古代の創造神話の中での創世記物語

聖書の基礎である創世記の天地創造物語は古代世界に存在していた数多くの創造神話とどう違うか、また、現代に生きる私たちにとって、どういう意味があるか考えてみる。また、聖書は宇宙の起源、生命の起源、人間の起源をどう説明しているか、そして、それは現代の世の中に強く影響する科学の誕生と発展とどう関わっているかを考えていく。

創世記1章 1.初めに、神は天地を創造された。2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

第一の日

3.神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4.神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5.光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

第二の日

6.神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」7.神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。8.神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

第三の日

9.神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。10.神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。11.神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。12.地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。13.夕べがあり、朝があった。第三の日である。

第四の日

14.神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。15.天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。16.神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。17.神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、18.昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。19.夕べがあり、朝があった。第四の日である。

第五の日

20.神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」21.神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。22.神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」23.夕べがあり、朝があった。第五の日である。

第六の日

24.神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25.神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26.神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27.神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28.神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29.神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30.地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31.神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。2章1.天地万物は完成された。

第七の日

2.第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。3.この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。4.これが天地創造の由来である。

この創造物語の内容を解説する前に、「古代の創造神話の中での創世記物語」を考えるために、まず他の代表的な物語と比較しよう。これは北ヨーロッパに伝わった伝説で、http://www.ffortune.net/symbol/sinwa/sinwa/ sin030.htmというウェブサイトに、他の古代神話といっしょに掲載されている。それぞれの地域の創造神話には、多くの違いがあるが、共通する不現実性がある。

何もない世界にギンヌンガの淵があった。その淵の北には氷と雪に覆われた霧の国ニフルヘイム、南には猛火の燃える炎熱の国ムスペルヘイムがあった。淵の底にはエリヴァガルという川が流れていた。ムスペルヘイムから熱風が吹いて来てニフルヘイムの氷雪の壁に当ってその氷をとかし、水がギンヌンガの淵に落ちたが、その水はニフルヘイムから吹いてくる寒風で凍り付き、これが何万年も繰り返されている内に巨大な氷塊になった。そこに熱風が吹き付けている内、氷塊に生命が宿り巨人ユミルが出てきた。

巨人ユミルが食べ物を探していて融けた氷の中から牝牛アウドムラが生まれた。彼がその乳房から乳をたっぷり飲むと汗をかき、両脇の下から男女の巨人、股の間からは頭の6つある巨人が生まれた。これが霜の巨人族である。アウドムラも何か食べたいと思って塩気を帯びた氷をなめていた。すると氷の中から1日目に髪、2日目に人間の顔が現れ、3日目には全身が現れた。これがブリで、その息子がボル、そのボルが巨人族の娘ベストラと結婚してオージン・ヴィリ・ヴェーの3兄弟が生まれた。

三兄弟は協力してユミルを倒し、その巨大な体をギンヌンガ淵の真ん中に据えて大地とした。血が流れ出て海や湖になり、骨や歯が山脈や岩に、毛は森林となった。頭蓋骨は空に投げ上げて空の丸天井にし、脳味噌が雲になった。この時血の洪水で巨人族は一組の夫婦を除いて絶滅したが、その夫婦から新しい巨人族がうまれ大地の果てに住みついた。ユミルの体が腐ると中からウジのようなものが出て来て、小人族のはじまりとなった。世界はまだ暗かったのでムスペルヘイムから飛んでくる火花の大きいのをとって太陽と月とし、小さいのを星にして空にばらまいた。

ある日オージンたちが海辺を歩いていると2本の木が流れついた。彼らはそれを自分たちに似せて刻み命を吹き込んで人間を作った。堅い木アスクから男が、柔らかい木エンブラから女が作られた。人間は大地の中央ミッドガルトに休ませた。

巨人を解体して世界が作られたという神話は世界各地にあるが、北欧のものはその代表的なもののひとつである。

この代表的な神話を創世記と比べれば、根本的に違うということがすぐわかる。まず、北欧の神話には、「巨人ユミル」が「自然に」氷から出てきた。すでに存在していた神が創造したということがどこにも見当たらない。共通する点は世が初めに混沌した暗い世界だっただけだ。それ以外の意味のある共通点が見当たらない。

では、創世記をもっと詳しく考えよう。これはどういう物語だろうか。まず目につくのは、詩的な文書であること。同じパターンを取ること。「神は言われた」…何々が「そのようになった。」「神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第…の日である。」創造の働きがこのように6つの「創造の日」の内に行われ、その「七日目」に神が創造の働きから「休み」を取っている。

創世記1章の解説

多くの人がこの文書を単純に読んだら、天地の始まりに、神が最初に創ったのは光だと考える。「昼」と「夜」を区別することは一日目の仕事だと理解する。そして、その次に、海の水の空の水を分けて、「大空」を造った。それがどういう意味であるか、またなぜ必要であったかは普通に読んだら、あまりよく分からない。そして、次の日に、陸地を造って、植物を生えさせた。しかし、それは単純な草だけではなく、「果樹」をも造った。これと共に、我々現代人がおそらく一番引っかかる箇所は「第四の日」の出来事だろう。一日目に昼と夜を分けたのに、太陽を造るのは四日目まで待ったと書いてあるように理解する。どう考えてもこれはナンセンスに見える。そのまま受け取るなら、太陽がまだ存在していないときに、地球上にその太陽を必要としている植物が存在していたということになる。科学的に考えれば、これはナンセンスだ。そして、第5と第6日にいろいろの動物、そして、最後に人間を創造したと書いてある。

このように、自然界の記録に見える出来事の順番がかなり違っているという問題の他に、現代の「創造論者」が考えている時間の長さの矛盾もある。それは、「神のみ言葉」が断言するのは、天地創造が「六日間」の内に行われたので、それは144時間という意味だと主張する。そして、創世記にある系図から単純に計算して、地球が6000年ほど前に造られたと言う。この解釈が初めて現れたのは、16世紀で、アッシャー大司教は天地創造が紀元前4004年に起きたと断言して、その後のキングジェームズバイブルに、創世記1章の欄外に載せるようになった。こうして、「定説」となってしまい、科学的知識が広まっている現代社会には、聖書をあざけて、否認する理由となってきた。

では、この解釈はどう評価すべきか考えてみよ。まず、著者(モーセ)が原文を書いたとき、また、それを読んだ当時の人間はどういうふうに理解したかを考える必要がある。そうするために、元の言語であったヘブライ語の特徴を知る必要がある。これには、いくつものポイントがある。第一に、「第一の日」と翻訳されたことばのニューアンス:「ヨーム」(Yowm);辞書によると、幅広い意味:「日の出から日没まで(〜12時間);日没から日没まで(24時間);ある期間(前後関係のことばによって定められる);時代;太陽日と関係のない一定の期間。」明らかに24時間という普通の意味の一日に限っていない。「時代」と意味する他のヘブライ語の単語はなかったので、長い期間という意味を伝えようとしたら、それでも「ヨーム」しかなかった。前後関係で判断するしかない。実は、次の創世記2章で、その創造の「六日間」の期間全体を同じ単数の「ヨーム」で言い表すので、明らかに24時間ではないし、天地創造に関する他の聖書の箇所に、長い期間をほのめかす。「何百万年」というような意味の「一日」という理解はその当時もちろんなかったはずだ。聖書は科学の「教科書」ではないし、そのつもりで書いたはずがない。しかし、次のように考えることができる。もし、この内容が本当に天地創造の神によって与えられたものだとすれば、自然界を造った同じ神が自然界の記録に残した情報と両立できるはずだ。果たして、それができるだろうか。

では、元のヘブライ語の意味を考えながら、それが可能かどうか考えてみよ。1.「初めに、神は天地を創造された。」「天地」と翻訳されたことばはシャマーイム(複数形の天)エレツ(地)という複合単語で、その「天地」という組みは宇宙全体を意味する。つまり、物質的な世界。そして、「創造された」と翻訳された単語は「バラ」で、根本的に以前に存在していなかった新しいものを創るという意味だ。(もう一つの単語、アサーは既に存在している材料から、何かを作るという意味。)聖書の他の箇所と合わせたら、聖書が教えているのは、時間の始まりと共に、神が全くの無から宇宙全体を創造したという意味になる。100年前の科学は、宇宙が永遠から存続するものだと考えていたが、現在の「ビッグバン論」はこの点において、聖書の教えと合致する。

2節:「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」2節に入ると、宇宙全体から、地球の表面に移る。それによると、地球全体が水に覆われて、光がない暗闇の混沌した状態。現代の天文学によると、地球が形成された45億年前に、できたばかりの太陽の光が地面に到達できない、厚い雲に覆われていた水の世界だった。これはどの地球型の惑星が形成するときの状態だ。だから、この点にも矛盾しない。しかし、もっと大事なポイントは「神の霊が水の面を動いていた」という文句だ。これにもいろいろの意味合いが含まれているが、その一つは神が海の中に何かの活動をしていたということだ。それは生命を誕生させていたと解釈できるが、それはもちろん推測だけだ。そして、最も重要なポイントは、それ以降の記述がどの立場から考えればいいかということを教える。それは地球(海)の表面から。そういう点に気が付かないとそれ以降のできごとが空の上の視点から記述されていると解釈してしまう。それがなぜ重要か、以下のことで分かる。

第一の日:「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」「あれ」と翻訳された「ハヤー」は「現れる」という意味で、「創造する」という意味ではない。だから、地球の表面から認識できるようになったという解釈が成り立つ。科学的に考えれば、原始地球を覆っていた、光を完全に遮った塵やガスが徐々に薄くなり、大気が半透明となったはずだ。こういうふうに解釈すれば、矛盾がなくなる。

第二の日:「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。」地球の面という視点から考えれば、地球を覆っていた海の面と上にある雲の下と分けられて、視界が開かれる意味となる。原始地球の状態を考えれば、水温がまだ高い海の上に、濃い霧がかかっているという状態から、徐々に霧が上がり、安定した水循環が出来上がる。もちろん、創世記のことばから「水循環」は直接に読み取れないのだが、「大空の下」の水(海)と「大空の上」の水(雲)を分けるという表現は科学的な事実と矛盾しない。

第三の日:「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」つまり、そのときまで存在していなかった陸地が海から押し上げられるようにさせた。地球の場合、最初に火山が一時的に海から顔を出すことが早いうちにあっただろうが、長期的に存在する陸地が出来上がるのは何億年後のことだった。しかし、このところでは、一番の問題点は「種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」ということばだ。「種」と翻訳された「ゼラ」は「木、草、また他の植物の胚芽」という幅広い意味で、すべての植物に当てはまる。そして、「実」と翻訳された「ペルイー」は「生物が作る栄養分また胚」という意味で、同じようにすべての生物に当てはまる。また、「果樹」と翻訳された「エツ」は「植物繊維のある植物」で、木に限らず、雑草などをも含む。現代の目で、その文書を読むと、すぐ「リンゴの木」などをイメージするが、原始大陸にあった植物にも当てはまることばだ。だから、これも必ずしも矛盾ではない。

第四の日:「14.神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。15.天の大空に光る物があって、地を照らせ。』そのようになった。16.神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。17.神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、18.昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。」これは一番の難問だ。まず、「第一の日」の光と同じく、「あるようになれ」と翻訳されているのは「ハヤー」で、現れるように(見えるように)という意味で、そのときまで、存在していなかったものを創造するということではない。しかし、16節に、「神は二つの大きな光る物と星を造り」と書いてあるので、一般的の翻訳で読むと、そのときに神が創造したという印象を受ける(英語もそうだ)。しかし、元のヘブライ語はこの点において曖昧。というのは、英語と日本語と違って、動詞の自制には3つしかない:未完成自制、完成自制と命令形だけだ。ここでは、完成自制で、既に創り終わっていたことを意味する。それはいつだったか示されていない。その「第四の日」の内にという意味に限らない。ただ、これらの天体は以前に神によって造られたものだったという意味だ。そのタイミングについては、言及されていない。しかし、それは1節にほのめかされている。即ち、「初めに」、地球が形成される前に。2節に書いてあるように、それ以降の記述は地球の表の視点から描写されるので、そのときまで、直接に見えなかったという解釈が成り立つ。

これは自然科学の立場から言えば、光を通す半透明の大気は下等生物には十分だが、複雑な体内時計を持つ高等動物が存在するなら、その体内時計を調整するために、太陽などの天体の位置を時として確認する必要がある。だから、大気が少なくとも部分的に晴れる必要がある。「季節のしるし」となるのはそういう役割を果たすことで、その時まで、半透明であった大気が透明となり、地上から天体が初めて見えるようになったと解釈できる。この解釈が正しければ、自然界の記録との矛盾が消える。

第五の日:この時代に「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。」自然界の記録の研究から得た知識のある私たち現代人の目から見れば、恐竜などの陸上動物が言及されていないことはおかしいと思われる。例えば、恐竜のことなら、その存在が人類に初めて知られたのは150年ほど前のことで、聖書にそういう言及があったとしても、それ以前の人間は意味が分からなかっただろう。聖書は全ての時代と文化の人間のために神から伝えられた文書だとすれば、どの時代の人間が十分に理解できるように作られたはずだ。

もう一つの点は六つの「創造の日」の配列に有意義な詩的関係があるということ。要するに、1〜4、2〜5、3〜6。第一の日は光が地上に出現させ、第四の日にその光の源となる天体が見えるようになった。第二の日に大空と海がはっきりと分けられて、第五の日に、その海の中に泳ぐ生物と空を飛ぶ鳥が登場する。そして、第三の日に陸地の出現が述べられて、第六の日にその陸地を生息地として生活する陸上動物と人間の創造が述べられる。こういうわけで、それぞれの創造の日に造られたものが全部言及されるのではなく、この詩として読まれる天地創造物語にとって、重要なことだけ言及される。その上、それぞれの日に取り上げられる被造物はその創造の日に限るという必要性もない。例えば、下級脊椎動物の大部分は「第五の日」に造られたが、多少のものは「第四の日」と「第六の日」にも現われた可能性もある。

第六の日:この時代に創造の頂点となる人類の創造と人間に密接な関わりを持つ動物の創造が述べられる。24.「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25.神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。」24節に「生き物」と翻訳された「ネフェシュ」というヘブライ語は「魂」(心、意思と感情)を持っている動物を意味する。人間だけが神にかたどって造られたもので人間だけが「霊」を持つ。従って、霊である神と交わることができるのは人間だけだ。しかし、「ネフェシュ」の動物(哺乳類と鳥)は「肉体」しかない動物(例:昆虫、魚など)と違って人間と関係を持てる。即ち、人間に愛着を示し、訓練される動物だ。ここでは、直接に言及されたのは「家畜」と「這うもの」と「地の獣」という三種類の「ネフェシュ」の動物で、いずれも哺乳類なのだ。「家畜」は明らかに飼いならしやすい哺乳類で、牛や馬などのこと。「地の獣」も分かりやすいことばで、飼いならしにくいライオンや熊のような野生動物という意味である。しかし、「這うもの」はどうだろうか。蛇や昆虫とイメージする人は少なくないが、それに限らない。「ネフェシュ」魂のある動物であるので、この場合、ねずみやうさぎのような足の短い哺乳類動物を意味する。どちらにせよ、これらは人間と密接な関係を持つ動物を示している。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。...すべてを支配させよう』」。注:「我々」という表現は唯一の神には複数性もあると意味する。この初めに矛盾するように見える教えは聖書に示されている「三位一体」のことだ。「神にかたどる」や「神に似せる」ということはおそらく人間の道徳性を意味する。また肉体と魂(心、意思と感情)と霊という人間の「三位一体」と関係しているかも知れない。神が命の息を吹き入れられた(創世記2:7)この「霊を持つ人間」は科学的に言えば、現代人だ。こういう意味で、人間は現代人の前にいたヒト科の動物を含むほかのすべての動物と根本的に違う。即ち、神にかたどって造られた霊があるので、人間には以下のものがある:1)内面的な道徳律、また良心を持つこと、2)自分の死と死後の存在に対して関心を持つこと、3)人間より優れている存在(神)を意識すること、4)その上の存在者と関係を持ち、拝みたい気持ちを持つこと、と5)基本的な真理を求める能力があること。無理やりに抑えない限り、すべての人間がこれら、また他の霊的な特徴を持つ。

 「第六の日」の出来事に関する他の重要なポイントは先週の講義で触れた「すべてを支配させよう」ということばも含まれる。これは「搾取してもいい」という意味は決してないし、それと逆で、人間の幸福と繁栄のために、自然界の資源が与えられていることで、それを上手に管理することは人間の責任であることを教えている。 創世記1章の最後のことばに注目しよう。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」その時まで、それぞれの創造の日の締めくくりとして、「神はこれを見て、良しとされた」と書いてある。しかし、人間をご自分にかたどって造られて、天地万物を管理するように命令した後に、「良かった」だけではなく、「極めてよかった」とさらに強調する。天地万物は神が定めた目的に達するために、ちょうど良い形となっていることを意味をする。

創世記2章に入ると、その最初のことばは1章に述べられている天地創造物語の延長で、4節前半までは、1章とされたことばに属している。(章と節の区分けは中世期に付け加えられたもので、原文にはなかった。)それは創造の一週間の最後の「日」となる。

第七の日

「2.第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。3.この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。4.これが天地創造の由来である。」天地創造の七つの「日」は全人類が使っている七日間の一週間の由来だ。自然界のサイクルとして、一日、一ヶ月や一年という周期があり、それが共通するのは当然。しかし、一週間という区切りは自然界に存在する何かの周期的なことに基づいているのではなく、やはり、古来から伝わった伝統だけで、聖書に触れたかどうか関係なく、記録が存在する初めから全世界に広まっていることはこの同じルーツにある他はない。 次の話しに入るつなぎのことばとして、「主なる神が地と天を造られたとき」と翻訳されているが、元のヘブライ語では、「とき」ではなく、「地と天を造られた日に」(ヨーム)と書いてある。つまり、全期間を単数の「日」として述べているので、これも「創造の日」は24時間の日ではない証拠となる。その上、「神の安息日」が現在にも続いていると直接に書いてある聖書の箇所があるので、明らかに長い期間を意味する。(例:ヘブライ人への手紙4章)

以上の創世記1章の解釈は今まで出された仮説の中での一つに過ぎない。というのは、聖書解説者や神学者の中に違う解釈を持つものがいる。だから、絶対的なことではない。しかし、道理にかなうもので、現代科学と両立できる解釈だから、紹介した。重要なのは、創世記の天地創造物語は人類にとっては極めて重要で、歴史の流れに大きく影響した文書であること。そして、この聖書の始まりのことばとして、どう理解すべきか長い間議論されてきたもので、その理解によって聖書全体の捉え方も大きく左右される。聖書を批判して、創世記を単なる「神話」として片付けようとすれば、そういうふうにも解釈できる。しかし、真理を本当に求めようとすれば、そのような偏った見方ではなく、偏見のない開いたこころを持って、そして、元のヘブライ語のニュアンスを理解した上、考えて行けば良いと思う。

創世記2章の「エデンの園」物語

1章は肉体的な創造を中心とする話しと理解すれば、2章はその創造を霊的な立場から考えることばとして理解できる。

「主なる神が地と天を造られたとき、5.地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。6.しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。7.主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8.主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9.主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。10.エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。11.第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。12.その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。13.第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。14.第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。15.主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16.主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17.ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」18.主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」19.主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。20.人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。21.主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。22.そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、23.人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」24.こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。25.人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」

エデンの園

この物語は「東の方のエデン」という場所に起きたとされている。それはどこにあるかは定かではないが、イスラエルの立場から言えば、現代のイラク近辺と思われる。4つの川が合流する場所のようで、チグリスとユーフラテスは現代の地名として使われている。現在の川と同じ意味であれば、その二つ共、ペルシャ湾に流れ込む。他の2つの川、ピションとギホンの現在の地名は確かではないが、この二つもペルシャ湾に流れ込む別名の川の可能性がある。面白いことに、現代人が出現した5万年ほど前は氷河期時代で、水位が現在より数十メートル下にあったため、現在のペルシャ湾の大部分は陸地だった。エデンはその場所であれば、その四つの川が合流する場所は実際にあったかもしれない。「10.エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」これを読むと、地下水が湧き出て、4つの川に分かれて行くように見える。それは特に、6節にそこが湧き水が出るところだったと書いてあるからだ。しかし、その湧き水と4つの川の直接の関係は言及されておらず、流れそのものは逆の方だった可能性もある。普通に考えたら、4つの川が合流して、一つの川となるのは自然で、そういう意味かもしれない。

物語の内容によれば、エデンは砂漠地帯で、川の水と湧き水とによって潤された。「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。」「地上」と翻訳された「エレツ」というヘブライ語は多くの場合、限定された地域という意味で、この場合、エデンの地域という意味だ。その砂漠に神が楽園を造り、人間をその「土」から創造する。「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」という日本語に元のヘブライ語のごろ合わせを指摘している。「アダム」という名前自体は「土」と意味する「アダマ」から由来し、特定の人間の個人としての名前よりも、「人間」そのものの意味だ。面白いことに、19節によると神が動物たちをも「土で形づくり」と同じ表現で描く。これにも深い意味がある。肉体的な意味で、人間と動物は同じ「土」で造られているが、根本的に違うのは、人間だけに神が「その鼻に命の息を吹き入れられた。」これはやはり、「神にかたどって造られた」霊魂のことだ。

アダムの訓練期間

アダムが造られてから、彼に与えた最初の仕事は「庭作り」だった。「15.主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」その独りぼっちの生活はどのぐらい続いたかは書いてないが、「人生はこれだけではないはずだ」と感じさせるまでのことだっただろう。その後に、「18.主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』19.主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」庭作りだけのレベルでは、自分との感情的な関係を持つことができる存在はなかった。これで、動物をアダムのところにつれてきて、「飼育係」の仕事をさせた。高等動物の場合、下等生物ができない、特定の人間との関わりを持つことができる。しかし、これも不十分だと気付くことになった。20.「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」これはもちろん、神がアダムの教訓として利用したことで、計画の一部だった。問題の解決として、「自分に合う助ける者」として、女を創ることにした。21.「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。22.そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、23.人は言った。『ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』」

アダムにとって、長い間に待ち望んでいた「自分に合う相手」がついに与えられた。ヘブライ語では、男(イシュ)と女(イシャー)は深い関係のあることばで、日本語の翻訳にそれが示されている。そして、その結果として、キリスト教の結婚式で読み上げられることばが締めくくりとして、書いてある。24.「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

エデンの園の中心にあった二つの木

9節によると、神は「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」「命の木」は3章にまた登場するが、「永遠の命」のシンボルとなっている。(また、聖書の最後の本である黙示録にも、「新しい天と新しい地」に同じ意味の象徴として出てくる。)そして、もう一つの木、「善悪の知識の木」も3章の「人間の堕落」の話に中心的な役割を果たす。それは「神のようになりたい」、「自分自身が自分の『神』になりたい」気持ちを表す。要するに、自分の創り主から独立して、神と関係なく、自分の人生を自分で決めて行く気持ちを表す象徴だ。人間はこの誘惑に負けて、神の命令に従わないことを決めてしまったことを意味する。

聖書の世界観の基盤となるこの天地創造物語は人類の起源をこういうふうに説明して、聖書全体に述べられている、人間の問題に対する神の解決策のお膳立てをする。

Updated: 2012 年 02 月 17 日,04:03 午前

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