キリスト教の哲学

キリスト教の世界観の立場から、神の存在を裏付ける論拠などの哲学的思想を考え、西洋文化への影響を考察する。

論法と論拠

西洋文化では、論理的な思考が重要視されている。これに対して、本来の東洋の文化では、合理的な論法よりも、「感」を強調してきたと言われている。私が日本文化に初めて触れたとき、「西洋人として、あなたは日本の『侘び』と『寂び』が理解できないでしょう」と言われた覚えがある。今になっても本当に解っていると言えないかもしれないが、何となく、「感」で解ってきたと思う。(でも、それを論理的に説明できることではない。)

このような思想の違いはどこに由来するのだろうか。基本的にはこれらのことは「世界観」によって決められている。キリスト教が伝わる以前の古代ヨーロッパでは、どうだっただろうか。詳しい記録はどこにもないのだが、その時代の神話などを見ると、やはり、古代日本などの東洋的な考え方とそれほど違わなかったようだ。というのは、多神教的神話的な「古代世界観」を持っていた古代人は現代人のような「論理的な思考」がほとんどなかったと言える。以前の講義で話したように、現代科学を生み出した「聖書の世界観」が採用される前に、自然界のすべての現象は神々の気まぐれによって決まると考えられていたので、人間の理解に及ばないことだと思い込んでいた。もし、この「古代世界観」がそのまま続いたとすれば、現代の社会の基盤となっている現代科学技術とその基礎にある論理的思考はいつまでも生まれてこなかった可能性が高い。

論法の始まり

こうして、このような妨げとなっていた「古代世界観」を打ち破るきっかけは何だっただろうか。「論法」の始まりは数学の発展にあった。それは世界観の束縛にそれほど縛れていないので、「古代世界観」が主流となっていた古代ギリシャやペルシャで始まった。その思考を正式なシステムに初めて発展させたのはアリストテレスだった。こうして、彼は「論法の父」だったと言われている。その基本は「三段論法」だ。

「三段論法」はアリストテレスによって、開発され、その例としていつもあげられているのは以下のもの:

大前提: All men are mortal. 全ての人間は死ぬ運命にある。

小前提: Socrates is a man. ソクラテスは人間である。

結論: Socrates is mortal. ソクラテスは死ぬ運命にある。

これらの二つの前提が正しければ、その結論は必然的に正しいという結果になる。つまり、免れることのできない結論である。この同じパターンは「論理的思考」の根底にあり、「演繹法」(えんえきほう)と呼ばれている。演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法だ。

これに対して、もう一つの論法は「帰納法」と呼ばれ、個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理に導く方法だ。以上と同じような例を使うと、次のようになる。

事例収集(個々の事象):人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ。

因果関係(本質的結合関係):人間だから死んだ

結論(一般的原理):人間は死ぬ

この二つの推論方法が論理的思考に欠かせないことで、科学の進歩に重要な役割を果たしてきた。演繹的推論は「古代世界観」の中にも発展できたが、帰納推論の発展はそれによって阻まれていた。帰納推論は現代科学の基礎そのものだから、これが「聖書の世界観」の導入によって、初めて発展可能となった。なぜかというと、自然界の運行は神々の気まぐれによって支配されていると考えていたなら、個々の事象の観察によって因果関係を割り出して、自然法則を発見する働きが生まれてこないからだ。

中世ヨーロッパに発展した「神の存在を裏付ける論証」

中世ヨーロッパでは、聖書の世界観が主流となっていたため、現代科学の基礎となった帰納推論を発展させたことと同時に、アリストテレスの哲学を再発見してキリスト教の思考と両立させた。実は、演繹法と帰納法両方が現代科学に必要な推理方法なのだ。それらは相互の到達点が相互の出発点となり、到達点として獲得した論理を相互検証することで、より確実な真理に近づくことができるからだ。こういうわけで、両者は対立するものではなく、状況により選択する手段であり、適した方を使い分けてこそ真価を発揮することになる。演繹法だけに頼れば、自分の先入観や偏見のため、不適切な前提を立ててしまう可能性がある。その場合、論法上では ”正しい” 結論にたどり着くのだが、どちらかの前提が間違っているため、その結論も間違っていることになる。たとえば、科学方法を知らないアリストテレスが推理だけで結論を割り出そうとしていた。有名な例として、重いものが軽いものより早く落ちるので、二倍の重さのものが二倍の早さで落ちると結論した。実験を行なって崖から大きな石と小さな石を同時に落としたら、すぐ解ったはずだが、そうする必要があると思わなかった。これは「帰納法」の役割だ。帰納法は演繹法を検証する方法となり、その反対もそうだ。同じように、帰納法だけに頼れば、別の問題が出てくる。それは、たとえば、事例の集合が不完全である限り、いくら事例をあげても、それは正しい確率が高いものにしかならない。いつでも、例外が出てくる可能性があり、結論を引っくり返されてしまう可能性がある。こうして、演繹法を利用して、帰納法によって導かれた結論を検証できる。

では、これらを「神の存在を裏付ける論証」という課題に当てはめてみよう。

1. 「カラム宇宙論論証」

「カラム」ということばはアラビア語で「神学」という意味で、この論証は中世のイスラム教徒の学者が開発した論証である。キリスト教の文明とイスラム教の文明が対立していたのだが、このように、影響し合って、それぞれの思想を自分の思想に取り入れることがよくあったことだ。

1)始まりのある事柄には原因がある。

2)宇宙には始まりがあった。

3)従って、宇宙の原因が存在する。(従って、創造主が存在する。)

(別な観点から考えることもできる:宇宙には始まりがあったかなかったかのどちらかである。あったとすれば、それに原因があったかなかったかのどちらかである。原因があったとすれば、その原因は個性的存在者によるか機械的であるかのどちらかである。自然界の証拠を客観的に考えれば、それそれの前者が正しいだという結論に導かれる。従って、無神論が間違っている。)

この「三段論法」の二つの前提が正しければ、その結論も必然的に正しいのだ。「宇宙の原因が存在する」という結論は神学的な含意は多いにある。その結論に基づいて、その「原因」となっている存在者にはどのような特質があるか割り出すことができる。しかし、その前に、二つの前提を確かめる必要がある。

第一の前提を否定することは道理にかなわないことだ。原因なしに何かが無から存在するようになることはあり得ないという常識に基づいている。あるものが本当に原因なしに無から突然に現れてくることがあるなら、それは「マッジク」を超えることだ。魔法の場合、少なくても魔法使いがいる。たとえば、マジシャンが帽子からウサギを取り出したら、ウサギが「原因なしに無から」現れるのではない。マジシャンがいるし、帽子とウサギもある。何かの仕掛けがあり、マジシャンがそれを利用しているだけだ。だから、あるものが本当に原因なしに無から突然に現れてくることがあると考えるなら、いつでも、どこでも起こり得ることだ。しかし、このようなことは経験しないので、第一の前提が確実なものだと確信できる。

第二の前提を裏付ける強力な科学的証拠が今日にはあるが、中世の時代では、哲学的な根拠しかなかった。「宇宙には始まりがあった」という前提を証明する哲学的論拠は実際の無限大の過去の出来事の連続が存在し得ないという論点だ。つまり、因果関係に従って来た連続の過去の出来事が明らかに起きてきたので、そして、それは無限大の永遠から続けてきたことは事実上不可能だから、過去の出来事の数が有限である。ひいて、原因のない始まりがあったはずだという結論になる。過去のある時点(T=0)に原因のない最初の原因があったはずだ。

現代科学の発展はこの論証を確かなものに証明してきた。「宇宙には始まりがあった」ということを裏付ける多くの証拠があるが、主に二つがあげられている。それらは宇宙の膨張と熱力学の第二法則だ。宇宙の起源のビッグバン・モデルによると、宇宙に存在する全ての物質とエネルギー、またそれらを収納する空間と時間の次元でさえ、およそ137億年前に、「無」から存在するようになった。数多くの証拠がこの結論を確証し、その結論が説明できない観測は未だに発見されていない。

この図の縦軸は時間を表し、水平軸は空間の広がりを意味する。円錐形の一点は宇宙の始まりを表し、宇宙論では、これは「特異点」と呼ばれている。「ビッグバン」は「大爆音」という意味で、80年ほど前に提出されたこの「特異点から膨張する宇宙」の仮説を嘲るために、60年ほど前に無神論者の科学者が名付けた呼び名で、定着してしまった名称である。やはり、本当に始まりがあったなら、それを引き起こした、宇宙を超越する存在者が必然的に存在することになり、創造主なる神が確実にいるという結論になる。多くの科学者にとって、これは気に入らない結論だったので、何とかして宇宙の始まりを回避できる方法をいろいろ考えてきた。しかし、そうしようとする全ての試みが実際の観察データに反駁されたので、始まりが絶対にあったと確証されてきた。例えば、私たちの宇宙が数多くの宇宙の中の一つに過ぎない宇宙であっても、このいわゆる「マルチバース」(multiverse)全体にも絶対的な始まりがあったはずだということも証明されている。(ほかの宇宙が実際に存在することは証明し得ないことだ。観察可能な事柄はこの宇宙にあることだけで、ほかの宇宙があっても、それを検出する方法はないのだ。その存在を裏付ける証拠の割り出しがあり得るのは間接的なことだけで、未だにそれでさえ発見されていない。)

ビッグバン論がよく誤解されているので、簡単に説明する。まず、既に存在していた空間の中での「大爆発」ではないこと。宇宙の「前に」空間と時間の次元が存在しない「無」しかなかった。もちろん、この宇宙を超越する別な「次元」が存在した可能性があり、創造主の「次元」があったはずだと言える。しかし、この宇宙の次元はまだ存在していなかった。そして、ある「とき」、この宇宙のT=0の時間の始まりに、無限大に小さい空間も存在するようになり、「爆発的に」膨張し始めた。頭の中で正確に描くことができないが、風船を膨らませることに似ているとよく言われている。風船の表面(二次元)が宇宙の三次元の空間とたとえることだ。「無限大に小さい」風船はもちろんあり得ないが、その問題を別にして考えよう。宇宙空間を表す風船が膨らんで行くうちに、その風船の表面が広がって行く。風船の表面に銀河を表す点を書くと、それぞれの点がだんだんと離れて行く。その上、ある点の立場から見れば、近い点より遠い点がより早く離れて行くこと、そして、風船の表面の中心がないことも宇宙の三次元の空間をうまく例証する。こういうわけで、ビッグバン宇宙は宇宙の「中心」から「大爆発の破片」が飛び散って行くような感じではなく、空間の次元そのものが膨張して行くことで、その空間の中で漂っている銀河などはその膨張し続けている空間に流され、互いに離れて行くことだ。そして、どの場所から見ても、その立場から、自分が宇宙の「中心」にいると見えるので、実際の中心はないのだ(風船の表面にも中心がないと同じように)。これは地球の表に「中心」がないと同じようなことだ。例えば、日本の世界地図を考えると、日本がその中心に近いところに位置づけられているが、他の国の世界地図を見ると、その国が中心となり、場合によって、日本がその端にある。こういうわけで、地球そのものには中心角はあるが、その表面には中心がない。

もう一つの科学的証明は熱力学の第二法則だ。これによると、宇宙全体のエネルギーが発散され、熱が熱いところから冷たいところへと流れて行くことだ。こういうわけで、長い時間をかけて、膨張し続いている宇宙の温度が下がり続いている。ひいて、有限な時間の中で、宇宙が冷えていく存在となる。しかし、宇宙は永遠から存在するものであったなら、もう既に生命が存在し得ない光の無い、冷え切った宇宙になったはずだ。だから、唯一の結論は無限ではない過去に宇宙が始まって、現在死に向かっている途中にあるという結論になる。

こういうわけで、カラム宇宙論論証の大前提と小前提両方が確証されたものだから、その結論も必然的だ。つまり、宇宙を超越する「原因」が存在する。その上、その「原因」が意図的にこの宇宙を存在されたほかはないので、漠然とした人格性のない単なる「力」ではなく、自由な意志をもって、何かの目的のために、私たちの存在を可能とするこの宇宙を創造した神がいることになる。この存在者がこのように宇宙のすべてを無から創造できるなら、聖書に示されている神と同じ特質を持つ存在者でなければならない。これは神の存在を論証する宇宙論論証である。

道徳上の価値基準と義務に基づいている道徳上の論証

この論証を正しく理解するために、定義が必要だ。まず、道徳上の価値基準と義務の区別が重要だ。価値基準ということは対象となる事柄が善であるか悪であるかに関わることだ。しかし、義務ということは行為が正しいか正しくないかに関わる。「善」と「正しい」(また、「悪」と「正しくない」)は一見同じように見えるが、よく考えてみればそうではないと解る。「義務」は自分がやるべきことで、道徳的な責務ということだ。しかし、何かが善であるからそれをする道徳上の義務があるとは限らない。これは抽象的なことだから、これだけでその違いが見えてこないかも知れないので、具体的な例をあげよう。たとえば、医者になることは善ではあるが、そうする義務はないはずだ。やはり、その他の職業に入ることも同じような「善」をもたらす可能性もあるが、職業として選ばれるのは限られている。従って、善/悪と正しい/正しくないとの区別がある。

また、道徳に関しては「客観的」と「主観的」との区別も大事だ。「客観的」というのは人々の意見とは関係なく、それらから完全に独立していることで、「主観的」は人の意見次第だという意味である。こうして、客観的な道徳上の価値基準があるということは、人々にはどのような意見があってもそれと関係なく、対象となる事柄が善か悪かのどちらかである。同じように、客観的な道徳上の義務があるとすれば、特定の行為に対して、人々がどう思われていると関係なく、その行為が正しいか正しくないかのどちらかであるはずだ。たとえば、ナチスドイツが行なったユダヤ人の大量虐殺という極端の例を考えよう。ナチスの立場から言えば、それが正しい行動だと自分たちに言い聞かせたはずだ。しかし、その人たちがどう正当化しようとしてもそれは客観的な邪悪で、正しくなかったのだ。また、例えば、ナチスドイツが戦争に勝って、自分の思想を反対していたすべての人を洗脳して、その行動が正しかったことを信じさせたことができたとしても、それでも、邪悪な正しくない行動だったという意味になる。

では、これらの区別を念頭において、神の存在を裏付ける道徳上の論証を考えよう。この論証を三段論法として書くと、次のようになる:

大前提:神が存在していないなら、客観的な道徳上の価値基準と義務も存在しない。

小前提:客観的な道徳上の価値基準と義務が存在する。

結論:従って、神が存在する。

この論証を有力なものにするのはこの論法だけではなく、現代人が一般的に両方の前提を信じているからだ。数多くの思想や信念を持つ多様な人たちが共存しているこの時代において、自分の価値観を他者に強要することが正しくないと考える人が殆どだ。だから、道徳上の価値基準と義務が客観的な事実(つまり、人間の意見と関係なく有効な拘束力のあること)ではないと仮定する大前提が正しいと思っている。というのは、主流となっている自然主義的な進化論によると、これらのことは生物学的進化のプロセスと社会的な条件反射によって私たちに植え付けられた主観的な考え方に過ぎないことだ。

しかし、同時に、「寛容」、「愛」や「他者を受け入れること」などの道徳上の価値基準と義務が客観的な事実(有効な拘束力のあること)だとということも信じている。つまり、自分の価値観を他者に押し付けることが客観的な邪悪だと考えている。その上、殆どの人が正当な理由なしに他者を殺害することなどが客観的な罪悪だと信じている。だから、小前提も正しいと考えている。

こうして、「従って、神が存在する」という結論が成り立つ。ドストエフスキーというロシア人作家が書いた「カラマーゾフの兄弟」という小説に次の有名なことばがある。「神がいなければ、全てが許可される。」つまり、客観的な価値基準を与える人間以上の存在者がいなければ、すべてが人間の主観によってできたことで、客観性が存在しない。ひいて、「弱肉強食」という原理に従って、どんな行動をも正当化できる。このような価値観は受け入れがたいことで、その通りに生きる人間がいないだろう。だから、道徳上の論証が神の存在を力強く支持する。

宇宙の微調整に基づいている「目的論論証」

「目的論」は神が目的をもって宇宙のすべてをデザインしたと仮定する論証だ。これをいろいろの観点から考えることができる。それを一つに絞って、宇宙の微調整から考えよう。過去の数十年において、科学者が発見したのは宇宙の発展と特質を司る自然法則に含まれている数多くの定数は生命の存在を可能とするために極度に微調整されているということだ。例えば、重力の定数は重力の強さを決めることで、物体がどれほど強く引き合うことかを決定する数値だ。このような定数は法則そのものによって決まるのではなく全く独立されている定数なのだ。従って、なぜその数値で決まったかは答えのないことだ。しかし、それぞれの定数の数値が実際にある数値と少しでも違ったとすれば、生命が存在できる宇宙まで発展できなかったという結論に達している。

それぞれの定数自体の微調整だけではなく、互いの比率も極めて重要だ。たとえば、重力の定数は電磁力の定数に比べれば極めて小さいもので、その比率が実際にある比率より1040分の1以上違っていたとすれば、星が形成されない宇宙になって、地球のような惑星が存在し得ないことになる。また、「弱い核力」と呼ばれている力の場合、それが実際の数値と10100分の1以上違っていたとすれば、同じように生命の存在を可能とする宇宙になれなかった。同じような想像を絶するほど微調整されている数値がその他にたくさんある。

この事実はどう説明できるだろうか。これは宇宙の微調整に基づいている「目的論論証」の狙いだ。

大前提:宇宙の微調整を説明できるのは物理的必然性、偶然性、またはデザインのどれかしかない。

小前提:物理的必然性、または偶然性によることではない。

結論:従って、意図的にデザインされたことだ。(ひいて、神がいる。)

 まず、大前提を考えよう。生命が可能とする宇宙の微調整を説明できる三つの可能性を並べる。(この三つ以外の可能性が未だに考え出されていない。)最初の可能性は物理的必然性だ。それによると、まだ発見されていない何かの原理(法則)があり、宇宙の数多くの特徴が必然的にこの通りでなければならなかったと仮定する。その反対に、第二の可能性は宇宙が生命を可能とする宇宙になったのは単なる偶然な一致だけだったこと。(その二つのコンビネーションだったという可能性もあるが、そうであっても、この論証の論理に影響することではない。) そして、第三の可能性はこの二つの説明を両方否定して、生命が存在できる宇宙を意図的にデザインした知的存在者が存在すると仮定する。その三つの可能性のうちにどれが道理にかなう説明になるのだろうか。

小前提がその質問に答える。物理的必然性という説明は信憑性の極めて低いものに見える。というのは、それぞれの宇宙定数は自然法則によって定められていない数値で、それから完全に独立しているものだからだ。現在一番進んでいる物理理論である「紐理論」から実際の宇宙の定数を割り出せない。「紐理論」から割り出せる「可能な宇宙」は膨大な数で、10500の種類と推定されている。だから、必然性は全く見られない状態だ。同じように二番目の可能性である偶然性にも同じような問題がある。無限大に近い数多くの宇宙が存在しても、一つでも生命の存在が必要とする全ての条件が偶然にそろう可能性があまりにも小さい確率だから、偶然性だけでの説明が不合理を極める。ロジャー・ペンローズという有名な科学者が計算した確率は1010(123)分の1という思想を絶する数値だった。でも、本当に無限大に多い独立している違う宇宙が存在しているなら、我々の宇宙が偶然ではないと直接に証明できないのは事実だが、ほかの宇宙が存在するかどうか確かめる方法が全くないので、これは「科学」ではなく、「形而上学」だ。つまり、それを信じるには「信仰による」ことになり、その上、それを裏付ける証拠が全くないままで信じるしかない。これこそ「盲目的信仰」なのだ。

結局、二つの選択肢しかないことになる。裏付ける証拠がないままで、必然性/偶然性を「信仰によって」信じるか、宇宙をデザインして意図的に創造した神がいることを裏付ける数多くの証拠を受け入れて、同じように「信仰によって」信じるのどちらかしかない。これは聖書が示しているキリスト教の神であるかどうかは別な問題だ。これらの論証は広い意味の有神論を論じているだけだ。

聖書に掲示されている神であるか、また、他の宗教が考えている神や神々であるかを判断するには、それぞれの神の特徴に対する考え方が自然界に見られる証拠から割り出せる自然界の創造主にあるはずの特徴と合致するかどうかを見極めることだ。言うまでもなく、アニミズムの神々やこの世に属するその他の「神」は全く合致しないのだ。この宇宙を超越する存在でなければならないのだ。結局、これとその他の必要な特徴と合致するのは聖書の神だけだ。

Updated: 2012 年 02 月 20 日,12:22 午前

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