩を書いて、それらは聖書の「詩編」に含まれている。この話しに関連するのは51編で、その一部を読もう。ウリヤの妻バト・シェバを自分の妻にした罪に対して、自分の心境を次のように描いた:

【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】 神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって,背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い,罪から清めてください。 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し,御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく,あなたの裁きに誤りはありません。 わたしは咎のうちに産み落とされ,母がわたしを身ごもったときも,わたしは罪のうちにあったのです。 あなたは秘儀ではなくまことを望み,秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください,わたしが清くなるように。わたしを洗ってください,雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください,あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず,咎をことごとくぬぐってください。 神よ、わたしの内に清い心を創造し,新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず,あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ,自由の霊によって支えてください。… もしいけにえがあなたに喜ばれ,焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら,わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を,神よ、あなたは侮られません。(詩編51:1-15, 18-19)

エリヤとバアルの預言者

ダビデ王の120年ほど後に、アハブという非常に悪い王が登場する。彼と邪悪の妻イゼベルは本当の神を見捨て、「バアル」と「アシェラ」という「生殖力」の神と女神を拝むようになった。聖書の世界観を持っていなかった古代人は土地の産出力もこれらの神々の力によって決まると考えていた。こうして、これらの神々を崇拝して、豊作となるように、儀式を行ない、生け贄をささげた。どういう儀式かと言うと、子どもを生け贄として捧げることや神殿の中で性的儀式(売春)をも行なった。そこまでやれば、神々が答えなければならないと考えていた。バアルとアシェラは一人ずつという考えではなく、それぞれの地域は独自のバアルがその畑の産出力を司っていると考え、アシェラは女神であるのに、シムボルとして男性の性器を象徴する木の柱をバアルの祭壇の横に建てていた。その柱は同じ「アシェラ」と呼ばれていた。アハブとイゼベルが「ヤーウェ」(イスラエルの神)に捧げていたはずの神殿の中にもバアルの祭壇とアシェラの柱を建てた。この行いを抗議するために、主なる神(ヤーウェ)が預言者エリヤを派遣した。これで、以下の劇的シーンが起こった。

オバドヤはアハブに会って知らせたので、アハブはエリヤに会いに来た。アハブはエリヤを見ると、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」と言った。エリヤは言った。「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」

アハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。

エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたたちは大勢だから、まずあなたたちが一頭の雄牛を選んで準備し、あなたたちの神の名を呼びなさい。火をつけてはならない。」彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。

エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。(列王記 上 18:16-39)

このようにして、神が再びイスラエル民族に自分が本当の神であることを証明した。そして、世代交代が起きているうちに再び、イスラエルの民が前と同じような状態に陥ってしまう悪循環が繰り返された。

アモスの預言

エリヤより更に100年ほど後に(紀元前760〜750年)、アモスという預言者が活躍した。彼はイスラエル(また、周りの国にも)神からの裁きのことばを伝えた。特に不正な行為や無慈悲なことを嘆いて、警告を発した。例:「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通いわたしの聖なる名を汚している。」(アモス書 2:6-7)

このような不正行為の故に、イスラエルの裁きの日が近づいていることを警告した: わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、わたしは受け入れず肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。

イスラエルの家よ、かつて四十年の間、荒れ野にいたとき、お前たちはわたしにいけにえや献げ物をささげただろうか。今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。わたしは、お前たちを捕囚としてダマスコのかなたの地に連れ去らせると主は言われる。その御名は万軍の神。(アモス書 5:21-27)

この裁きが30年ほど後に、現実となった。紀元前722年にアッシリアの軍隊に征服され、北の王国、イスラエル(10の種族)が滅亡し、その人たちの多くが連れ去られた。彼らの子孫が「失われた10部族」となり、多くの伝説を生み出した。その中で、シルクロードの貿易商人となって、日本まで辿り着いた説を裏付ける多くの証拠がある。

イザヤの預言

イザヤは南王国のユダの預言者で、北の王国が滅亡した数年前から、紀元前681年まで活躍した。イザヤ書は預言者が書いた書簡の中で、一番長く、イザヤが一人で書いたかどうか学者たちが長い間議論されてきた。多くの聖書学者がその文書の内面的な証拠を指摘して、元々は三つの書簡で、イザヤ自身が書いたのはその一つだけだったと推測されている。しかし、そうではないと反論する学者もいて、どちらが正しいかの決定的な証明はない。死海書簡の中に、紀元前2世紀に作られた完全な原稿があり、そのような分け方があったことを示す形跡がないが、それでも元の原稿の500年ほど後のことで、それは決め手とならない。しかし、イザヤ書の終わりの方が別な預言者の手によって書かれたとしても、早いうちに統合したに違いない。というのは、形が整えてから、後世の写本筆写者が忠実にコピーを作って行った。

その議論を別として、イザヤのメッセージは聖書の他の預言者と同じく、主なる神に背くことは、悔い改めがない限り、裁きを招くことだということだった。しかし、その上に、未来に対する預言(予言)をもした。それは特に「約束されたメシア」に対する預言が記されている。その中で、一番よく知られているのは53章だ。 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように,この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も,好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ,多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し,わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病,彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに,わたしたちは思っていた,神の手にかかり、打たれたから,彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは,わたしたちの背きのためであり,彼が打ち砕かれたのは,わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって,わたしたちに平和が与えられ,彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ,道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて,主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み,彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように,毛を切る者の前に物を言わない羊のように,彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか,わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり,命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず,その口に偽りもなかったのに,その墓は神に逆らう者と共にされ,富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ,彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは,彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見,それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために,彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし,彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで,罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い,背いた者のために執り成しをしたのは,この人であった。

これらの不思議なことばは「苦しむメシア」を描いている。しかし、約束された救い主に対する他の多くの預言は栄光のある勝利者のイメージを与える。外国の支配に苦しんでいたユダヤ人たちはこの理解に苦しむ「苦しむメシア」のイメージを避けて、そのもう一つのイメージを強調した。こうして、一般的に期待されていたメシアは外国による支配から解放し、強い、独立した国を取り戻すように導いてくれる勝利者のことだった。イエスの時代になったら、まさに、その期待が高まり、来るべきメシアがローマを追い出す軍事的なリーダーとして描いていた。

しかし、新約聖書に示されているように、イエスはそのような期待に応えるものではなく、イザヤ書に描かれている「苦しむメシア」として来た。その「栄光に輝く勝利者」としてのもう一つの姿は歴史の頂点である「再臨」の時のことだと教える。そのいわゆる「終末論」は来週の抗議に取り上げる。

イザヤ書53章は「わたしたち」の身代わりとなって、刑罰を受けてくださる神のしもべを記述する。これはイエスより700年ほど前に書かれた預言だったが、イエスの十字架上の死によって完璧に成就された。「彼が刺し貫かれたのは,わたしたちの背きのためであり,彼が打ち砕かれたのは,わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって,わたしたちに平和が与えられ,彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」そして、「多くの人の過ちを担い,背いた者のために執り成しをしたのは,この人であった。」

イエスの十字架上の犠牲を預言するもう一つのよく知られたことばはダビデ王が書いた詩編22編だ。最初のことばはイエスが十字架にかけられた時、言われたことばだったと記されている。

わたしの神よ、わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず,呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ,昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし,イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み,依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され,あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い,唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら,助けてくださるだろう。」(詩編22:2-9)

わたしは水となって注ぎ出され,骨はことごとくはずれ,心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり,舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み,さいなむ者が群がってわたしを囲み,獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを,彼らはさらしものにして眺め,わたしの着物を分け,衣を取ろうとしてくじを引く。(15-19) これらの不思議なことばは見事に十字架という死刑方法をローマ軍によって発明された何百年も前に描写する。もちろん、ダビデがこの詩を作詞したのは本人が苦しい経験をしていた時だったが、1000年以上も後の自分の子孫であったメシアが経験したことをも描いている。十字架に張り付けられる死刑囚の手足が獅子の鋭い歯に刺され、砕かれると同じように、釘で刺される。また、書いてある通り、死刑囚の「骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」 そして、イエスが十字架にかけられた時、「彼を見た人皆、わたしを嘲笑い,唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら,助けてくださるだろう。』」これを新約聖書に書いてあることばと比較しよう。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。(マルコ15:29-32)

永遠に残る王国

「苦しむメシア」と対照的に、「約束されたメシア」に対する多くの預言は「ダビデの王座」を取り戻す「栄光に輝く勝利者のメシア」を描く預言もある。二つの例を取り上げよう。一つはダニエルという預言者が幻の中で見たことを述べるところ:

夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え,彼の支配はとこしえに続き,その統治は滅びることがない。(ダニエル書 7:13-14)

もう一つはイザヤ書にある有名なことば:

闇の中を歩む民は、大いなる光を見,死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり,人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように,戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴,血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神,永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し,平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって,今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9:1-6)

イエスの時代に、このような預言が強調され、ローマ帝国のもとに苦しんでいたユダヤ人はメシアが来たら、ローマを追い出して、約束された「永遠に残る王国」を築き上げることを強く願望していた。奇跡を起こすイエスがエルサレムに入った時、大群衆が彼を歓迎し、大声で叫んだ:「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マルコ11:9-10)

しかし、イエスが来る目的はそういうことではなかったので、その期待に応えなかったため、失望した群衆の多くが権力者に煽られ、十字架上の死刑を求めるようになった。

この壮大なドラマがキリスト教の布教によって、多くの国に知られ、いろいろの形で多くの文化に影響を与えた。西洋文化は特にそうで、最後に先ほど読んだイザヤ書のことばがそのまま、宗教音楽の歌詞となったヘンデルの「メサイヤ」(メシア)から。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。」For to us a child is born, to us a son is given, and the government will be on his shoulders. And he will be called Wonderful Counselor, Mighty God, Everlasting Father, Prince of Peace. (Isaiah 9:5)

Updated: 2012 年 02 月 17 日,04:11 午前

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