最後のもの?それとも、最後まで残るもの?


2012年1月29日; マルコによる福音書13章3~13節

(Kobe Union Churchで話された英語の説教の翻訳)

それが一個人であれ、グループであれ、「世の終わりが近づいている」とは、かなり以前から様々な人々が口にしてきたことです。皆さんも覚えているでしょうが、昨年はハロルド・キャンピングが大騒動の渦中にいました。5月21日に再臨が起こり、その後地上は艱難時代を経て、10月21日に世の終わりがやって来るとキャンピングは主張したのでした。そして今年も、「気掛かりなこと」がまた一つ。古代マヤ文明の暦によると、来たる12月に地球は滅亡すると予言されています。では、2013年はどうでしょう?似たような予言が成されたとしても、驚きませんね。要するに、先のことを知りたがる傾向が私達人間にはあるのです。ですから、そのような情報の持ち主だと主張する者は自然と注目の的になってしまうわけなのです。

聖書の教えは、はっきりとしています。この世はいつの日か終わりが来ると。その時、神は私達のよみがえった体が宿るためのまったく新しく素晴らしい世界を創造される。さらに聖書には、その大変革が起こる中、私達が知るこの世はどのような過程をたどるのかについての説明が記されているのです。問題は勿論のこと、この変革の過程について個々の聖書の著者に与えられた幻が、いろんなしるしや表現を通して私達に説明されているということ。そして、それらのしるしや表現はいろんな方法で解釈できるのです。ですから、物事の展開が実に様々なふうにキリスト教徒によって解釈されていることも不思議ではありません。

では、私達は一体、これらすべてをどう受け止めれば良いのか?クリスチャンは如何にして、「終末」に関する聖書の教えをとらえれば良いのでしょうか?言うまでもなく、決して扱うに安易なテーマではありません。なぜなら、これら聖書の箇所がどのように理解されるべきかについての見解は大きく異なり、強く信じられているものも多々あるからです。私が今日、このテーマを挙げた狙いは?すべての答えが、あたかも私自身にあるが如く、決定的な意見を示すためではありません。私には答えなどないのです。聖書には、「終末論的な」文献と呼ばれる箇所がかなりあり、それらは主に旧約聖書のダニエル書や新約聖書のヨハネの黙示録ですが、私自身、理解するのはとても難しいと感じています。そのようなわけで、私が目指したいことは次のとおり:まず、このテーマをどう把握すれば良いかのヒントを差し上げること。次に、聖書や神のご計画全体の枠組みでその目的を如何に理解すべきか。そして、私達が目下置かれている状況にどう関わっているのかを伝えられれば幸いです。

黙示録を通読された方は、理解に苦しむ箇所が多々あることとご存知でしょう。要するに、黙示録とは、使徒ヨハネがその晩年、ギリシャのパトモスに島流しとなった際、そこで見た数々の幻の記録なのです。竜のような生き物、火の池など、その内容はほとんど奇妙な夢のようで、象徴的な数字や出来事が多々記されています。しかし、この書の全体的なパターンはどうでしょう?地上で人々が裁きを受ける「血みどろ」な場面が所々ある中で、天国の場面も数々散りばめられています。そこでは神と「子羊」であるイエスが大いなる喜びを持って崇められ、褒め称えられているのです。そして、クライマックスは、「新しい天と新しい地」が実に麗しく描かれています。

聖書のその他の箇所にも終末に関連する重要な聖句が幾つかあり、今朝の聖書朗読の箇所「マルコによる福音書13章」もその一つですし、マタイやルカによる福音書にも関連箇所がありますが、間違いなくそのすべてを最大限に包括する箇所はダニエル書や黙示録にあります。ダニエル書の設定は、紀元前550年代の頃。当時、ユダヤの民は奴隷としてバビロンに連れて行かれました。この書には、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが燃え盛る炉に投げ込まれても無傷で出て来られた話や、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた話など、よく知られている話も記されています。ただし、この書の大部分には、ネブカデネザル王が見た幾つかの夢のこと、そしてそれらの夢に対するダニエルの解き明かし、さらにはダニエル自身の幻が綴られています。

これらすべては、来たる国々を意味し、最終的には世の終わりと新しい世が築かれることにつながるのです。例えば、ネブカデネザル王の第一の夢。その夢で王は、頭が純金、胸と両腕とは銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄でもう一部は粘土でできた像を見ました。その像は、大きな石に撃たれ、その像を撃った石は大きな山となって全地に満ちました。

すると、神はダニエルにこの夢の解き明かしを与えるのです。金の頭はネブカデネザル王自身であり、その他の体の部位は後に起こる帝国、つまりペルシャ人、アレクサンドロス大王、そしてローマ(すねは鉄なのに足を構成するのは弱い素材)と一般的に考えられています。像を撃ち、その後大きな山となる石は神の御国を表し、教会そのものの霊的王国と言えるでしょう。

いずれにせよ、この夢はダニエル書ならびに黙示録のどちらでも扱われている文献に代わっているのです。言うまでもなく、これらの聖書の箇所は本質的にとても象徴的であり、世界の歴史の出来事から終末までの重要なテーマを語っているので、あらゆる極端な人達により、いろんな方法で乱用されがちになってしまいます。白い髭に白い衣服をまとった男が「悔い改めよ、終わりは近い!」と書いた紙を掲げた陳腐な姿が漫画などで描かれたりしますが、そのような人達がいると聞いたことは誰にもあるでしょう。そういう人と実際に話したことがある方もいるかもしれません。勿論、このステレオタイプ(固定観念)のような表現が言わんとすることは、ある意味で「悔い改め」という行為の重要性。つまり、間違った姿勢や行いをやめて、神に目を向けることは、いつ何時においても手遅れではないということです。

ただ、歴史を振り返ると、社会やその悪から離れ、どこか遠いところで身を隠し、終末を待つべきだと考えた人達もいました(勿論、その人達は世の終わりはすぐに訪れるものだと理解していました)。キリストの誕生以前でも、一部のユダヤ人にはエッセネ派という人達がいました。その人達は、自らを取り巻く堕落した世界から離別し、イスラエルにて神の御国の復興に一役買うことを望んでいました。しかし、彼らが居たからこそ、あの有名な「死海写本」が今日の世の中に存在しているわけです。「死海写本」とは旧約聖書の様々な書物の古い写本集であり、どのように聖書の書物が時を経てもなお正確に伝えられたかを明確に表すものなのです。ですから、自らが想像もつかなかった方法で神は確実に彼らを用いたのですね。

同じく、イエスの弟子達でさえも、主が再び来られる日が早ければ良いと考えていました。だからこそ、新約聖書の手紙を見ると、その心境が幾つかの箇所に綴られています。弟子達はまず、時の終わりとキリストの再臨が、自分達が生きている間に起こると思っていました。勿論、後になると、それは神のご計画でないことに徐々に気づき出したのですが・・・。

それから約2000年間も、教会の歴史においては、エッセネ派と似たような様々な動きが起こり、ここ数世紀の間に特にありました。中世の時代、終末の預言に重きを置いた動きが大々的に起こったかどうかは知りませんが、世の中の悪から逃れるために修道院に引きこもる動きが盛んであったことは確かです。カトリック教会ならびにヨーロッパの国教会では権力構造が極めて中央集権的だったため、このような預言重視の動きに好適な温床にはなりませんでした。そういう動きは基本的に、アメリカ系プロテスタント主義や他地域での同様の状況下にあるはるかに地方分権的な教会で生まれました。

1840年代、ウィリアム・ミラーという名のニューイングランド地方(アメリカ東海岸)の農夫が聖書を(勿論、とりわけダニエル書と黙示録を)徹底的に研究し、自身が生み出した予測を元に、エズラのエルサレムへの帰還(紀元前457年)から厳密に2300年後にキリストが地上に戻って来られるのだと確信したのです。また、大勢の人にも、キリストの再臨が1844年10月22日に起こるのだと説得しました。その結果、多数の人々が白い衣を身に纏い、主と会うために天に引き上げられるのだと胸を躍らせながらニューイングランド地方の山の頂に立つという一大事へと発展しました。

しかし、期待したことが起こらないと知ると、彼らにとっては多少厄介な事態となってしまったので、唯一の解決策として事のすべてを霊的にとらえるようにしたのです。つまり、キリストはその運命の日、彼らが予期していた地上の聖所ではなく、ただ単に目に見えない天の聖域へ入られたのだと言うようになりました。この出来事は、新たな教派を生む結果となり、セブンスデー・アドベンチストが誕生したのです。この教団は土曜礼拝、食事規定など、その他独特の規則に重きを置いています。ただ、回り道をしたとは言え、近年ではキリスト教の主流に戻りつつあります。しかし、その分派であるエホバの証人はまったく別物。なぜなら、エホバの証人のキリストに対する考え方やその他重要な教義はあまりにもクリスチャンの理解とかけ離れているので、キリスト教の一部と正当に呼べることはあり得ません。ここ日本でも殆どの方が体験されていると思いますが、熱心なのに間違った信仰を持つ人達がお家に訪ねて来たりしますね。エホバの証人のみならず、モルモン教や統一教会もそうですが、このような宗教団体が自分達を「クリスチャン」と呼ぶことは、日本人の間でかなりの混乱を引き起こしてしまうので、キリスト教の教会にとって大問題です。

ただ、クリスチャン的考えでさえ、教派を問わず、聖書に対する真の総体的な視野が欠けていることがよくあると認めざるを得ません。「リベラル派」でさえ、「原理主義者(キリスト教根本主義者)」とそう変わりないのです。というのも、リベラル派は社会自由主義など、自分達の価値観を裏付ける聖句だけに焦点を合わせているからです。私自身、幾分リベラルの傾向がある「主流派」教会の出身です。少なくとも、教職レベルではそうでした。とにかく、教会全体としては、この聖書の預言という全分野を殆ど取り扱ってはいませんでした。そういう分野は、「原理主義者」と称される人達の専門となりがちで、当然ながらあからさまに「マインドコントロール」を行う異端宗教団体の得意分野にもなってしまいました。しかし、そうであってはいけないのです。聖書のこれらの箇所は、聖書全体の一部なのですから、全体の文脈の中において理解されなければなりません。

この50年ばかりの間、聖書の預言への関心が復活した中、このテーマを扱う一般へ向けた書籍が多く出版されたり、映画なども公開されました。90年代後半に大ブームを巻き起こし、人気を博した「レフト・ビハインド」シリーズ(全16巻)をお読みになられた方も皆さんの間にいらっしゃると思います。実際、1998年には、そのシリーズの4巻すべてがニューヨークのベストセラーに同時に名を連ね、第一位から四位までを占めました。また、現在、そのシリーズの総売上数は、6500万冊以上となります。この小説はフィクションです。しかし、聖書の預言や、「審判の日」にキリストの再臨が起こる間際の「7年の艱難時代」の初めに起こる「携挙」の直前と直後のこの世の様子などを正確に描写した物語が綴られていると主張しています。

終わりの日を題材とした映画や書籍などには、また後ほど触れましょう。ただ、その前に、「携挙」という出来事は?一体、何を意味するのでしょう?これに関する最も明確な教えは、普通に考えると、聖書の預言の箇所にあるだろうと思ってしまいそうですが、そうではなくパウロによるテサロニケ人への第一の手紙4章16~17節にあるのです。ここでパウロは、主が来られる日について述べています:「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」

この言葉を見れば、クリスチャンはなぜ、自分達が突然雲へ飛んで行く姿を思い描いたのかがすぐに分かります。また、マタイによる福音書24章で、イエスはご自身の再臨について「力と大いなる栄光とをもって、天の雲に乗って来る」(30節)と語られています。さらに、40節と42節では、「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう・・・だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたは、わからないからである」とも述べられました。

その日がどうなるか、想像による説明を聞かれたことがあるでしょうか?例えば、クリスチャンのパイロットや運転手が突然消えてしまう中、それらの乗り物を操縦したり、運転する人がいなくなったため、ジェット機や自動車があちらこちらで墜落したり衝突したりするというようなゾッとする場面を描いた人もいます。なんたる大混乱でしょう!そして、残された者達は、状況を合理的に理解するため、きっとUFO(ユーフォー)の攻撃によって何百万もの人々が連れて行かれたのだろうと考えるのでしょうか?皆さんは、どう思われますか?

ところで、「携挙」や「艱難」などに現実味が全くないと私は一瞬たりとも示唆したくありません。聖書の教えは明確で、この時代がキリストの再臨によって幕を下ろす時、何らかの極めて劇的且つ珍しい出来事が起こると述べられていますが、具体的にどのような展開になるかは大まかに、そして象徴的にしか語られていません。ただ、神がある日、この世界の歴史へ劇的に介入し、悪なるもの、義に反するものすべてを滅ぼされるという事実こそ、私達の大いなる希望です。この先がいかに悲惨に思えても、何もかもがなすすべもなく究極の危機へと向かっているように見えたとしても、それでもすべてを手中に収められているのは神であり、最終的にご自身と和解させるのだと私達は知っているのです。

ですから大体、このことについて、私が最も不快に思うのは、聖書の預言を力説する方々がこれらの預言がどのように成就されるかの細かい点を非常に独断的に解釈しがちであり、当然ながら「聖書の教え全体」をバランスの取れた視点で見ていないという点です。40年以上も前の話ですが、私が大学生だった頃のこと。当時、私は聖書の預言に関心をもち、このテーマを扱う本が手に入れば何でも熱心に読んでいました。ハル・リンゼイの著書「今は亡き大いなる地球」(現題:"The Late Great Planet Earth")は、とりわけその頃の私の心を掴みました。この本や、これと似たような作品は、象徴的なものを一つ一つ取り上げ、今世界の特定の国、場所、あるいは人物と直接結び付けています。例えば、黙示録で語られる7つの頭と10本の角を持つ竜は、この本によると、明らかにヨーロッパ共同市場だとか!しかし、そうでしょうか?当時、EC(欧州共同体)に加盟していた国は9つしかなかったのですが、もう一カ国が加わり、10カ国(つまり、象徴的に言えば「(10本の)角」)となり、本部はローマ(「7つの丘の町」)に移されるのだと、この本は述べていました。まあ、リンゼイ氏には残念なことですが、本部は未だにブリュッセルにあります。また、今日の欧州共同体の加盟国数は「角」の数より多く、10カ国以上を上回っています。同様に、「北の王」は「悪の帝国」であるソビエト連邦だという説得力のあるような意見も綴られていましたが、そういう点も差し当たり打ち倒されてしまいました。もしかすると、物事はこれから変わって行くかもしれないので、結局そのようなしるしは現実となるかもしれません。可能性としては極めて低いでしょうが、私だって偉そうに、そう断言したくありません。

ただ、イエスの時代の人々も、メシアが最初に来られた時、期待すべきことを知っていたのでしょうか?彼らは聖書に詳しかったにもかかわらず、これから何が起こるかについて完全に誤解していたのです。メシアの到来に関する数多くの預言では、その救い主は身分の卑しい者として来られ、人に捨てられ、殺されると、当時の人々が目の当たりにできるほど明らかに書かれていました。しかし、それらの預言がイエスを通して成就された後でしか、彼らはやっと結びつけることができませんでした。イエスの再臨に対する預言やそれにまつわるすべての出来事に関し、私達も現実に同じ状況にいます。ただ、ある程度、私達のほうが少し有利かもしれません。というもの、当時はメシアの最初の到来も二度目の到来も未だ成就されていないものでしたから混同されがちでした。しかし、私達がその二つを分けて考えることができるのは、(この時代では)最初の到来に関する預言が、イエスキリストが来られたことにより既に成就されているからです。その反面、イエスの時代の人々には、(最初の到来と二度目の到来の)違いを見分けることが難しかったのです。同じく、現に終わりの日に近づくにつれ、これらの預言がどのように成就されるかをさらにはっきりと理解することができるでしょう。ただ、その1世紀のユダヤ人を見て、私達は、謙遜さの教訓を得なければなりません。どのようにこれらの預言は成就されるのか?神はきっと、私達をあっと言わせるかもしれませんよ。

先にも述べましたが、キリスト教の戒めでは最後の時代がどのように展開するかについて多くの解釈がなされてきました。ここで私から皆さんに、それらの解釈のうち、主なものを幾つか簡単に紹介させて頂きます。それらがどのように「携挙」、「艱難」、「千年王国」、そしてキリストの再臨などの考えを扱っているのかをざっと説明しましょう。「千年王国」とは黙示録に出てくる記述で、最後の審判の前に起こる「キリストの千年統治」のことです。言うまでもなく、一部の方々はこれを単に象徴的な数字ととらえ、文字通り1000年間だとは考えていません。この見解は「無千年王国説」と呼ばれ、「後千年王国説」という別の視点(こちらは文字通り1000年間だと考えていますが)と共に、この期間は最終的に、キリストの再臨と全人類に対する最後の審判へと至るのだと理解しています。

その反面、「レフト・ビハインド」シリーズや同類の描写・説明は、「前千年王国説」という別の立場から物事を見ています。ただ、この見解においても、「携挙」や「艱難」に関しては基本的に種類が3つあります。まず、「艱難前携挙」。そして、「艱難中携挙」と「艱難後携挙」。とても複雑に聞こえますね!最も一般的なものは「艱難前千年期前再臨説」と言い、これはたくさんの人達のお気に入りです。なぜなら、恐るべき艱難時代が始まっても、真のクリスチャンは難を逃れ、その他の人類と共に苦しみを味わわなくて済むのですから。つまり、一種の現実逃避ですね。

勿論、私はそのような考えの持ち主ではありません。むしろ、疑っています。その理由の一つは、19世紀半ばまで、そのようなふうに誰も聖書を解釈していなかったからです。それが聖書ではっきりと教えられていたとすれば、どうして教会の歴史の最初の1800年間、誰もそのことに気づかなかったのですか?勿論、それだけで必ずしも間違っているとは言えません。ただ、いつだって誰かが新たな神学的展開を主張した場合、私達は少しばかりは危ぶむべきですし、少なくとも聖書の教え全体と照らし合わせてみなければなりません。

様々な見解をここで細かく語る時間は勿論ありませんし、実際どれが本当に正しいのか私には分かりません。ただ、どの見解も、まったく問題を抱えてないとは言えないのです。あなたはどの見解を信じていますか?と聞かれると、私は冗談半分に、「パン千年紀再臨説」と答えるでしょう。要するに、「最後にはすべて上手く行く(pan out = パン・アウト)」ということ。ある種のジョークですが、それでも神学論としては悪くないのではないですか?私達は、事実を正しくとらえなければなりません。つまり、まず第一に、神が最後には悪の力に打ち勝つということを知ること。神は私達に物事の大筋しか与えてくださいませんでした。しかるべき時にキリストは再び来られ、その時は力と栄光に満ちて来られます。悪は打ち破られ、 全く新しい世界での永遠の存在がもはや苦しみも悪も無き状況を迎え入れるのです。誰が勝つか、私達は知っています。そして、私達自身も勝ち組にいるのだと確信を持って良いのです。従って、これからについての預言や、それらの預言が今日の私達に何を語っているかを学ぶことは大切だと感じます。ただし、誰が?いつ?どのように?をすべて理解しようとしてはいけません。むしろ、キリストの再臨への希望と、今も後の日も主に仕えることができる勇気を心に絶やさないよう学ぶことが大事です。先ほど一緒に読んだテサロニケ人への手紙の第一ですが、パウロは続けてこう言っています:「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」(18節)。

ところで、この説教を考えていた時ですが、テレビから懐かしい曲が流れてきました。「ケ・セラ・セラ」。スペイン語ですかね?「ケ・セラ・セラ。なるようになるわ。先のことなど判らない。判らない。」私は、ふと思ったのです。「ケ・セラ・セラ終末論はどうだろう?」と。神学的用語をよくご存知なければ、「終末論」とは終末のことを対象とした神学です。「先のことなど判らない」― 少なくとも、細かいことなんて分かりません!勿論、聖書の語ることを通して、「全体像」を見ることができます。しかし、細かいことは神に任せませんか?そして、今日の生活で何が一番大切かに目を向けましょう。

これからのことをすべて知りたいという望みや、黙示録などで見る聖書の正確な意味を紐解く鍵を見つけたいという願望は、当たり前の気持ちです。ただ、そうすると、これらの聖書の箇所が語りたい真の目的を見逃してしまうかもしれません。私がこの説教の題名に選んだ「最後のもの?それとも、最後まで残るもの?」は質問形式ですが、もうすでにどちらに重きを置くべきか皆さんはご存知ですね。「最後のもの」とはつまり、終わりの時代の預言を学ぶこと。これは私達がよく把握すべきことです。しかし、本当に大切なのは、「最後まで残るもの」なのです。かつて、ある人がこのように言いました:「まるで今日キリストが帰ってこられるかのように毎日の生活を送るべきだが、その再臨はまだ先のことと思い将来の計画を立てるべきでもある。」そのように、キリストが再び来られることは私達の大いなる希望で、その希望に基づき人生を生きるべきです。しかし、神が創造されたものをいつくしみ、どのような状況でも主の働きを行う責任も私達には与えられているのです。従って、それが如何なる教えであれ、どうせ終わりがすぐに来るのだから世の中の問題を解決したって仕方ないというような趣旨のものを神様はお喜びにはなられません。

ですから、どうか皆さん。いつか神が「新しい天と新しい地」を創造されるために人類の歴史に劇的に介入され、すべての悪や苦しみを拭い去られることに大いに期待して行きましょう。そして、その偉大なる日を忍耐強く待つ中で、責任ある人生を生き、正しいことや良いことを行う努力を惜しまず、キリストの再臨を待ち望む心で互いを励まし合いましょう。そのような神との関係、またこの世の兄弟姉妹との関係こそが、「最後まで残るもの」なのです。そのような関係を築くための皆さんの励みに、どうか神の祝福がありますように!

賛美歌を歌い、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。この賛美歌は黙示録に基づいており、ようやく主と会えるその時を待ち望む希望が私達にあるということを語っています:「子羊をばほめたたうる」(現題:"Crown Him with Many Crowns”)を共に賛美してまいりましょう。

「子羊をばほめたたうる」 (日本語歌詞)

子羊をば ほめたたうる

妙(たえ)なる物の音(ね) 天(あめ)に聞こゆ

いざ御民(みたみ)よ、恵みの主に

栄えの冠(かむり)を 献(ささ)げまつれ

御使(みつか)いらも うち伏すまで

我が主の御傷(みきず)は 照り輝く

いざ御民(みたみ)よ、救いの主に

栄えの冠を 献げまつれ

戦い止(や)み 矢叫び絶え

祈りと歌との 声は響く

いざ御民(みたみ)よ、平和の主に

栄えの冠を 献げまつれ

空の極み 地の果てまで

みいつの光は 照り渡りぬ

父とともに 治(し)らす君に

栄えの冠を 献げまつれ

Updated: 2012 年 09 月 16 日,12:38 午前

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