キリスト教の誕生

「キリスト教」という宗教集団が誕生していく過程を考察する。様々な反対や迫害を乗り越えて、生き残ったいきさつを考える。

キリスト教の布教を可能とした世界

新しい宗教(世界観)が広められて行くのに、いくつかの条件がそろわなければならない。人々が納得できる内容はもちろんだが、その信仰の内容と関係なく、広がって行く文化的社会的政治的背景に関する条件もある。まず、共通の言語が必要。その上、広い地域に広がって行く貿易制度とその制度を支える道路や海路、またその持続を可能とする政治的安定も必要。キリスト教の発祥地イスラエルの地理的位置から言えば、これらの条件が初めてそろったのはローマ帝国の時代だった。

共通する言語と政治

人類の本来の有様は何千もの異なる言語を話す数多くの民族に分かれている状態だった。現在の世界でも、その状態があまり変わっていない地域がまだ存在するが、多くの地域に英語、またその他の言語が共通語となっている。2000年前にキリスト教が誕生した世界では、ギリシャ語はその世界を結んだ共通語だった。では、その歴史的背景を考えよう。

アレクサンドロス大王(在位紀元前336年〜紀元前323年)は地中海東部、中近東全体を制服し、ギリシャ文明を広めた。帝国は長続きしなかったが、ギリシャ文明の影響が大きかった。ギリシャ語が共通語となった。アレクサンドロス大王の青年時代の先生は有名なアリストテレスだった。彼が帝国を広めていく動機の一つは、世界観として優れていると思っていたヘレニズムを広めることで、見事に成功した。

アレクサンドロス大王が作り上げた帝国が部分的に崩れたとき、エジプトを中心としていた南側の地域がイスラエルを統治することになった。アレクサンドロス大王の死後、部下であったプトレマイオス(マケドニア出身のマケドニア人)が「プトレマイオス朝」を創始した(紀元前306年〜紀元前30年)。首都はアレクサンドリアに置かれ、アレクサンドリアは地中海屈指の大都市・ヘレニズム文化の中心として繁栄した。このとき、旧約聖書がギリシャ語に翻訳され、ユダヤ人の中で広く使われるようになった。

有名なクレオパトラはエジプトの最後のパロ(王、この場合女王)で、彼女の死後、紀元前30年からエジプトもローマ帝国の一部となり、イスラエルを含む中近東全体がローマの統治下となった。ローマ自体はラテン語を使う文明だったが、それをいきなり強制するより、長い間共通語となっていたギリシャ語を利用するのは都合がよかった。こうして、安定した統治と共通語の存在はイスラエル以外の地域にキリスト教の布教を大いに助長した。

貿易の繁栄

ローマ帝国がもたらした安定性は「PAX ROMANA(ローマの和平)」と呼ばれていた。ローマ帝国の圧倒的な軍事力によって確保された和平だったが、帝国の利害関係を脅かすと判断されること以外、比較的に寛容で、宗教活動は一般的に認められていた。キリスト教誕生直前のローマ帝国では、ユダヤ教以外の宗教は全部多神教で、征服した地域の神々を自分の神々に加えることに何の矛盾も感じなかった。また、征服された地方もローマの神々を受け入れることに対して抵抗しなかったのは普通だった。ユダヤ教だけが例外だった。アレクサンドロス大王とその後継者がユダヤ人に自分の神々を押し付けようとしていたのに、強く抵抗されたので、ローマもそれに見習って、ユダヤ教を例外扱いにしていた。その民族を滅ぼす以外、彼らの宗教をあきらめさせ、帝国の宗教に合わせることができないと理解して、帝国全体に散らばっていたユダヤ人の商人などは帝国の繁栄に貢献すると判断したので、彼らにその特権を与えていた。

地中海の航海は大洋に比べれば、比較的に安全であるため、ローマ時代の前からも、貿易が盛んになっていた。それに加えて、ローマが多くの道路をも作り、陸上の貿易ルートを確保して、軍事力によって、略奪などを押さえていた。このため、それ以前になかった旅の自由を可能としてくれた。これらの条件がそろうことによって、キリスト教が素早く広い地域に広まって行くことが可能となった。

例えば、キリストがこれよりかなり早い時代に生まれたとすれば、彼が起こした運動は長い間、狭い地域にとどまり、その勢いを失ってしまった可能性が高かっただろう。直接にキリストと出会った弟子たちが死んだずっと後の時代にその働きを委託することになったので、狭いユダヤ教の枠を破る気力が生まれてこなかったかもしれない。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラテヤ4:4 )

キリスト教が広まっていく世界の背景:ヘレニズム

「ヘレニズム」は古代ギリシャ文明の世界観だったが、以下の面に対して、古代ローマの世界観は基本的に同じだった。実は、聖書の世界観(ヘブライズム)を持つユダヤ教徒以外のすべての古代人はこれらのポイントに対して、共通する理解があったと言える。これを「古代世界観」と呼ぶことにしよう。キリスト教が誕生した世界では、これらの二つの基本的な理解が対立していた。言うまでもなく、ヘレニズムの方は圧倒的に有利に見えたが、キリスト教の広がりによって、ヘブライズム的な思想が採用されるようになり、現代の世界の基盤となった。

ヘブライズム対ヘレニズム:中心的な思想(世界観)

ヘレニズム

1.世界が永遠からの存在(神々が既に存在していた物質から世界を作った)

2.自然界は神々の気まぐれによって運行される;ひいて、理解し得ない

3.物質的な世界を否定的に考えた

4.身体は永遠に存続する霊魂の「監獄」;来世は身体からの解放

5.真理の根源は人間の知性

6.崇拝される神々は人間と似ている(神々は人間にかたどって「創造」(想像)された)

ヘブライズム

1.世界は無からの創造された(神だけが永遠から存在していた)

2.自然界は神が定めた法則によって運行される;ひいて、理解し得る

3.物質的な世界を肯定的に考えた(「神はこれをみて、よしとされた」)

4.人間は身体と霊魂の合体で、来世には朽ちることのない新しい「身体」を受ける

5.真理の根源は神のみ

6.神は人間と根本的に違う;人間は神にかたどって創造された

キリスト教の誕生

言うまでもなく、キリスト教の誕生はキリストの誕生と生涯にかかっている。人類の歴史において、この人物より不思議な存在はないと言える。「イエスは何者だったか」という問いかけに対して、すべての思想が答えようとする。ほとんどの宗教はイエスを何らかの形で取り入れようとする。「偉大な予言者」や「神々の化身の一人」などにすることが多い。無視することのできない存在だから、その存在を裏付ける歴史的証拠を否定して、ただの作り話にするか、また、目撃証人の証言を否定して、自分の思想に合わせる描写に変えるかのどちらかは一般的だ。この人をどう理解するかは始めから問題されていた。

イエスは…弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。(マタイ16:13-16)

この告白に対して、イエスは教会の誕生を宣言した。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(岩=揺るぎない告白)その実現は復活後50日経ってからのユダヤ教の祭日「五旬祭」(ペンテコステ)だった。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。(2:1-8)

続きのことばによると、このキリスト教の最初の「誕生日」に3000人ほどの人が加わり、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(2:47)

迫害を耐えて増え続いたキリスト教

先週の講義で回心する前のパウロ(サウロ)が指導したユダヤ教による迫害を見たが、最初はそれが受けていた迫害の中心だった。しかし、その後、キリスト者が受けた迫害はローマ帝国の権力者から受けた方が中心となり、それは長期的に続いていた。皇帝によって、キリスト教に対する待遇がかなり異なったが、一般的に言えば、ローマ帝国は地元の宗教に関して、寛容的であった。帝国の方針は新しい地域を征服した場合、その地域の神々をローマの「パンテオン」(ローマが祭っていた全神々:日本の「八百万の神」に相当する)に加えて、多くの場合、ラテン語の新しい名前を与えた。その例外はユダヤ教徒で、彼らがローマの神々を崇拝するのを極度に拒んでいたので、緊張があった。それでも、彼らの一神教の宗教とそれに伴う伝統を寛容に扱うことは無難な統治方法と考えていた。しかし、皇帝によって、待遇が変化した。最初の大きな迫害はカリクラ(37-41)による。そして、ネロ(54-68)の統治の終わりの方に、反乱が起こり、それを完全につぶすように、ローマ軍がエルサレムを攻撃、やがて、70年に神殿を破壊した。それ以来、1948年まで、イスラエルという国が存在しなかった。70年以降、ユダヤ人にはユダヤ教を捨てない限り、特別な税金を治める義務が課せられた。その税金を払うなら、ユダヤ教を続けることが許可された。

初期のキリスト教はまだユダヤ教の一派として考えられていたので、ユダヤ教徒とキリスト教徒がカリクラによる同じ迫害を受けていた。しかし、ネロの時代になった時、キリスト教徒のみの迫害が始まった。64年に大火事が起こり、ネロ皇帝自身が放火したという噂が広がっていた。タキトゥスというローマ人の歴史家が書いた記録によると:

「噂の矛先を変えるために、ネロは忌み嫌われていた『クリスチャン』と呼ばれていたグループにその責任を負わせ、強烈な拷問の刑に定めた。キリストゥスという人物からその呼び名が由来するが、彼はチベリウス支配下の我々の代官ポンテオ・ピラトの手によって苦しみの代価を支払うことになった。こうして、この厄介な迷信は一時的に止められたが、この悪の発端であったユダヤだけではなく、ローマにも勃発してしまった。やはり、ローマには世界中の憎むべき、恥ずべき思想が集中してしまい、人気を集めるところだ。最初に有罪と定められた者たちから情報を集めてから、大勢の人が有罪判決を受けた。しかし、それは放火の罪よりも、人間の増悪の故だった。捕まったある者たちは獣の皮を着せられ犬の群れに食い殺された。ある者たちは十字架に釘づけにされ、ある者たちは日の沈む頃から夜空を照らす松明の代わりとして燃やされた。そして、彼らの死ぬ前にはありとあらゆる罵倒、嘲笑、侮辱が加えられた。ネロはサーカスとショーを催すために自ら宮廷の庭を民衆に開放し、民衆と一緒になり御者の服装をして馬車の上に立ってその光景を楽しんだ。このような訳で、実際の犯罪人でさえもクリスチャンに深い同情と悲しみの念を抱いた;彼らが捕らえられ滅ぼされたのは公益の為ではなく、一個人の残酷な欲望を満たす為であった。」

ドミテイアヌス(89-96)

聖書の最後の本である「黙示録」はこの時代に書かれたと考えられている。迫害の故に、ヨハネはパトモス島に追放監禁されていたとき書かれたと記されている。

ネルウァ(96-98)

70年以降課せられていたユダヤ人税が改革され、キリスト教徒に免除されるようになった。これで、正式にユダヤ教の一派ではないと認められるようになった。ネルウァから「五賢帝」の時代が始まり、2世紀の大部分に渡って、キリスト教は禁じられてはいたが迫害は比較的に少なかった。 セプティミウス・セウェルス(193−211)

202年に皇帝の勅令によって、帝国全体にキリスト教への改宗が全面的に禁じられた。この時まで、帝国の所々に、地元の権力者によって、迫害が起きてはいたが、全面的な迫害ではなかった。しかし、キリスト教徒の人数と影響力がだんだんと多くなって、権力者の危機感が増してきた。「殉教者の血は教会の種となる」という標語はこの時期に生きていた「教父」となったテルトゥリアヌスによる有名なことばだった。彼自身も殉教者の勇気と無抵抗の純粋さに感銘を受け、キリストを信ずるようになったと説明していた。

デキウス(249−251)

キリスト教の伝道者や指導者向きの迫害だけではなく、平信徒を含む全てのキリスト教徒を撲滅しようとした徹底した迫害が始まった。江戸時代の日本の「踏絵」と同じような手段をとり、自分がキリスト者ではないことを証明するために、帝国の役人の前で、皇帝に供え物を捧げて崇拝することが義務づけられた。そうすれば、証明書が与えられたが、拒んだら、死刑。一般市民は殉教者の勇気と非暴力的抵抗に感銘を受け、政府の暴力を非難した。翌年、デキウスが戦死し、迫害が一時的に治まった。しかし、教会に与えた影響が大きかった。圧力に負けて、証明書をもらった人たちを赦して、受け入れるべきかどうかの議論があり、圧力に負けて背教した人たちが悔い改めても、教会に受け入れないグループがいたが、大半の場合、受け入れた。しかし、その議論が5世紀にかけて続いた。殉教すれば、「永遠の冠」を受けると美徳化されていた。

ディオクレティアヌス(284-305)

ウァレリアヌス(253-260)の時代にも、迫害が再び強まったが、一番ひどい迫害はキリスト教を受け入れたコンスタンティヌス皇帝の直前に起きた。帝国を統治しやすいように、ディオクレティアヌスが帝国を東と西に分けて、マクシミアヌスを西の方の皇帝に任命して、自分が東の方に専念した。そして、二人が協議した上、それぞれの後継者を選び、更に領域を分けて、四つの王国を作った。これで、四つの皇帝が同時に統治するようになった。コンスタンティヌスの父コンスタンティウス1世はその一人であって、北の方を君臨した。303年に、ディオクレティアヌスと他の三人の統治者が全てのキリスト教徒の法的な権利を撤廃して、伝統の神々の崇拝を強制した。これは最後の大迫害となった。ディオクレティアヌスの死後(305)、混乱が続き、結局、306年にコンスタンティヌスが西帝国の皇帝となり、キリスト教徒に奪われた権利や財産を復帰させた。そして、308年にリキニウスが東帝国の皇帝となり、313年にコンスタンティヌスの姉妹を結婚し、お祝いとして、コンスタンティヌスと一緒に「ミラノ勅令」を下した。この勅令は宗教の自由を宣言して、正式な「迫害の終わり」とされている。

コンスタンティヌス大帝(306-337)の改宗

コンスタンティヌスの「改宗」は312年とされているが、聖書的な信仰への回心とはほど遠いものだったと言わざるを得ない。伝説によると、ローマを支配していたマクセンティウス皇帝と戦った「ミルウィウス橋の戦い」の直前にコンスタンティヌスが天に幻を見た。その内容は、太陽の上に、光の十字架と「この印によって、征服せよ」という意味のギリシャ語のことばを見た。こうして、兵士たちの盾に”Chi-Rho”(カイ・ロー)の印を書くように命令した。

それは「キリスト」をギリシャ語で綴る(ΧΡΙΣΤΟΣ)(クリストス)の最初の2つの文字に構成される、キリスト教徒が使っていたシンボルでした。そうするように、勝利を得たと信じていたので、通常のローマの神々への捧げものの儀式に参加しなかった。

しかし、大半の影響力のある上階級の人たちはまだ多神教徒だったので、キリスト教をすぐ表に出さなかった。この勝利によって、コンスタンティヌスは西帝国の唯一な皇帝となり、324年に、東帝国をもこの同じシンボルのもとに征服し、帝国を再び統一した。

コンスタンティヌス大帝とローマ・カトリック教会

最初のクリスチャン皇帝として、キリスト教の歴史にコンスタンティヌスが極めて大きな影響を与えた。現代の立場から言えば、その影響はすべていいことではなかった。というのは、そのときまで、完全に結びついていた国家と宗教を切り離したのではなく、宗教を入り変えただけだった。「政教分離」という思想は本来のヘレニズムとヘブライズム両方にはなかった。ですから、「国の宗教」として、キリスト教が優勢となるのは時間の問題だけだった。コンスタンティヌスの時代に、キリスト教会が国家の賛助を徐々に受け、そして、キリスト教徒になることに対しては迫害される危険性が殆どなくなっていたので、キリスト教が人数的にどんどんと伸びた。しかし、前と違って、形だけのクリスチャンになることは多くなり、数が増えても、質が落ちるという傾向が出てきた。

皇帝として、コンスタンティヌスは社会の安定を重視し、不安定さをもたらすような宗教論争を避けたかった。従って、「正教」を早く確立したいと考えていた。何が正しい信仰であるかは教会の司教が決めることで、その「正教」を助長して守るのは自分の役目だと理解していた。

こうして、325年に「ニカイア会議」という認定されたキリスト教の最初の全教会会議が招集された。最初の「全教会会議」は「エルサレムの使徒会議」で、およそ紀元後50年ごろに行なわれた。(使徒言行録15章)そして、迫害があまりなかった時代にも、信条に関わる問題点を話し合う会議はいろいろあったが、ローマ帝国全体に及んだ全教会の代表者が集まるのは、これで初めての会議だった。しかし、北アフリカのコプト教会や中近東より東の方に広まっていた東洋キリスト教などは含まれていなかった。

キリスト教会がこのように誕生して、世界に広まって行った。

江戸時代の日本での迫害との違い

西洋のキリスト教が日本に来たのは1549年だった。それ以降50年あまり、急速に勢力を延ばしたが、江戸時代の始まりとともに、幕府の鎖国政策の実施と共に、「キリシタン」が厳しく迫害された。ローマ帝国時代の迫害では「殉教者の血が教会の種」となり、キリスト教の勢力が強くなったのに、江戸時代の日本では、それと逆だった。何が違っただろうか。

一番大きな違いはローマ時代では、迫害が一時的で、部分的だったことに対して、江戸時代の日本では、徹底したものだったこと。小さい島国の日本では、国内の逃げ場が殆どなく、潜伏して、「隠れキリシタン」になる他はなかった。しかし、ローマ帝国は様々な民族を統治していた広い帝国だったので、日本と同じような徹底した迫害が実施しにくい状態だった。それぞれはほぼ同じ年数(250年以上)続いていたが、日本の場合、その迫害を一時的にでも緩めることなく徹底したことに対して、ローマ帝国では、迫害が緩んで、殆どなかった時期はその半分ぐらいの期間だった。その上、迫害が厳しかった時期にでも、広い帝国の中では、あまり及んでいなかった地方もあった。また、日本のような徹底した迫害がごく一時的なことで、迫害が実施されていた時期に、多くの場合、一般信者を狙ったのではなく、指導者のみだった。そのため、「殉教者の血は教会の種」となった結果だった。しかし、日本の場合、「教会の種」となるはずの「殉教者の血」が日本という「泥沼」に飲み込まれ育たなかったと言える。

Updated: 2012 年 02 月 20 日,12:16 午前

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