キリスト教からの問いかけ

聖書の中から、具体的な箇所をいくつか取り上げ、聖書とキリスト教が現代に生きる我々に投げかける問いかけについて考察する。

I.「神にかたどって、造られた」ことに含まれる意味、関連する倫理の課題。

聖書的根拠:「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:26-27)

「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」(ヤコブの手紙3:8-10)

1. 人権の根拠

「人権」ということばは具体的にどういう意味だろうか。そして、それらの権利は何に基づいているのだろうか。それを考えるために、次のたとえを考えよう。この1000円札は物質的な意味で、特定の模様が印刷された特殊の紙切れだけだが、日本政府が保証しているため、1000円の価値がある。

そして、このもう一つの「1000円の紙幣」もあるが,明らかに違う。

これには同じ1000円の価値があるのだろうか。この二つを交換する人がいるだろうか。いないはずだね。なぜかと言うと、この「1000円札」を実際に作ったら、それには何の保証も付いてないからだ。近くのコンビニで、買い物するためにこれを使用としたら、笑われるだろう。また、偽造の罪で逮捕されるかもしれない。

では、本物の1000円札の価値について考えよう。紙幣が使われるうちに,だんだんと使い古されてしまい、汚れが付いてしまう。また、乱暴に扱うことによって、傷つけられることもある。そのように使い古すことによって、紙幣の価値はどう影響されるのだろうか。汚れ具合によって、1000円札は500円になるか、また、もっとひどい場合、200円の価値まで下げられるのだろうか。いいえ、紙幣の価値はどれほどきれいな状態であるかによって決まらない。本物の1000円札だと確認できれば、どんな状態になっても、価値は1000円のままだ。

この同じ原理を人間としての価値に当てはめることができるのだろうか。その答えは、その人間としての価値の根拠はどこにあるのかということにかかっている。つまり、自分の「世界観」で決まる。聖書の世界観の立場から言えば,この類推はぴったり当てはまる。聖書の世界観では、私たち、一人一人の人間としての価値は何によって決められているかというと、千円札を作った日本政府の保証によって、1000円の価値があるのと同じように、私たち人間に究極の価値を与えてくださるのは私たちをお造りになった神様だ。政府が出している通貨の場合、いろいろの単位があり、それぞれの価値が違う。また、経済状況によって、1000円札という特定の単位でも、購買力としての価値が変わる。人間を同じように実利的に考える人は、それぞれの個人に違う「価値」を与える。そのようなシステムでは,社会に大きく貢献している人なら、一万円札のようなものと見なされ,橋の下に住んでいるホームレスの人間の場合、まるで一円玉のように考えてしまう。

言うまでもなく、そのような見方は神が人間の価値をどう見ておられるかと全然違う。聖書によると、「神の国」のためにどれほど貢献できるか、又その他の実利的な基準によって、私たちの人間としての価値を見なすのではない。神は私たちが何をするかということによってなのではなく、私たちがだれであるかによって価値づけるのだ。では、私たちは何者だろうか。聖書によると、人間は「神にかたどって造られた存在者」であるからこそ、神が私たちを価値のある者として見なすのだ。それこそ私たちの人間としての価値の根拠となる。その上、「普遍的人権」の揺るぎない土台となりうるのはこの思想だけだ。この「人権」という概念を正しく理解するために、まず「人間」と「権利」、そして、それらの「権利」は何に基づいているかをきちんと定義しなければならない。だから、「人権」とは何か、そして、それらの人権の根拠となっているのは何かということをまず考えよ。

皆さんは国連の「世界人権宣言」を聞いたことがあると思う。その宣言には30の条項があり、それぞれはすべての人間が生まれながら、生得権として取得している権利を明記する。この文書は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」ということばで始まる。この文書が書かれたのは、国連自体は4年目に入ったばかりの時だった。第2次世界大戦直後に国連が創立された際、それぞれの政府の代表者たちは「人間であることはどういう意味か」ということを議論した。しかし、議論が対立のままで終わり、結局マルクスとモーセ、またダーウィンとダビデを両立できないという結論になっただけだ。無神論と有神論の哲学的前提は水と油のようなことで、混ぜ合わせることのできないことだ。そして、世界人権宣言の賛否を投票した時、ソビエト連邦の国以外、すべての国が賛成した。共産圏の国はなぜ受け入れられなかったかと言うと、彼らの基本的世界観がその「人権」という概念そのものと両立できなかったからだ。マルクスとモーセは基本的に矛盾し合う思想だ。

この基本的な世界観の相違に関しては、一番中心的な大前提は人類の起源をどう説明するかということで、それは他のすべてのことの決め手となる。マルクスとダーウィンによると、人間は偶然な結果だけで、私たちと関わる創造主は存在しないのだ。しかし、モーセとダビデによると、私たちは単なる自然界の偶然な結果ではなく、神が目的をもって計画的に創造した被造物で、肉体的に死んだ後も、永久に存在する霊魂を持つものだ。

この世界観の相違は結局二つの基本的な選択肢として理解できる。それによって、他のすべてのことが左右される。一方では、無神論的唯物論の世界観があり、基本的な現実としては、物質とエネルギーしかないと考えている。この考え方は有名な天文学者であったカール・セイガンのことばで、次のように説明された。このことばは、30年ほど前に作られた「コスモス」というドキュメンタリーにあったことばで、彼はこう言った、「宇宙は現存するすべてで、そして、今まで、またこれからも存在するすべてだ。」

他方では,宇宙を超える、そして、私たちの存在の源となった非物質的な何かが存在していることを前提として考える有神論的世界観もある。聖書の世界観はこのもっと広いカテゴリに含まれている一つに過ぎないが、この講義では、「聖書とキリスト教が現代に生きる我々に投げかける問いかけ」というテーマについて考えるので、この世界観を述べている聖書は何を教えているかに焦点を合わせる。そして、人権の立場から、この二つの基本的世界観の違いをも考えたい。

しかし、その前に,有神論の側に属しているもう一つの選択肢を少し考えて、その世界観に従う人たちはこの課題をどう考えるかをみよう。創造主の存在に関しては,イスラム教はキリスト教と共通するところが多くある。1948年に国連に入っていたイスラムの国は皆「世界人権宣言」に賛成したが、その後、自分の国の文化的宗教的背景を反映していないところがあるという理由で、意義を申し立てた国が出てきた。どういうことかと言うと,イスラムの国々は宗教の自由に関係していた条項を受け入れられないということだ。特に18条は問題だった。こう書いてある:「全ての人は,思想、良心および宗教の自由に対する権利を有する。この権利は,宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。」実は,2000年にいくつものイスラムの国が「イスラム教にある人権に関するカイロ宣言」を作った。この文書によると、人間は「イスラムのシャリア(イスラム教の律法)に従う尊厳のある人生を送る自由と権利がある。」それはどういう意味かと言うと、自分の宗教はイスラム教であれば,宗教の「自由」が保証されているということで、結局宗教の自由を否定する。なぜなら、イスラム教に入信する「自由」を与えるが、イスラム教徒が違う宗教に帰依することを許さないからだ。

世界人権宣言に対して、部分的に異議を申し立てる他のグループもあるが、この宣言に述べられている人権という概念と最も両立しにくい世界観は結局、無神論的唯物論だ。共産主義独裁国家の場合、基本的人権を守らないのは日常の現実なので、それは明らかにそうだが、この陣営に属する西洋のインテリたちは自分の世界観が人権と相反するものであると言われたら、憤りを感じるだろう。どんなに頑固な無神論者であっても、「人権を支持する」と言い張るだろう。こういうわけで、無神論と人権が結局相反することであるという私の主張はなぜそう言えるか説明する必要がある。

まずは,「宇宙は現存するすべてで、そして、今まで、またこれからも存在するすべてだ」というセイガン氏のことばが現実だとすれば、どういう意味になるか少し考えてみよう。そうなると、超自然的な存在者は全く存在しないことになり、宇宙を超越する(その外にある)何かのおかげで存在するようになったのではなく、ただ存在するだけだという「原因なし」のものになる。もしそうであれば、私たちの存在を引き起こしたのは「偶然」だけで、究極の目的や意味は宇宙のどこにも存在しないことになる。偶発する行き当たりばったりのできごとが長い時間の流れの中で自然的プロセスによってのみ私たちの存在が説明されることになる。そして、宇宙そのもののいわゆる「熱の死」が免れない事実だから,その存在もある時点で成り立たなくなり、私たちのような意識のある存在者も完全に消えて行く。そのような究極のシナリオはダーウィン主義進化論が必然的に要求することだ。もちろん,有神論者の中には,ある種のダーウィン主義進化論を支持する人がいる。それは「有神論的進化論」と呼ばれているが、それによると、神が「黒幕」のように見えない形で自然的進化のプロセスを通してのみ,生命体を漸進的に創造したという考えだ。しかし、唯物論的世界観には、そのような考えを取り入れる余地が全くないのだ。存在するのは物質的なものだけで、自然界に介入してそれを導く神の存在を真っ向から否定する。

だから、このように、彼らの考え方の論法にとことんまで従って行けば、人間が原始的動物から偶発的に進化したものだから、人間の文化や社会も同じ「適者生存」の原理によって進化してきたという結論に達する。従って,それぞれの原始的な社会が作り上げた独自のルールは、社会の生存を促す「実用性」の度合いによってできたことになる。何が「正義」であるか、何が「不正」であるかの根拠はそのような実用的なことだけにあり、人間を超越する何かに基づいているのではないことになる。こういう訳で、「人権」は結局「弱肉強食」の原理に基づいていることになり、強者は弱者を搾取したり切り捨てたりすることは当然だということになる。

唯物論者たちは反論として、おそらく、私たち人間は「弱肉強食」を超えたところまで進化してきたので、社会が皆のために機能できるように、社会のルールを合理的に決めて行けると言うだろう。しかし、そうすれば、倫理的な面において、彼らはいわゆる「借用した資本」を無意識に利用することになる。自分の思想には人権の根拠となりうることは実際には何もない。それぞれの社会の人権に対する考え方はその社会の中で発展してきたものだから、ある社会は他の社会が考えている人権を守らないことを非難する根拠はどこにもないのだ。

では、唯物論者が「借用した倫理的資本」を利用しているということはどういう意味か考えてみよう。例えば,もし人類の長い歴史が無神論主義唯物論に支配されていたとすれば、「世界人権宣言」がそれでも作られただろうか。「世界人権宣言」には、人権が「神」とか、宗教的原理に基づいているというようなことを言及していないので、そういう意味で,世俗的な宣言だと言える。しかし、この文書は西洋文化の土台となっている聖書の世界観に基づいている。だから、宣言の文書では,これらの人権は何に基づいているかということに触れてはいないが、「人権」という概念そのものに含まれている。

私たちは普遍的な人権があるということが直感的に分かっている。なぜなら、人間は単なる動物以上のものであることを知っているからだ。聖書によると、これは神がすべての人間の心に刻んだ良心の一部なのだ。使徒パウロが聖書のローマ書2:14-15に書いてあるように,「たとえ(ユダヤ教の)律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば,律法を持たなくとも,自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」しかし、唯物論者はこのことを全部否定しなければならない。まずは、人間の「心」は肉体的な脳の中に起こる化学反応や電流などの物質的なことだけで、このような超越的な法則(また、律法)を書き記す「心」は実際に存在しないと考えている。その上、その超越的法則そのものも存在しないはずだ。なぜなら、それらを私たちに伝える霊的な存在者も存在しないからだ。この思想によると、そのような「法則」はそれぞれの文化が進化する過程の中で自然に現れただけだ。

もし、それが事実であれば、ある文化の「道徳」は違う文化が作り上げた、相反する道徳より「正しい」とは言えないはずだ。もちろん、ある行為の場合、たとえ、自分の利益のために、自分の社会の誰かを殺害するというような場合、どの文化でも同じ結論を出しているはずだ。しかし、具体的に、殺人をどう定義するか、また、「殺してもいい」と「殺してはいけない」という範疇にだれを入れるかは文化により違いが出てくる。つまり、無神論主義唯物論の立場から言わせれば、それぞれの文化のルールが自然に進化したので、ある文化の道徳が他の文化の道徳より優れていると判断する根拠はなくなる。たとえば、ナチスドイツが彼らの思想の前提に基づいて、ユダヤ人を虐殺したことに対して、無神論主義唯物論者はどういう理由で反対できるのだろうか。彼らの哲学的枠組みの中では、それが悪だと何を根拠にして言えるのだろうか。彼らはそれが悪だとだれでも「わかる」はずだと反論するだろうが、そうするためには、彼らは有神論の世界観から思想を借用しているのだ。それは先ほど言った「借用資本」のことだ。自分の世界観の枠の中で、それを根拠づける方法はないので、そういうことを主張することは根本的に矛盾する。

二つの1000円札のたとえをもう一度考えよう。彼らが他の世界観から「倫理的資本」を何も借用しないで、自分の世界観の枠組みの中からのみ、その二つの1000円札を判断するなら、片方はもう一つより優れているとは言えないはずだ。つまり、それぞれが人権を例証するという立場から言えば、本物の1000円札は神にかたどって造られた人間としての価値に基づいている人権で、もう一つの偽物の1000円札は基づくものが何もない人権のようなことになる。結局、唯物論の世界観はそこに至ってしまう。しかし、この考え方は、現代の社会に広く取り入れるようになっているので、聖書の世界観はそれに意義を申し立てるのだ。

2.現代社会が直面している倫理の問題

a.安楽死

今日の講義の残りに、現代社会が直面している倫理の問題を取り上げるが、一つの具体的な例として、安楽死のことを考えよう。チャールズ・コルソンというキリスト教徒が、ブログの中でこの課題を取り上げて、最近のイギリスの新聞に伝えられたことについて意見を述べた。イギリスの「卓越した道徳哲学者」と新聞で呼ばれていた人物が安楽死について言ったことに対する話だが、唯物論的世界観が必然的にどういうふうにつながってしまうかの恐ろしい例だ。その新聞によると、その哲学者は認知症にかかっている老人が社会の重荷となっているので、安楽死を選ぶべきだと言った。そして、そういう人たちは限られた資源を浪費しているので、彼らを安楽死させる特殊の免許の制度を作るべきだとまで表明した。これに対して、イギリスの生命権利の支援協会のスポークスマンが次のように反論した。「安楽死は選択の自由として勧められてはいるが、あの考え方では、これは死ぬ義務にすぐ発展してしまう。」

この議論に対して、そのブログでは次のように書かれていた。「西洋の文化はこんなに堕落してしまったのか。この話は世界観がどんなに重要であるかを示す衝撃的な例だ。全ての人間のいのち、それはまだ生まれていない胎児から、認知症の老人まで、一人一人神にかたどって造られた存在者であるか、それとも人間は道徳的な意味において、昆虫と変わらない立場にある、偶発的にできた存在に過ぎないものであるかのどちらかだ。私たちが選ぶ答えは社会の中の弱者が大事にされて擁護されるか、それとも、邪魔者と判断されたら、安楽死させるかの決め手となってしまう。キリスト者として、私たちがこの考え方を阻止するように強く抗議する必要がある。」 日本の社会には、そのような考えはどこまで浸透しているかよくわからないが、昔の日本では、「叔母捨て」ということが実際にあったことで、再びそういうことになることは十分考えられる。だから、こういう例は「世界観」がどれほど重要なことであるかを証明すると思う。価値観に関係するどんな課題であっても、自分の世界観の土台となっている前提はその結果を決めてしまう。こういうわけで、「世界観」という観念、そして、「人権」は本当に何に基づいているのかということをよく理解する必要があると思う。

b.妊娠中絶

安楽死と同様に、妊娠中絶に関して、聖書が直接に戒めを述べているのではないが、全体的な教えに基づいている原理は明白だ。「十戒」の一つである「殺してはならない」(殺人してはならない)という基本はもちろんだが、関連する他の箇所が多くある。たとえば、「賄賂を取って、人を打ち殺して罪のない人の血を流す者は呪われる。」(申命記27:25)つまり、正当な理由がないのに、他の人間の命を奪うことはいけないことだ。もちろん、「正当な理由」はどう限定するかなどの難しいところがあるが、「罪のない」人間を勝手に殺すことは明らかに聖書の原理を犯す。(「罪のない」という日本語の翻訳は誤解を招く可能性がある。聖書的な「罪」という概念に関しては、全ての人間が神の前で「罪人」なので、「罪のない」者は一人もいない。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)しかし、ここでは、「無罪」— 犯罪を犯していないという意味だ。)

では、妊娠中絶の問題を考えよう。この難しい問題をどう捉えるかはやはり、すべての根底となる世界観だ。しかし、人権を重要視する価値観を持つとしても、胎児に「人権」があるかどうかは問題となる。その決め手となるのは、胎児が「人間」であるかどうかのことだ。たとえば、「これを殺してもいい?」と子どもに聞かれたら、答えられる前に、その「これ」とは何かを確認する必要がある。ゴキブリだったら、「いいよ」と答えられるが、もし喧嘩して嫌になっていた妹だったら、そういう訳にはいかないだろう。妊娠中絶は明らかに生きている「何か」を殺すことになるのだが、それが正当な行為であるかどうかはその「何か」は何であるかということにかかっている。その答えは他のどの考慮すべき事柄よりも重要視すべきことだ。もし、胎児は人間ではないと妥当に結論づけられるなら、妊娠中絶を正当化する必要はない。自由に行ってもいい。しかし、胎児は人間であれば、妊娠中絶を正当化する十分な理由がない。

ある人は胎児が人間ではないと言い、女性の胎内に寄生している組織だと主張する。また、他の人は胎児がまだ意識と人格性のない、これから人間に発達して行く可能性のある生き物に過ぎないと言う。つまり、未来の人間だけで、まだ「人間」という範疇に入らない。もし、これらの考え方のどちらかが事実のであれば、堕胎をこれ以上正当化する必要がないはずだ。しかし、本当に人間であれば、「人権」もあるはずで、私たちと同じ生きる権利があるはずだ。

では、聖書はこれについて何を言っているかを考えよう。たとえば、詩編139編にこう書いてある:「あなたは、わたしの内臓を造り母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されているまだその一日も造られないうちから。」(139:13-16)

「胎児であったわたし」というような表現を考えると、聖書は胎児が人間であることを教えているとわかる。だから、聖書の世界観から言えば、全ての人間が神にかたどって造られた尊い存在で、生きる権利がある。こういうわけで、妊娠中絶は人権の問題で、その立場から議論すべきだ。例外扱いの事情があるかどうかは議論の余地がもちろんある。明らかに、妊婦の命が脅かされ、胎児を犠牲にしないと、二人とも死ぬことになる場合、だれでも例外として認めるだろう。しかし、それ以外の理由で、「胎児の人権」を侵害して殺害することは神の戒めを犯すことになるということは聖書の主張なのだ。この問題に対して、「聖書とキリスト教が現代に生きる我々に問いかけを投げかける」のだ。

II.まとめ

これ以外の倫理的課題がたくさんあるが、社会の中でそれらをどう扱うべきか議論していくうちに、世界観の前提などを明らかにしないと不透明のままで進んで行き、間違った結論になる可能性が高い。そういうわけで、社会の中で様々な倫理の課題をどう扱うべきか議論していくうちに、世界観の前提などを明らかにしないと、議論が進んで行くうちに、間違った結論になる可能性が高い。こういうわけで、「聖書とキリスト教が現代に生きる我々に投げかける問いかけに」は日本、また他の全ての国がもっと健全な社会を作り上げるのに、大いに貢献できる。それは全ての問題を人権の立場から考えることだ。

では、もう一度この「人権」という概念を確認しよう。私たちに人権があるということの根拠となり得るのは私たちの本質的な価値だけだ。そして、聖書が教えていることは、私たち人間は神にかたどって造られたものであるからこそ、生まれながらの本質的な価値があるのだ。その本質的な価値の根拠として考えられる他の基準があるとすれば、何かの形で自分の功績や可能性にかかってしまうことになる。しかし、聖書が私たちに伝えるのは、私たちの人間としての価値は自分がだれであるかということだけに基づいていることで、他の理由に根拠づけられていないことだ。こういうわけで、あらゆる差別がこの根本的な原理と相反する事で、神の前の大きな罪となる。もし、私たちが他の人間に対して、その人がやったことによってなのではなく、その人がだれであるかのゆえに、差別するのであれば、それは神の定めによって本質的に価値のあるものを軽蔑することになってしまう。

「神にかたどって造られている」という概念は極めて重要な概念だ。なぜなら、人権に関係するその他のすべての基礎となるからだ。しかし、皆が同じ能力や均等な機会が与えられているという意味で平等ではないことは明白だ。実は、人生のスタート時点で与えられている条件には大きな差が、場合によって、ある。そういう意味で人生は公平ではないのだ。あるものは愛のある裕福な家庭に生まれ、また多くの人に与えられていない才能や能力に与えられている圧倒的に有利な条件でサタートする。そして、その反対に、生まれつき、またその後に負わせられる障がいを抱えてしまう場合もあるので、どういう意味で「平等に造られている」のだろうか。すべての人間が同じ「量」をもっているのは “image of God”「神にかたどって造られている」ということだけだ。だから、平等に創造されているということはそういう意味で、そういうわけで、神の前で、皆が平等の人権を持っている。

英語では、「人間」は “human being”(ヒューマン存在者)と呼ばれている。それには、有意義な意味合いがある。というのは、人間を指すのに、“human doing”(ヒューマン行動者)などのことばを使っていない。だから、私たちの行動よりも、私たちの存在そのものが一番重要だ。この言語的な事実は他の言語に翻訳しにくいかもしれないが、どの国のことばであっても、概念そのものは明白だ。自分の行動はもちろん重要なことだ。というのは、自分の行動は他の人に、そして自分にも影響を及ぼす。しかし、それらの行動の根源となるのは自分の存在、自分はだれであるかということで、それは自分の生き方の決め手となる。それこそ、倫理の本質だ。

おそらく、あなたたちは経済と商業の世界に入って行く学生として、経済やビジネス倫理を考えるのは当然のことだが、それは社会の中で生きて行く側面の一つだけだ。倫理のあらゆる側面は社会の中での自分の生き方が影響されるだけではなく、「世界の市民」としての自分の生き方の決め手ともなる。関学のモットーは “Mastery for Service” (奉仕のための熟練)で、それはあらゆるレベルで倫理と関連している。道徳規準にかなった人生を送ることは、より幸せな、そして充実した人生につながるだけではなく、社会全体の健全さを高めることにもなる。そして、それも、あなたの人生にも影響する。

Updated: 2012 年 02 月 20 日,02:15 午前

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