クリスマスの誕生

キリスト教と関係なく、広く行われたこの「祭り」はどのように生まれたか、そして、現代の形となったかを考えて行く。イエスの誕生物語の歴史性などにも触れる。

最初のクリスマス

紀元前と紀元後の境はキリストの誕生だが、それはもちろん大分後に作られた暦だった。当時の世界では、日本の元号と同じように、皇帝○○何年という年代で、キリスト教が主流になってから、現代に使われている紀元後何年となった。キリストの誕生の500年以上後に、それを計算しようとした試みは正確な情報が不足したため、困難だった。実は、現代にある情報は当時より正確で、考古学などの研究によって、かなり解ってきた。聖書の記述によると、イエスが生まれたとき、邪悪なヘロデが王となっていた。記録によると、ヘロデが6世紀にできた暦で言えば、紀元前4年に死んだので、そして、イエスは2歳前後だったので、イエスの誕生は紀元前6年ごろだったようだ。(その他の仮説もあるが、遅くても、誕生は紀元前3年ごろになっている。)

では、イエスの誕生日が12月25日にしているのだが、それは実際にどうだっただろうか。聖書にはそれはどこにも書いていないことだが、羊飼いたちが野宿しながら、放牧している羊の群れの番をしていたと書いてある。それは冬の間にしないことだから、12月ではなかったことだと言えるだろう。また、夏から秋にかけて、乾季なので、草も少なく、放牧する時期ではない。だから、春や夏の前半の可能性が高いだろう。なぜ12/25に決められたかと言うと、ローマ時代から、その日は既に祭日で、その日に乗っ取って、キリストの誕生日を祝う日に変えた。

では、聖書の記述を考えよう。イエスの誕生に関する記述はマタイとルカにしかないことで、マルコとヨハネはそれに触れていない。ルカは最も詳しい記録で、洗礼ヨハネの奇跡的誕生と天使がマリアに会ってイエスの誕生を告げたことを述べてから、こう述べた:

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:1-20)

イエスが誕生したタイミングについて、ルカはいくつもの歴史的事実を述べる。これらには間違いがあると指摘する懐疑論者がいるが、最近の研究が示しているのは、ほかの記録と両立させることが無理なくできるので、ルカが書いた通りの出来事だったと受け止められる。しかし、たとえば、ルカが調べた情報にちょっと間違っていた面があったとしても、大事なポイントはイエスの誕生と生涯は実際の歴史にあったことで、神話や「昔話」のような「ある時」や「ある町で」という不確定なことではないということだ。ルカなどの聖書の著者が強調したいことは天地創造の神が実際の人間の歴史に入り込んできたことで、これはおとぎ話ではなく、現実だったということ。(もちろん、一般的にイメージされているクリスマスの伝統には、実際の出来事からかけ離れたイメージがいろいろあるが、それは別問題だ。)

マタイの記録にはルカと違うことが取り上げられる。ルカはイエスの誕生の予告をマリアの立場から述べるが、マタイはヨセフの立場から述べる。そして、マタイは生まれた晩に起きた出来事なのではなく、その後に博士たちが拝みにきたことを述べている。

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

東から来た「占星術の学者たち」は何者だっただろうか。そして、彼らが見た「星」は何だっただろうか。これらを巡る議論が昔からあることで、いろいろの仮説が提出されている。以下、それについて触れるが、まず一般に描かれているイメージについて考えよう。クリスマスカードなどによく見かけるが、三人の「博士」がラクダに乗って、家畜小屋の「飼い葉桶」に寝かされている赤ん坊イエスの上にまぶしく輝いてある星に向かっているシーンだ。このイメージはとてもきれいかもしれないが、聖書に書いてあることとずいぶん違うし、現実からかけ離れた伝説(神話)に過ぎないと言わざるを得ない。不明な点はもちろんあるが、マタイの記録には、「3人」とはどこにも書いていない。3つの贈りものを持ってきただけで、エルサレムが大騒ぎになっていたようだから、かなりの人数がやってきただろう。そして、生まれたばかりのイエスに会ったのではなく、大分時間が経っていたことだったのは明らかだ。16節によると、「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」イエスの両親が警告をうけていたので、既にエジプトに逃げていたので、無事だったが、イエスの「星」が現れたのは2年近く前のことだったと分かる。

こういうわけで、博士たちと羊飼いたちが同時に来たのではなく、かなりの時間のギャップがあった。そして、きれいな「馬小屋」ではなく、当時のベツレヘムでは、数多く存在する小さな洞窟を利用して家畜(ロバ、ヤギなど)を入れていた「家畜小屋」だった可能性が高い。(その上、決して衛生的な「きれい」なところとはほど遠いことだったはずだ。)

そして、天に見えた星はすごく目立つような存在として描かれているが、ヘロデ王などが全然気づいていなかったので、目立つような存在ではなかったはずだ。しかし、夜空を詳しく観察している「占星術の学者」なら、「新しい星」が現れるなら、気づくだろう。そして、この星が現れてから、いったん消えて、再び現れたようだから、実際の天体のであれば、不思議な現象だ。実は、その通りに見える恒星の種類がある。”Nova”(新星)と呼ばれている恒星だが、普段より数十倍や何百倍の明るさになり、再び通常の明るさに戻る特殊な恒星だ。その上、その種類の中で、数ヶ月後に、再び爆発を起こしてしばらく明るくなる現象がある。普段肉眼ではっきり見えない星がそういう二重の爆発を起こすなら、夜空に星がない場所に突然に現れ、消え、再び現れる「新星」が十分あり得ることだ。一般の人は気がつかないが、占星術の学者なら、解る。

では、これらの「占星術の学者たち」はどういう人たちだっただろうか。その正体を確認する他の直接的証拠は何もないので、断言できないが、おそらくペルシアから来たゾロアスター教の祭司だった。「占星術」という翻訳は現代の「星占い」と随分違うことで、当時の世界で一番教育を受けていた「学者」だった。面白いことに、元のギリシャ語では、”Magi”(マジャイ)というペルシャ語から由来した単語を使い、それは英語のマジックの語源となった。旧約聖書のダニエル書には、この人たちは「知者」として描かれている。この場合、ヘブライ語(アラム語)で書いてあるので、ギリシャ語の「マジャイ」ではないが、両方は英語で”wise men”と翻訳されている。ダニエル書では、バビロン(ペルシャ)に連行されたダニエルはバビロニアの王が極度に気にしていた夢の意味を神の啓示によって教えた。その結果として:

王はダニエルに言った。「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない。」王はダニエルを高い位につけ、多くのすばらしい贈り物を与え、バビロン全州を治めさせ、バビロンの知者すべての上に長官として立てた。ダニエルは王に願って、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州の行政官に任命してもらった。ダニエル自身は王宮にとどまった。(ダニエル書2:47-49)

バビロンの「知者」=マジャイ=占星術の学者。ダニエル書には、未来に対する預言が多く、その中で、メシアの到来と殺されることも含まれている。ダニエルの「70週」というシンボルは490年という意味で、その最初の「69週」は「エルサレム復興と再建」から「油注がれた者」が「不当に断たれる」までの期間だと書き記した。(9:25-26)

バビロンではダニエルが深く尊敬されていた人物で、その教えを継承していた後の占星術の学者たちはきっとダニエルの予言を知っていて、来るべき救い主の到来の時期が計算できただろう。こうして、その時期になって、しるしとなった「星」が現れたとき、ダニエルの故郷エルサレムに旅立って、探しに行ったと理解できる。

クリスマスの伝統

日本を含む多くの国で祝っているクリスマスにはいろいろの伝統や言い伝えがある。それぞれの国の独特の伝統もあるが、共通する「サンタクロース」や「クリスマスツリー」などもある。このような伝統は本来のクリスマスとどう関係するだろうか。サンタクロースで始めよう。以下は先週のチャペルの週報から引用する。 「サンタクロースの贈りもの」(村瀬義史、総合政策部宗教主事)

大学生の頃、アルバイトで「サンタクロース」になり、ある英会話教室のクリスマス会で子どもたちにプレゼントを渡したことがある。英語のあいさつで迎えてくれる子、笑顔で抱きついてくる子、遠巻きに見ている子、「トナカイ」を探しに行く子、疑いの眼差しを向ける子、「正体」を暴こうとする子など、登場した時の反応は様々だったが、それぞれの形でサンタクロースに対する思いを表現していた。プレゼントをもらう喜びが、未来には喜んで与える姿勢に結実する時が来ることを思い、嬉しかった。

ところで12月6日は、キリスト教のいくつかの教派で「聖ニコラウスの日」とされている。4世紀のミュラ(現在のトルコ)に実在したとされるニコラウス司教を記念する日で、この日、彼が貧しい人々や困難な状況にある人々を助け、ひそかに金銭や贈りもので援助した伝説にちなんで、愛の行為とひそかなプレゼントをする日になっている。また、彼は、サンタクロースのイメージ形成に一役かっており、聖ニコラウスのオランダ語「シンター・クラアス」がなまって、英語のサンタクロースになったことをご存じの人も多いだろう。

この季節、街のあちらこちらでサンタクロースが客寄せに使われ、クリスマスがあまりに商業主義的な香りを放っている場面を見ると少し悲しくなる。関西学院につらなる私たちはチャペルアワーや諸行事を通して、クリスマスの本来の意味を再確認しながら共にクリスマスを祝う。願わくは、ニコラウスと同様に、愛と祝福を人々に与えて生きたキリストにならい、ささやかであっても困難な状況に置かれている人に贈りものをすることができる者でありたい。そういう願いを自分の内に新たにしたい。金銭や物資を捧げることができるかもしれない。自分の時間や体力・知力を分かち合うこともできるかもしれない。短くても適切な言葉を贈ることもできるかもしれない。傍で、相手に耳を傾けることも大きな贈りものである。プレゼントをもらうのも素晴らしいが、誰かの抱える寂しさや孤独をやぶる真心からのプレゼントをひとつでも贈ることができるならば、なんと幸いなことだろう。

寒さ厳しく夜の暗闇の長いこの季節に、表面的なもので終わらない、喜びとぬくもりと希望の光を、自分の心に取り戻す時を過ごしたいと思う。

現在、私たちがイメージしているサンタクロースは19世紀からの比較的新しいことだ。その時期に、白いひげのある、赤い服を着ている太ったおじいさんが北極に住んでいて、トナカイに引っ張られて空を飛ぶそりに乗って世界中の子どもたちにプレゼントを配るというイメージはそのころから徐々にできあがった。

このようなおとぎ話は実際の歴史にあったイエスの誕生の物語とは関係が明らかに薄いものだが、キリスト教の精神に基づいているのは事実だ。聖ニコラウスは歴史の人物で、「サンタクロース的」なことを行なったと伝えられている。聖ニコラウスの時代から、三人の娘がいた貧しい家庭を援助したという話が伝わってきた。当時の文化では、女性が結婚するとき、「持参金」を用意しなければ、結婚できない習慣だった。それができない女性が召使い(奴隷)として売られてしまうこともよくあった。聖ニコラウスがひそかに娘たちの持参金となる金貨を暖炉の前にぶら下がっていた靴下に入れたと伝えられ、これが後にクリスマスの伝統となった。こういうわけで、クリスマスの精神そのもの、またその一部のしきたりが由来する実際の出来事があるが、大部分がずっと後に付け加えられた作り話だ。

クリスマスツリー

古代ドイツなどの北ヨーロッパでは、木を神聖化した考え方があって、キリスト教がドイツに布教された聖ボニフェス(8世紀)が信仰の対象となっていた「トールの木」を倒して、トール神には何の力がないことを証明したという古い言い伝えがある。そして、新しく植え付けられた信仰(キリスト教)のシンボルとして、モミの木を利用した。クリスマスに関連させたのは有名なマーチン・ルターで、クリスマスツリーを本格的に飾られるようになったのは16世紀だった。しかし、現代のような豪華な飾りなどはなく、最初は木のみだった。アメリカやイギリスでクリスマスツリーが一般的に飾られるようになったのは19世紀で、世界的に広まったのは20世紀だった。

日本で最初のクリスマス

古代日本には、景教(東洋キリスト教)がいろいろの形で影響を及ぼし、何かの形でキリストの降誕に関する祝いがあった可能性がある。聖徳太子を神聖化した伝説の中で、「馬小屋」で生まれた「厩戸皇子」(うまやどのみこ)とされ、イエスの誕生とよく似たいくつもの点があるので、ストーリそのものが明らかに伝わっていた。

しかし、日本での初のクリスマスに関する確実な記録は1552年のことで、ザビエルが日本に上陸して、西洋のキリスト教を布教し始めた3年後のことだった。イエズス会の「日本通信」によると、最初のクリスマスは1552年に山口で祝われた。大名の大内義隆が建設を許可した「大道寺」内の教会に、12月24日には入りきれないほどの信者が集まり、夜を徹してミサが行われ、食事が振る舞われたと言われている。この時献げられたミサの讃美歌は、日本で披露されたヨーロッパの音楽で最初のものだった。食事については参加者が費用を出し合い、信者ではない者も一緒に頂いた。ポルトガル船が来航するようになってからは、最初のセミナリヨのあった島原では牛肉入り炊き込みご飯がクリスマスに饗された記録が残っている。当時の日本人は肉食の習慣がなかったので、さぞやびっくりしただろう。戦国時代のクリスマスは「メリー・クリスマス」ではなく、ラテン語のナタル(誕生)から来た言葉で「ナタラ」と表現されていた。

 聖書劇の上演は宣教の有力な手助けだった。日本人信徒による初めての聖書劇は1560年のクリスマスに九州で上演された。演目は「アダムとエバ」。舞台の中央にはリンゴの木が置かれ、馬小屋のセットもあった。活発な伝道により1580年代には信者数は60万人にもなった。

徳川幕府三代将軍家光による鎖国政策によりキリシタンは禁止となり、それが解かれるのは250年以上経った1873年、明治の時だった。プロテスタントの宣教師たちはすでに来日し、最初のプロテスタント教会も横浜に誕生していた。日本人主催のクリスマス会は、元南町奉行所与力の原胤昭(はら・たねあき)により築地の第一長老教会で行われた。サンタクロースは純和風で殿様のような裃や刀、髷のカツラを着用し、彼はツリーなどの装飾と一緒に芝居の落とし幕の後ろに隠れていた。それが突然に開かれたとき、来場者は非常に驚いたと記録されている。

平和のシンボル

聖書にも、クリスマスが平和と結びついている。ルカによると、キリストの誕生が羊飼いたちに伝えられたとき、天使たちが「神を賛美して言った:いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」「地上に平和があるように」という願いは誰にもある思い。しかし、利害関係のぶつかり合いの中でなかなか実現できないのは現状だ。イエスが語った「山上の説教」の中に、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)という有名なことばがある。近代の西洋の世界では、これが特にクリスマスに結びつけられている。

戦争中でも、クリスマスの休戦という伝統があり、アメリカの南北戦争などに実現されたケースがある。しかし、一番有名なケースは1914年のクリスマスに、第一次世界大戦の最初のクリスマスで自発的に実現されたものだ。8月からイギリスやフランス軍がドイツ軍と戦っていた。http://www.kasetsu.net/PDF/XMAStruce.pdfというサイトで、クリスマスの休戦について、面白い記事を載せている。その一部を引用する:

フランスからベルギー、ドイツと続く国境地帯で、塹壕を掘って対峙していました。そして、フランス国境に近いベルギーの町イーブルの近くでは、英軍とドイツ軍が 塹壕の中にいました。

ドイツ兵は、クリスマスのために塹壕を飾り立て、クリスマスツリーにロウソクを灯し、それを陣地に高くかざしたのです。その様子を見ていた英軍は「一斉攻撃があるに違いない」として、厳戒態勢を敷いていました。中には「こっちも挑発してやろうじゃないか」と「メリー・クリスマス」と書いた看板を作成する者も現れました。しかし、次にドイツ兵が取った行動に英兵はとまどいました。ドイツ兵は「きよしこの夜」を歌い出したからです。ドイツ兵が歌い終わった後、英兵も同じ歌を歌い始め、戦場は英語とドイツ語による「きよしこの夜」の合唱となり、銃声や砲声は消えました。

兵士たちは、ひとりふたりと銃を置いて、中間地帯に出て行き、敵兵と握手とクリスマスの挨拶を交わしました。すぐにその地区の両軍はすべて、休戦状態となりました。兵士たちは、ウィスキー、ジャム、タバコなどを交換し合い、捕虜も解放されました。

これは前線の兵士たちが勝手に始めた停戦ではありましたが、内容的には十分「休戦」といえるものでした。ドイツ兵が作ったツリーには「メリー・クリスマス。あなた撃たない、私たちも撃たない」と書かれていました。 この休戦にフランス兵やベルギー兵も参加しましたが、彼らは停戦しただけで、ドイツ兵との交歓はほとんど行いませんでした。彼らの国土はドイツによって侵略されていたからです。

第一次世界大戦は、初の総力戦であり、毒ガスなど殺傷能力の高い兵器がたくさん使われた戦争でした。そして、中間地帯には、 彼らの死体がそのまま放置されている無惨な状態だったのです。英軍指揮官は、それをなんとかしたいと思っていたはずです。実際、停戦となった中間地帯では、パーティだけでなく、両軍が一緒になって死者の埋葬も行われました。

こうして「停戦」は、瞬く間に西部戦線の全体に波及し、3分の2以上の前線で、こうした「クリスマス休戦」がもたれました。兵士たちは家族の写真を見せ合い、「上官たちが攻撃を命じた場合は、わざと空を撃とう」と約束し合いました。ある前線では、英軍と独軍とのサッカーの試合となり、「3対2で独軍が勝った」(ボールが鉄条網でパンクして終了)と伝えられています。そしてこの休戦は、前線によっては正月まで続きました。

新聞の一面には大きな文字で「驚くべき非公式の休戦」とか「英兵、インド兵 (インド出身の英兵)とドイツ兵が握手」と出ていました。ドイツの新聞もこの休戦を伝えていましたが、それよりもずっと大々的に英国の新聞は伝えたのです。コナン・ドイルはクリスマス休戦を「見事な出来事」と呼び「血塗られた戦争の惨状の中でひとつの人間的なエピソードである」と評しました。このようにクリスマス休戦は「ヒューマニズム」として認められたのです。

しかし、この出来事は双方の兵士や国民の戦争に対する感情に変化を与えることはなく、凄惨な戦争はその後も続けられたのでした。

「1914年のクリスマス休戦」は、あまりにも効果的な休戦でした。しかし、その後、そのような休戦は一度も実現できなかったため、人々は「1914年の休戦」を「空想の話」ととらえるようになってしまっていました。 1988年、ボストンのFM局が1914年のクリスマス休戦を歌った『塹壕のクリスマス』という歌を流したところ、大反響となりました。ある番組のホストは「リクエストの数以上に私が驚かされたのは、その歌をはじめて聴いたという人たちからの反応でした。とっても感動して電話してきて、ときには涙まで流しながら、『今聴いたあの歌は一体なんなの!?』って聞くんです」と話していました。

『塹壕のクリスマス』 作詞作曲・ジョン・マカッチョン

私の名はフランシス・トリヴァーで、リバプールからやって来た。2年前 学校を卒業したら戦争が待っていた。ベルギー・フランダース・ドイツへ、そしてここへ、私は王と私の愛する国のために闘った。塹壕のクリスマスは 霜に覆われ、ひどい寒さ、凍りついたフランスの大地はとても静かで、誰もクリスマスの歌など歌っていなかった。イギリスにいる僕らの家族たちは その日僕らのために祖国から遠く離れた・ 勇敢で素晴らしい若者たちのために乾杯をしていただろう。

糧食仲間と冷たい岩の地面に横になっていたら、戦闘地帯の反対側からおかしな音が聞こえてきた。「ホラみんな・聞いてごらんよ・」と言ったら、みんな聞き耳を立てた。ひとりの若いドイツ兵士がはっきりとした声で歌っていた。「とっても上手に歌っているね」と仲間が言った。すぐにドイツ人の声がどんどん唱和し始めて、大砲の音も止み、煙も立ち消えた。クリスマスが戦争からの休息をもたらしてくれたのだ。

彼等が歌い終わると、うやうやしい沈黙が流れ ケント出身の若者たちが 讃美歌『世の人忘るな』を歌い始めた。その次は『スティル・ナクト』(Silent Night)、つまり『きよしこの夜』だ。ふたつの言語で歌われるその歌で、空が満たされた。前線の歩哨が「誰かがこっちに来るぞ」と叫んだ。みんなの目が近づく人影に釘付けになった。彼が勇敢にも丸腰で、夜の闇に歩き出したとき、彼の掲げた休戦の旗がクリスマスの星のように平原に明るく輝いた。じきに双方から一人、また一人と中間地帯へと歩み出し銃も銃剣もなしで、我々は手を取り合った。隠していたブランデーを分け合い共によかれと祈り、照明弾の明かりの中でやったサッカーでは彼等を打ち負かしてやった。

家族から遠く離れたこの息子や父親たちはチョコレートや煙草を交換し、家族の写真を見せ合った。若いサンダースがアコーディオンを弾き、彼等はヴァイオリンを持っていた。なんとふしぎでありそうもないバンドだったことか。

やがて夜が明け、再びフランスはフランスに。悲しい別れとともに僕らはまた戦争へと戻り始めた。しかし、その驚くべき一夜を過ごした者たちの心には疑問がつきまとった。「照準を合わせていたのは 一体誰の家族だったのだろうか」と塹壕のクリスマスは、霜に覆われひどい寒さでも、平和の歌が歌われた間、凍りついたフランスの大地は暖かかった。戦争という名の元に我々を隔てていた壁は永遠に崩れ去りなくなっていたのだ。

私の名はフランシス・トリヴァー、リバプールに住んでいる。あの第一次大戦のクリスマス以来、ずっと学び続けてきた。「撃て」と命じる者たちは死にもしないし傷つきもしない。ライフルの両サイドにいるのは同じ人間なのだということを。

http://www.youtube.com/watch?v=QTXhZ4uR6rs&feature=related

Updated: 2012 年 02 月 20 日,12:26 午前

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