聖書の全体的な概観

「旧約聖書」と「新約聖書」の関係とそれぞれがどういうふうに出来上がったかを探る。また、聖書全体の流れの概要とキリスト教の世界観、人間観、自然観や倫理観について、聖書から考察する。

世界のベストセラー

聖書は不思議な本だ。他のどの本よりも、印刷された数が遥かに超えているもので、翻訳の数も遥かに多い。現在、まだ使われている言語の数が何と、6848あり、その中で、聖書の少なくとも一部が5321のことばに翻訳されている。聖書全体は451のことばに翻訳され、その上、新約聖書全体は他の1168の言語への翻訳が完成されている。さらに、現在進行中の翻訳プロジェックトは2000ほどある。その次に最も多くの言語に翻訳されたものは国連の「世界人権宣言」で、375以上の翻訳があり、少しずつ増えている。しかし、聖書に比べたら、それは遥かに少ない数で、明らかに、聖書は他のどの書物より抜きん出て、格別のものである。

本数に関しても、同じことだ。世界中に年間1億冊ほど販売されている。1456年にグーテンベルクが印刷機を発明して、最初の印刷された本として、聖書を印刷した時から、現在まで、およそ78億冊が印刷されてきた。その上、現在では、インターネットを通して、多くの国や地域のことばで、聖書を読んだり、研究したりすることができるようになってきた。

聖書の構成と歴史の概要

聖書という「本」は普通の本と違って、一人の著者によって、書かれたのではなく、異なる時代に生きていた、様々な文化的背景を持つ多くの人物によって書かれた書物なのだ。最初に書かれた文書から最後の文書まで、およそ1500年の時が流れ、三つの大陸をまたがる国々に生きていた40人ほどの執筆者によって書かれた66書の収集書物だ。最初の39は「旧約聖書」と呼ばれている部分を構成するもので、ユダヤ教とキリスト教が共通する聖典だ。(もちろん、ユダヤ教では、それは「旧約聖書」と呼ばない。それはキリスト教の立場からの呼び方だ。その上、ユダヤ教では、それぞれのの編集された順番も違うが、内容は全く同じだ。)残りの27は「新約聖書」と呼ばれ、イエスの弟子によって書かれた「福音書」や初期の教会への手紙などによって構成される。

ユダヤ教の聖書(旧約聖書)の大部分はヘブライ語で書かれ、残りはヘブライ語に近いアラム語で書かれた。最初の五つの本は「トーラー」(律法)と呼ばれ、モーセによって編集された文書だと言われている。(自分の死を書き記したのではないとだれでも認めるので、少なくてもそれが後の人物に付け加えられた文書だ。どれほどの文書がそのように後世の編集者によって形作られたのは専門家が議論するところだが、少なくはないと一般的に考えられている。)その残りは「預言」(予言と違う)と「著述」(writings)と呼ばれている。

「聖書外典」

これらの旧約聖書の書物の中で最後に書かれたのはマラキ書で、紀元前450年頃だったと推定されている。こういうわけで、旧約聖書と新約聖書の間に、500年ほどの時間が流れた。その間に、「約束されたメシア」を待ち望むイスラエルの歴史が続いたが、どういうわけか、以前と同じように預言者を派遣しない神の「沈黙」が長い間続いた。しかし、聖書の書物と似たような書物が書かれていなかったわけではない。実は、「聖書外典」と呼ばれている14編があり、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳して出版した「新共同訳」聖書に「旧約聖書続編」として、旧約と新約聖書の間に挟んである。これらの本は同じ権威のある「神のみ言葉」として認められてはいないが、読む価値のある文書として、聖書に含まれている。

「70人訳聖書」

紀元前3世紀から2世紀にかけて、エジプトのアレキサンドリアに住んでいたユダヤ人の学者たちが聖書をギリシャ語に翻訳した。(多くのユダヤ人がイスラエル以外の場所に住んでいて、日常生活では、ギリシャ語を使っていた。)この訳は70人が翻訳に貢献したことから「70人訳聖書」と呼ばれるようになった。元のヘブライ語の聖書が使っていた伝統的な聖書配列をも変えた:歴史(創世記〜エステル記)、詩(ヨブ記〜雅歌)、預言者(イザヤ書〜マラキ書)。この配列を受け継いで、キリスト教の旧約聖書をこの順番にした。

新約聖書

新約聖書は「70人訳聖書」と同じく「コイネー・ギリシャ語」で書かれた文書だった。「コイネー・ギリシャ語」はアレクサンドロス大王が帝国を築き、ヘレニズム文化と一緒に広めたことばで、地中海東部の共通語となった言語だ。(古代ギリシャ文明の時代に使われていた古典ギリシャ語と多少違っていた。)執筆者の中で、母国語としてギリシャ語を話せたのはおそらくパウロとルカだけで、その他の人物の母国語はイエスと同じくアラム語だった。

内容的に、イエスの教えと行動を述べる4つの「福音書」、初期の教会の歴史を述べる「使徒言行録」、パウロやその他の指導者が書いた手紙、そして、多くの象徴を使う「黙示録」で構成されている。マタイによる福音書とヨハネによる福音書はイエスが選んだ12人の弟子によって、直接の目撃者として証言した記録で、マルコは教育の殆ど受けていなかったペテロの秘書としてペテロの目撃証言をまとめたものとして考えられている。そして、もう一つの福音書は医者であったルカというギリシャ人が多くの目撃証言とパウロの側近としての自分の経験に基づいて、「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を一つのセットとして書いた。締めくくりとなっている「ヨハネの黙示録」はイエスの弟子ヨハネであったかどうか議論されているところだが、紀元後90年ごろに書かれた文書で、最後の文書だったという見解が一般的だ。

新約聖書の残りはパウロの手紙を中心とするもので、「ローマの信徒への手紙」や「コリントの信徒への手紙」などで、初期の教会に生じた問題への解決のアドバイスやできつつあったキリスト教の「神学」に関する教えなどを内容としている。パウロ以外の「使徒」が書いた手紙もあり、ヨハネに三つ、ペテロに二つ、そして、イエスの実兄弟であったヤコブとユダに一つずつが含まれている。また、著者が記されていない「ヘブライ人への手紙」という重要な書簡もある。

聖書の伝達

聖書のどの書物の原本はもう存在しない。古代から伝わって来たどの文書もそうだ。だから、手書きの原本から、手書きのコピーを書き写して、残す方法しかなかった。聖書の場合、原本は動物の皮や「パピルス」と呼ばれた原始的な紙に書かれたもので、使い古されてしまうので、新しいコピーを写本する必要があった。

写本されたユダヤの聖典は極めて正確だった。ユダヤ人写実者は文字列と言葉とパラグラフをカウントする高度で複雑な方法を用いて間違いを防ぐ驚異的システムを作った。彼らは聖典を正確に写本することに生涯をかけていたので、たった一つの間違いでも全巻を破棄するという決まりがあった。事実このようなユダヤ式写本方法は紀元1400年中期に印刷機が発明されるまで続いた。1947年に発見された死海文書(死海写本)は1500年以上続いたユダヤの写本システムが驚くほど正確で信頼できることを物語っている。それ以前、実在していた最も古い旧約聖書の原稿は紀元後1000年ごろのものだった。つまり、原本の1500年〜2500年ほど後のものだった。その間、何回も写されて、新しい写本を作っていたので、どれほど多くの違いが現れたか疑問視されていた。 死海文書の原稿は紀元後70年ごろ、ローマ軍がエルサレムの神殿を破壊し、ユダヤ社会を滅ぼした時、ユダヤ人たちが数多くの大事な原稿をつぼに入れて死海の近くにあった天然洞窟に隠した。その中で、最も古い原稿は紀元前200年ごろのもので、それは1200年後の原稿と比較したら、意味のある違いがなく、あったのは数少ない小さな違いだけ。だから、聖書のそれぞれの書物の原本が正確に伝わり、現在の聖書に至っていると確信できる。 (内容は真実であるかどうかは別な問題だ。)

新約聖書の伝達は別な講義で詳しく取り上げるが、ユダヤ教による旧約聖書の伝達とかなり違う。同じように手で写本するしかなかったが、それぞれの書簡などをすぐ移したり翻訳したりして、数を増やして広めた。当然なこととして、多少の違いが出て来て、原本と少し違う文書が次の世代の原稿に伝わり、現在に残っている数多くの古代原稿には、そういう小さな違いが多くある。中心的な教理に関わる相違が何もないが、やはり、原本には果たして何が書いてあったかはどう分かるかという疑問が残るとよく言われて来た。しかし、他の古代から伝わって来た文書と違って、原本に時間的にどれほど近い写本が残っているかそしてその原稿の数は大きく異なる。聖書以外の古代文書の原本と存在する一番古い原稿との時間的なギャップはよくても1000年以上で、残っている写本の数も少ない。しかし、ギリシャ語の新約聖書の古代写本は5000を超え、ラテン語やコプト語などの同じ時代の翻訳は2万を超えている。その上、2世紀〜3世紀の教父たちが残した多くの文書の中に聖書を引用していることも多くある。実は、新約聖書のほとんどの箇所がどこかに引用されている。従って、それぞれの年代や書かれた場所などの研究から、文書の違いはいつからどこで現れたか分かるようになってきた。このおかげで、殆どの場合、原本のことばは何であったか確実に分かるようになった。

聖書全体の流れ

聖書の66書の書物は多くの時代を経て、文化や生活習慣が異なる多くの人の手によって書かれたのに、驚くほどの統一性がある。歴史的な物語や詩と預言といった様々な文学的形態の中で、共通するテーマを貫く。聖書全体の主要なテーマには4つが浮き彫りになる。それらは①天地創造、人類の始まり、②人間の堕落、問題、③人間の問題に対する神の解決(キリスト)、④究極の目的の達成、「新しい天と新しい地」。

ある意味で、全ての宗教や世界観がこれらの4つのテーマに対して、何らかの答えを出そうとする。つまり、①「私たち人間はどこから来たのか」 (人間の起源をどう説明するのか)。②この世に経験する多くの苦しみと悪はどう説明できるか。なぜこんなに狂ってしまったのか。③これらの問題をどう解決できるか。そして、④これからはどうなるのか。人間の社会はどこに向かっているかという終末論に関すること。

私たち人間は自分が無意識にでも持つ世界観によって、これらの質問に答えを出そうとする。それなしでは、生きて行けないのだ。自分の世界観によって、世の中に、そして自分の身の回りに起こる出来事を解釈する。例:自分の親友が悲惨な事故で死ぬ。もちろん、だれでも大きなショックを受け、深く悲しむが、そういうことをどう受け止めるか、また、これから自分がどう生きて行くかは世界観によって、大きく変わる。もし、無神論的世界観を持つなら、人間は全てランドムな出来事によって猿のような祖先から偶然に進化してきた存在だと考える。従って、友達の死は偶然な出来事だけではなく、その人の人生そのものも偶然で、究極の意味もない存在だったことになる。自分の人生にも意味があるとすれば、それは自分で作り出すしかないことで、それも結局消えて行くものだ。このように、自分が無意識にでも持っている世界観によって身の回りに起こる出来事が解釈することになる。

聖書の世界観、人間観

以上の4つのテーマについて、聖書はどう答えているかを考えよう。

1.聖書の最初のことばは「初めに、神は天地を創造された」という簡潔な文書だ。それ以降の多くの箇所で、人間を含む全ての生き物が何らかのプロセスによって、そして何かの目的のために創造されたと説明される。そして、他の生物と違って、人間の創造については、人間が「神にかたどって造られた」ということが強調される。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)(英語では、”image of God”)

強調されている事柄の中で、創造主が人格性のある存在者であることで、ご自分が創造した被造物との関わりを持ちたいということだ。つまり、物事を自然に任せて、関わりを持たない遠い存在ではなく、創造された世を愛する存在者であること。創世記の物語によると、最初の人間が神と密接な関係を持って交わりをすることができるように「エデン」というパラダイスに住まわせていた。その場所は現代の地理から言えば、どこだったかは定かではないが、聖書の記述から判断すると、中近東もしくわ、アフリカの東北部であった。

「神にかたどって造られた」という概念には、人間には神と似ている性質があるということも含まれる。神が最高の被造物である人間を特別に愛していたということに、人間がその同じ愛を持って神と接して欲しい願いも含まれる。しかし、「愛」ということは強制できないことで、自由な意志を持ってしないと、意味がないことだ。(自分の子どもに向かって、「私を愛しなさい」と命令できるだろうか)。本当の愛には自由意志が必要条件となる。しかし、「自由意志」には二つの相反する面がある。自由意志を持って、自分の造り主を愛して従って行けると同時に、反感を持って、逆らう可能性も出てくる。両方の可能性が「自由意志」の付き物だ。私たちが愛することを可能とする同じ特質が憎むことをも可能にしてしまう。ロボットとして、神が私たち人間を創造したわけではない。親しい関係を持てる存在者として、そしてご時分との交わりができるように神が人間をデザインしたと聖書が語る。その中心的な必要条件となるのは「自由意志」で、それは人間の本質に欠かせない「危ない」特質なのだ。

2.では、第2の問題として、「なぜ世の中がこんなに狂ってしまったのだろうか。」全能の愛なる神が本当にいるなら、どうしてこんなに多くの悪と苦しみがあるのかという疑問点が出てくる。聖書の答えは、神が愛であるからこそ、私たち人間に選ぶ自由を与えてくださったということだ。そして、全人類を代表しているイスラエルの民族(また、彼らと接している周りの民族)の歴史を通して、その自由を悪用してしまったことを記録している。

世界史を考えると、同じことだと言える。人間の誤った決断を神様の所為にすることができない。悪いのは我々人間なのだ。人間が神に与えられた自由意志という「恵み」を自己中心的に悪用してしまう傾向が強いことが明らかだ。これは聖書に書いてある「罪」の本質そのものだ。日本語では、「罪」と法的な「犯罪」という区別がはっきりしない。しかし、聖書では、これらを区別し、英語では、”sin”と”crime”というニュアンスがかなり違うことばで区別される。全ての”sin”は”crime”ではなく、すべての”crime”とされている行動は”sin”でもない。(例:ナチストイヅでは、ユダヤ人を隠して守ることは「犯罪扱い」とされ、捕まった人をユダヤ人と共に処刑された。)神の前に”sin”とされている姿勢は法的な意味の「犯罪」とならないことが多い。例えば、イエスは有名な「山上の説教」で、こう教えた:「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:27-28)ここでは、法律が扱う外面的な行動だけではなく、自分の心の中にある思いをも重要視する。この同じ「山上の説教」には、同じように常識と考えられていた基準が覆され、それ以上の、人間の力だけで守ることの全くできない基準をたてる。これらの教えを通して、弱い人間が聖なる神の前に立つと、だれでも「罪人」と定められることを教えた。

この同じことがパウロの解説にも見られる。ローマの信徒への手紙3章に旧約聖書を引用しながら、こう書いた:「次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』」そして、古代イスラエルに与えられた「律法」の本当の目的について解説して、20節にこう書いた:「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」その結果をもう一度言ってから、聖書の解決を述べる:「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:23-24)

これは第3の問題に繋がって行くが、その前に、ことばの問題をもう少し考えよう。「罪」と「犯罪」の区別がないと同じように、「許し」と「赦し」とのはっきりした区別もない。「許可」と「赦免」は違うのに「ゆるし」は両方の意味がある。(国語辞典では、「許し」と「赦し」との区別をしない。)では、「罪のゆるし」の場合、意味が非常に曖昧になる可能性がある。おそらく、「犯罪の許可」という意味で使うことはほとんどないだろうが、意味としてはあり得る。英語では、”sin”と”crime”とはっきり区別していると同じように、”forgive”と”permit”も全然違う。しかし、日本語では両方が「ゆるし」なのだ。こういうわけで、聖書のこの中心的な概念を日本語で表現するのに、これらの誤解しやすい、曖昧なことばになってしまう。

それに関連する、よく誤解されていることばは「原罪」というキリスト教の専門用語。聖書には”original sin”(原罪)ということばそのものは使われていないが、すべての人間が生まれながら、「アダムの罪」に染まっていることを教える。普通に考えたら、生まれたばかりの赤ん坊が「罪深い」ものとされてしまうことは理解しがたいことだ。「罪」は犯罪的に考えたら、判断力がまだ身に付いていない小さい子どもが「罪を犯す」ことがないので、「罪深い」存在になるはずがない。しかし、聖書的な意味の「罪」という立場から考えれば、人間であることだけで、罪が付き物だ。やはり、人間は自己中心的な存在者で、生まれたばかりの赤ちゃんは何よりも自己中心の固まりなのだ。自分の世界しか知らないからだ。聖書が教えている「原罪」はそういう意味だ。こういうわけで、ごく自然なことだ。 (改心 — 回心;神;義)

3.それでは、3番目のテーマである「解決」を考えよ。だれでも、世の中をみると、どこかで狂っていると分かる。人間の「堕落」が戦争、環境破壊、貧困や差別という様々な形をとる。神によって創造されたなら、このはずがなかったが、現実だ。解決策があるのだろうか。これは聖書のメイン・テーマだ。

神の「解決策」を考える前に、聖書に示された天地創造の目的そのものを考えよ。始まりのない、永遠から存続する神がいるとすれば、天地創造に関して、論理的に神には5つの基本的な選択肢しかない。神の「宇宙的選択肢」は①何も創造しないこと;②自由意志を持つ存在者がいない宇宙を創造すること;③自由意志を持つ存在者がいる宇宙を創造して、その自由意志によって悪を選ぶときに、その自由意志を持つ存在者を根絶すること④自由意志を持つ存在者がいる宇宙を創造して、彼らを放っておいて、自分の「地獄」を作らせるままにすること;そして⑤聖書に示された選択肢だ。すなわち、ご自分に似せて創造した、自由意志を持つ存在者がもたらした悪の問題を解決するように、完全なる正義と犠牲的愛を持って取り組んで行くことだ。

私たち人間がいるということは、最初の3つの選択肢のどちらかを選んだのではないことは明らかだ。だから、④か⑤のどちらかしかない。どっちだろうか。極度の悪が猛威を振るっている真最中では、確かに④のように見える。例えば、有名なアインシュタインが、自分の科学から、宇宙を創造した神がいると確信したが、ナチストイヅがユダヤ人を根絶させようとしていた極度の悪を見て、それを止めようとしないように見えた神はただ、初めにこの世を造った後に、自然に任せている遠い存在である神だと思うようになった。しかし、聖書が証言するのは長い目で見れば、5番目の選択肢だったと分かるはずだ。それが正しいかどうかは、歴史、またその他のデータを分析して、判断する他はない。そして、そうするために、自由意志が与えられているということは聖書の世界観だ。

では、聖書によると、神の「解決策」は何だろうか。まず、人間の「堕落」は予想外のことで、あわてて解決策を打ち出したことではないとはっきりしている。自由意志を持つ人間を造る前に、そうなってしまうことが分かっていたと書いてある。しかし、問題は自由意志を犠牲にせずに、どうしたら、悪の問題を解決できるかということだった。人間が自分の自由意志で、そして、自分の力で、解決できないことは明らかだ。こうして、「救い主」が必要だと聖書が結論している。これはイエスがこの世に来た目的なのだ。神から離れさせた「罪」を償うのに、「代価を支払う」必要がある。

創世記物語に、人間の罪を償う最初の象徴は、彼らの「裸の恥」を覆うために、動物を犠牲にして、その皮で服を作ることだった。こうして、羊や牛を犠牲にすることは神の礼拝の中心的な儀式となり、その流された血(命)によって、自分が清められる。しかし、その「清め」は一時的なことで、絶えず繰り返さなければならない不完全なものだった。こうして、壮大な計画の中で、ご自分が人間の形を取り、「神の子羊」として、命を捧げることになった。それはキリストの十字架だったと記されている。

4.それでは、最後の4番目のテーマ。この世はどこに向かっているのか。「世の終わり」があるのか。そして、その後はどうなるか。これらの質問に対して、聖書は多く語っている。

地球上に人間が永久に存在し続けることができないのは科学的に証明されている。つまり、そういう意味で、「世の終わり」が見えている。物理的な意味で、人間が住める環境が存在しなくなるまで、何百万年があるかもしれないが、終わりが来るのは確実だ。環境破壊などの問題を考えると、その時がそんなに遠い未来ではないという気がする。聖書の預言には、その終わりがいつ来るかは書いてない。でも与える印象としては、「近い」ことだ。悪の力が一時的に猛威を振るうが、その目的が達成したら、神が「新しい天と新しい地」を創造して、悪の問題を最終的に解決すると教えている。その世界では、悪や苦しみが存在せず、すべてが素晴らしい。そして、そこにいる存在者は自由意志を持っているのに、訓練されたものだから、悪を再び選ぶことがない。

このように、聖書の世界観を持つということは、社会にどういう影響を与えるかは、歴史が語っている。まず、希望を与える。どんなにひどい状態に置かれていても、その悪に終わりがある。そして、自分のよい働きが報いられる。例えば、イエスはこう教えた:「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21) 他の人の福祉のために奉仕することは「天の富」となる。地上における一時的な自分の幸せよりも、天国の永遠の幸せを目指すことは結局この世の幸せをも増す。

聖書の自然観

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:26-28)

ここで「支配させよう」ということばに注目。もとのヘブライ語では、「主権を持つ」や「統治する」という意味のことばで、解釈が重要なポイントとなる。環境保護活動家の中に、この聖書のことばが環境を破壊してしまう技術を開発した西洋社会に自然界を搾取する動機を与えたと訴えるものがいる。しかし、これが本当に聖書の自然観なのだろうか。この一節だけをみて判断することはできない。聖書全体のメッセージは確かに、人間を優先にする。つまり、人間の幸福のために、自然界の資源が与えられていることで、それを上手に管理することは人間の責任であることを教えている。人間がそれを十分にしないことは罪の現れの一つだ。

では、聖書の自然観/倫理観をよりよく理解するために、その反対となる自然主義の世界観を考えよう。そういう世界観を持つ環境保護者が優先にするのは人間の福祉ではなく、動物と植物の保護なのだ。これは特に発展途上国に影響があり、貧しい人間の生活が犠牲になってもしかたがないことで、あくまでも、他の生物を守ろうとする。また、「動物権利」を主張する過激派が例えば、人間の病気を治療するための医療研究に使われる動物を解放するために、研究所を破壊することなどある。このような行動は彼らの世界観の当たり前の結果だ。というのは、その世界観によると、人間は特別な存在ではなく、ただ偶然に現れた知恵のある動物だけだ。こういうわけで、このような世界観を持つ環境保護者は自然界が人間を養う資源として考えるのではなく、むしろ、自然界が何かの絶対的な、本質的な価値があるものだと考えてしまう。だから、例えば、一つの生命体を守るか、それとも地元の人間の生活を守るかという選択に迫られたら、その生命体を守ることは絶対に優先だ。というのは人間がどこにもいるのだが、絶滅に瀕している生命体はここにしかいない。人間の方に価値があると主張することは「傲慢だ」と言われる。というのは、彼らの考え方では、全ての生命体は行き当たりばったりの進化の結果だから、人間が他の生物より価値があるとは言えないと主張する。

これらのことに対して、聖書は人間の一時的な福祉だけを考えるべきだという意味にならない。なぜなら、人間の繁栄と他の生物の繁栄が相互的なものだから、多くの具体的なケースの場合、聖書的な世界観の立場から考えている環境保護者と唯物論的な世界観の立場から考えている環境保護者は結局同じ行動を取る。ただ、その裏にある理論的根拠が違う。一方では、地元の人間の福祉と関係なく、その生息地の本質的な価値のためにそれを守りたいことと、他方では、人類の福祉が依存している環境を維持するためにその同じ生息地を守りたいということだ。つまり、両側が生息地を守りたいが、世界観の故に、その理由が違ってくる。

環境問題に関連するもう一つの概念は「持続可能開発」のことだ。どんな開発でもいいということではない。一時的にしか維持できない開発は環境を破壊する開発で、自分の短期間の利益しか考えていない人たちがやることで、そういう開発を反対すべきことは当たり前のことだ。「自分の利益しか考えていない人たち」と言うと、それは「あのような人たちだ」と私たちが考えたいのだが、問題は多くの場合はそれが結局、私たちなのだ。先進国の一つである日本の社会に住んでいる私たちにとっては、資源の開発はどれほど持続できない形であるか見えにくいことだ。現在のままの資源開発をずっと継続できないのは明らかなことなので、それを認識したら、自分の生活を変えなければならないと分かるだろう。しかし、問題は物質的に恵まれている私たちにとっては、例えば、燃費の悪い車を捨てて、燃費のいい、小さい車を買うことなどの程度にとどまることが多い。しかし、ぎりぎりの生活をしている貧しい国の人たちにとっては、「環境を守る」ために消費をカットすることは、自殺行為に匹敵するかもしれない。でも、そうしないで自分の環境を破壊してしまえば、それも自殺行為に匹敵することだ。そのような苦しい立場にいる人たちにとっては、まるで「自分の自殺方法を選びなさい」という感じになり兼ねない。これは環境的、経済的な立場から考える正義の問題だ。神は人間が地球を支配するようにと命じたその使命に含まれているのはすべての被造物の福祉を考えることだ。「神にかたどって造られた」人間という被造物は特にそうだ。

こういうわけで、聖書の世界観の観点から考えれば、すべての人間の基本的なニーズに応える地球環境の問題への解決を探るように呼びかけられていると分かる。それは自分の生活がかかっている環境をしかたがなく破壊せざるを得ない状況に置かれている人たちを助ける義務が私たち、技術的経済的能力のあるものにある。これこそ「環境を保護する」あらゆる働きの基準となるべきだ。「環境を保護する」ということはただ「環境」のためではなく、すべての人間のためなのだ。それこそ「持続可能開発」を考える基準となるべきことだ。環境問題にかかわる複雑な問題に取り組むとき、この正しい見解を取り、人間の福祉を第一にする正しい決断をするように求められている。

聖書の倫理観

このように、聖書の自然観と倫理観が繋がっている。聖書には、倫理に関わる教えはもちろん、多くある。この後の講義で、もっと詳しく取り上げるが、今日は有名な「十戒」で締めくくる。

出エジプト20:3-17

①あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

②あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

④安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

⑤あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。 ⑥殺してはならない。

⑦姦淫してはならない。

⑧盗んではならない。

⑨隣人に関して偽証してはならない。

⑩隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

Updated: 2012 年 02 月 17 日,03:59 午前

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