国々に主の栄光を語り伝えよ


国々に主の栄光を語り伝えよ 詩編8  けさ、詩編のシリーズを続けて、私な天地創造の詩に焦点を合わせることになっています。その中で、一番よく知られているのは詩編8編と19編ですが、その他の詩も創造主の栄光を言及し、創造主を礼拝するように私達に呼びかけています。ですから、私が伝えたいメッセージのねらいは皆様に私たちの創造主なる神に対するより深い畏敬の念をもたらして、賛美と礼拝の気持ちを深めることです。やはり、それは教会の真の目的のはずです。すなわち、私たちの創造主と救い主である神への礼拝と賛美なのです。

 しかし、私たちはその事実を見失うことがよくあり、それによって、私たちの礼拝は表面的で、形式的なものになりやすいのです。私自身の教会生活にもこういう傾向があったと認めざるを得ません。実は、過去の数年において、科学と信仰の接点とそれを伝道のためにどういうふうに利用できるかということを考えている内に、自分の神に対する礼拝がどれほど浅いものだったのだろうと実感しました。

 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」という詩編19編の冒頭のことばは文字通りどれほど真実なものであるかを後ほど少し話したいのですが、その前にまず神を本当に礼拝する事とはどういうことか少し考えて行きたいと思います。長老教会の歴史的なウエストミニスター教義問答には「人間の第一の目的は何ですか」という最初の質問に対して、次の答えがあります:「人間の第一の目的は神の栄光をたたえて、永遠に神と共にいることを楽しむことです」。言い換えれば、それによると神の私たちに対する根本的な願いはご自分を礼拝することです。それは私達の存在する目的であると言っているのです。

  詩編96は人間が唯一の真の神を礼拝するように呼びかけている数多くの聖句の一つですです。3節にこうかいてあります。「国々に主の栄光を語り伝えよ;諸国の民にその驚くべき御業を。」これらの「驚くべき御業」はイスラエルを通して神による「救いの歴史」はもちろんのことですが、天地創造の不思議をも含まれて、それは今日の焦点です。「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ」や「御名の栄光を主に帰せよ」などの表現が詩編によく出てくる表現で、私たちが神を礼拝すべきであることを主張しています。

 他の考慮しなければならないみことばの中には神は「情熱の神」であるため、人間の礼拝対象に関しては競争相手を全く許さないことを主張している多くの聖句があります。おもしろいことは、英語の翻訳では、「情熱」の代わりに「嫉妬する」という意味の "jealous" ということばを使っています。例えば、ユダヤ教やキリスト教の世界観の基盤となる十戒の中にある戒めの一つは、「(他の神)に向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。私は情熱の神である。」また、他の代表的な聖句はイザヤ48:11にあります。「わたしの栄光が汚されてよいであろうか。わたしはそれをほかの者には与えない。」これら、またほかの似ている箇所に対してある注解書は次のことを言いました。「神はご自分の愛情においては中心的で、最優秀のものです。神ご自身の心の中に、ご自分の栄光を奪い取れる競争相手はいません。神は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すべての面において、ご自分の完全さをもたらす栄光を楽しんでいます。世の中において、神を求める最も情熱的な心はご自分の心です」ーという文書です。言い換えれば、神は神であることを楽しんでおられ、創造されたすべての者が絶えずご自分を賛美して、御名をたたえてほしいのです。

 このような聖句や解説を考えている内に、あるあまり歓迎できない思いが私の心の中に浮かんできました。「何といううぬぼれの強い方なんだ。神様、そんなに大げさにしないで、もっと気楽にしましょうよ」という感じで、心の中に議論が始まりました。さあ、どう考えたらいいだろうか。もったいぶった態度を取る誇大妄想狂的な人間の指導者を考えますと、とてもいやな感じがするでしょう。また、自己中心のあまりで、ほかの人を全然考えていない人はどうでしょうか。ある意味で、私たちはそういう人が自らの行いを恥じるのを見て、いい気味だと思うでしょう。

 この二つのポイントを合わせると、私たち人間が神と神の特質を考える時、人間的な思いをもって、心の中にイメージを描く傾向が強いので、私はこのような「競争相手を寛容できない『嫉妬する神』」に対してなんとなく抵抗を感じていたということに気づきました。しかし、それこそ問題なのです。というのは、私たちは神が本当にだれであるかをはっきりと理解していなければ、「私たちの存在の第一の目的は神を礼拝することだ」という思想に対して、心の中に抵抗をいつまでも感じるのです。

 ただの人間がそのような地位に立とうとする時、また、王族として生を受けた者たちが社会の頂点に立たされる時に私たちの忠誠や崇拝まで要求するようになった場合 一 例えば、古代ローマ帝国の皇帝または、近代のヒットラーや戦時中の軍に操られた日本の天皇などいたが、そういう場合は、私たちが本当に抵抗すべきです。彼らまたほかの被造物はどのような形の崇拝にも値しないのです。

 しかし、真の神の場合は、すべてが逆になります。神は実際に私たちの忠誠と崇拝を受けるのに値します。なぜなら、神はすべての創造主であるからです。私たちが本当に自然界のデザインがどれほど複雑で細かくデザインされたものであるかを理解し始める時、これら全てをお造りになった神に対する畏敬の念が心に芽生えてきます。

 ここにいる多くの方が知っているように、私は科学を勉強して、信仰と科学の接点を探る二カ国語のウエブサイトをも作っています。「konkyo.org」というアドレスですが、アメリカに拠点を持つ「Reasons To Believe」という伝導組織に属しています。これはヒューロスという天文学者に設立された働きで、私が彼の本やDVDを数本日本語に翻訳して出版しています。15年ほど前に、KUCにも本人を連れてきて、礼拝説教をしてもらいました。実は、今日から秋の教会学校のプログラムが始まり、英語の聖書研究の一つはロス博士が最近出した「宇宙はこのようになったのはなぜか」という本に基づいている8週間の特別プログラムが行われます。

 過去の数年間において、強力な新しい措置を通して天文学者が宇宙の不思議なことをどんどん発見してきました。第一に、宇宙の全ての物質とエネルギー、また、それらの存在を可能にしている空間と時間の次元でさえも137億年ほど前に一瞬の内に存在するようになったと疑いなく分かってきました。すなわち、「ビッグ・バン」と呼ばれている驚異的に微調整された爆発的な膨張によって、この物質的な宇宙の全てが存在するようになったという驚くべき事実なのです。ところが、その「ビッグバン」(大きな爆音)という呼び名は、神の創造をほのめかすこの発見を馬鹿にしようとして、作ったことばですが、その表現が一般的に使われるようになってしまいます。とにかく、この研究の中に科学者が発見した事実の一つは、その宇宙の起源であった創造の出来事は実際にあった出来事と少しでも違っていたとすれば、結果として生命が可能となる宇宙はできなかったということです。では、一体どれほど正確なものでなければならなかったのでしょうか。科学者の計算によると、もしその出来上がった瞬間のエネルギーが実際にあったものと1060 分の1でも違ったとすれば、星や惑星が形成できなかったはずなのです。要するに、その最初の1の後に 60のゼロが並んでいる、私たちの想像に絶する巨大な数字の内にたったの1つだけずれたら、生命を支えるこの地球のようなところはどこにも誕生しなかったのです。私たち人間が最も精密に設計できる機械はこの要素、またほかの多くの要素の微調整の程度と比較すれば、全く比べものになりません。

 この驚くべき微調整を想像するために次の類推を考えました。少し傾いている鋭い刀の刃の上に完璧に丸いビー玉を正確に乗せて転がすことを想像してみて下さい。普通に考えたら、どんなに正確に乗せようとしても、すぐどちら側から落ちてしまいますね。非常にラッキーだったら、極めて短い刀 一 つまり、かみそりのような短いものの場合、たまにはまぐれ当たりでできるかもしれません。しかし、この類推は宇宙の微調整に対して少しでも匹敵できるようにするために、六甲山の頂上から大阪まで届く、ものすごく長い刀の上を転がさなければなりません。そのようなことは私たち人間の想像力をはるかに越えることです。

 この全ての始まりとなった創造の出来事を考えるだけで、十分に畏敬の念を覚えるのですが、それはこの話の始まりだけです。被造物の最高なものである人間が地球という惑星の上に生きることができるようにするために、神がほかの多くの要素を細かく調整しなければなりませんでした。その上、これらの多くの要素の間に完璧なバランスがいつでも取れていなければなりません。科学者が宇宙全体には生命の可能性を影響する 30 以上の要素をすでに発見しているし、宇宙の全歴史のどの時間帯にでも生命の存在が可能となるために、それぞれの要素は狭い範囲内でなければならないということが分かりました。この中の一つでも実際の数値とちょっと違ったら、生命が存在し得ないのです。そして、これらの宇宙全体に当てはまる要素以外にも地球と太陽系に関係している同じように微調整されていなければ生命が存在できないほかの要素が数百もの発見されています。そして、その上に、科学の目まぐるしい進歩の中に、もうすでに圧倒するような数多くの証拠の上にさらに、新たな要素が数週間ごとに発見されるという感じです。こうして、唯一の合理的な結論は、創造主が始まりの瞬間を引き起こしたばかりではなく、我々の地球が造り上げられる各段階には、創造主が綿密な関係を持っていたということです。

 このようなメッセージには、詳しいことを説明する時間はありませんが、重要なのは私たちが今この地球の上に生きることができる条件はこれらの微妙にバランスされているそれぞれの要素は全部地球の長い歴史の全期間に狭い範囲内に保たれることです。これはどのような話であるか少し理解して頂けるように、その多くの要素の中の一つだけを少し詳しく述べることにします。天文学者がいろいろなタイプの星の特徴を測定するために、何百万単位という数多くの星の光を分析してきました。この研究を通して、あらゆる種類の星のライフサイクルが分かるようになり、太陽の今までの歴史も正確に知るようになりました。要するに太陽が若かった時に、どういう特徴があったか、また、これからの太陽はどのような道をたどるかも分かっています。実は、太陽は数多くの星の種類の中で、一番安定しているタイプなのです。これ事態も、生命を可能とするために必要となる厳しい条件の一つなのです。というのは、地球のような生命を維持できる惑星を持つ可能性のある星は太陽とほとんど変わらない星だけです。

 しかし、太陽は星の中で一番安定している星であると言っても、それでも少しづつ熱くなってきているのです。実は、最近の研究によると、地球に初めての生命が誕生したおよそ 38.6 億年前から、太陽の光度が少しづつ増してきているし、その時より、今はおよそ30%も明るいなのです。それはものすごい大きな違いで、この放射の増加の影響をぴったり打ち消すほかの要素がなければ、生命が存在できなくなるほど地球の温度が上昇してしまうことになったはずです。科学者が発見したのは、地球が太陽から受ける熱のこのゆるやかな増加は地球が熱を保持する能力の低下とぴったりバランスを取れていたということです。

 最近、私たちがよく耳にすることばの中には「温室効果」やそれをもたらしている「地球の温暖化」ということばがあります。生命誕生の時代の地球の大気にはこの「温室効果」をもたらす「温室ガス」の濃度は現在よりかなり高いものだったことを示す証拠があり、その高い濃度はもっと涼しい太陽から受けていた熱を保持するために必要でした。しかし、神は長い年数を経て、タイミングよく大気の温室効果を少しづつ減らした新しい生命を徐々に地球の上に植え付けて、温度が上昇してきていた太陽の影響を打ち消しました。こうして、地球の温度の安定が保たれました。実は、もっと複雑なことで、そのバランスを保てるのに、火山噴火の頻度のようなその他の要素も調整される必要がありました。

 このようなシナリオが偶然に起こる確率が極めて低いことです。なぜなら、その何十億年の内に、もしいわゆる「進化論的な事故」が一つでも起きたとしたら、生命を絶滅させたはずの暴走してしまう温度変化が引き起こされた結果となりました。即ち、抜け道のない悪循環となり、暴走してしまう方向によって、ものすごく寒くなったか、それとも、ものすごく暑くなったか、どちらかになったことになります。この現象を考えるのに、富士山の断面図の形のような線を想像して見ましょう。その頂上にある噴火口のくぼみは温度の安全範囲を表します。地球の長い歴史の全期間に地球の温度はその「噴火口のくぼみ」にとどまらなければなりません。もし、一度でも、そのふちを越えてしまえば、地球の気候が暴走してしまい、少なくとも高等生物の存在が不可能となる極端に寒い、それとも、極端に暑い状況となってしまいます。

 生命を可能とするように地球、太陽系、そして、宇宙全体が細かくデザインされているというこのような強い証拠の前に、神がいないと考えていた多くの科学者は自分の思想を考え直せざるを得ませんでした。つまり、宇宙のすべての裏に何かの超知性が存在しているという結論に導かれています。実は、無神論を固守しようとしているのは比較的に少ない人数で、彼らは感情的にどうしても有神論を受け入れられないのです。彼らは明確に見える結論をあくまでも拒否して、創造主が本当にいることを認めなくても済むように様々の馬鹿げた考えに走っています。その中に、影響力が大きい、名が知られている科学者、特に生物学者、がいますが、その考え方を持つのは科学的な理由によるのではなく、哲学的な理由なのです。

 実は、私は以前に無神論者であった科学者が最近書いたいろいろな本や雑誌の記事を読んでいますが、彼らが例えば、「摂理的に造られた」とか「絶妙にデザインされた」といった感じの表現をよく使っていることに気がつきました。このような科学者たちの内に宇宙の構造とデザインに部分的に見える創造主に自分の人生をすでに、信仰によってささげたものはそう多くはいないということは事実ですが、以前の状態と比べれば、かなりそれに近寄ってきていると言えましょう。多くの場合は、まだ必要としているのは次の二つの点だけです。第一に、自然界を通して啓示されている神は、聖書の中にイエス・キリストを通して示めされている神と全く同じであることの認識。そして、第二に、その神は全ての人間が悔い改めて、ご自分を礼拝し、人生のすべてをゆだねることを呼びかけていることです。多くの人にとっては、その二番目の方がもしかしたら一番難しいかもしれません。というのは、人間のプライドが妨げとなり、どんなに多くの証拠があるとしても、それでも信仰を持って、神に人生をゆだねたくないことがよくあることです。多くの無神論者の場合、宗教と関係する否定的な経験に対する感情的な反応が絡んでいるようです。実は、熱心な無神論者の大半、もしくは全員、が神に対する嫌悪を無意識的に自分の子供時代の否定的な経験に基づいていると言えます。客観的に見れば、神の存在を裏付ける証拠が十分ありますが、我々人間が自分の信念を作り上げるのに、主観的な面が強いのです。

 およそ3000年前にダビデが天を仰いで、詩編8編のことばを述べました、「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。」しかし、その時ダビデは肉眼で見えた数千もの星は神が造った広大な宇宙の中のほんの一部に過ぎないことだと知りませんでした。すべての星の数を正確に数える方法はありませんが、最近の概算はおよそ1023 です。つまり、千億兆という想像を絶する膨大な数です。それはあまりにも大きい数で、例えば、私たちが一秒間に 23万個の星を数えることができるとしても、宇宙の始まりから数え始めないと、今日までに数え終わらないことになります。それでも、聖書によると、神はそれらの星を全部知り尽くしているのです。イザヤ 40 : 25-26、「お前たちはわたしを誰に似せ 誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方 それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」英語の聖書のニュアンスは少し違って、最後の方はこういう感じです。「軍隊のように導き出す方、彼は正確の数を知っておられるし、その名を一つずつ呼びます。彼の力はとてつもなく大きいもので、行方不明になるものは一つもない。」

 同じように、ダビデとイザヤがその文書を書いた時、私たちがこの地球の上に生きられるためにそのおよそ千億兆の星が全部必要であることは想像もしませんでした。宇宙の天体は全て目的があり、神の最高の被造物である人間が楽しむことのできる地球をデザインして造り上げていくために、すべてが神のすばらしいご計画の一部分なのです。実は、科学者たちがしぶしぶしながら導かれた結論は宇宙のすべての物体が何かの目的のために設計されたということで、即ち、それは驚くべき微調整されている惑星を可能とするために、そして、それによって、知性のある生物が存在できるようにして、そのすばらしい計画を認識できるようになるためなのです。

 神は実際にどんな方でいらっしゃるかと我々人間が神に対して考え出した極めて制限されている概念とのギャップがどれほど大きなものであるかを本当に理解し始める時、この「競争相手を寛容しない嫉妬している神」を礼拝することに関してもっている抵抗感がすっかり消えていきます。この特別な場所である地球とその生命を支える環境を可能とする宇宙のすべては私たちが存在できるようになるために注意深く創造されたことが分かると、これらのすべてを可能にした神に対して私たちの心が賛美と感謝でいっぱいとなります。聞き慣れているヨハネの福音書 3:16 -「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」- そのことばにもう一つの新しい意味を与えることができます。ことばを少し言い換えたら、こうなります。「神は、137 億年という長い時間をかけて、千億兆の星を造ったほどに、この世を愛された。それは私たちに快適な住まいを与え、私たちの創造主との正しい関係を持つことができるようになるためでした。」要するに神が選んだこの方法のねらいは、自分の創造主を礼拝して交わるということを本当に自由な意志をもって選ぶことのできる被造物を創造することでした。これはやはり、この「壮大な実験」である人類の歴史の本当の意味で、これを通して、神が私たちをこれからの新しく創造される世界のために準備するのです。

 私達人間を存在させるためのであれば、神がこんなに長い時間をかけて、そして、こんなに多くの銀河を創造したのはなぜか、不思議に思っているかもしれません。この疑問に完全に答えられる人はいませんが、神が定めた自然法則を前提にしたら、生命を可能にする地球のような惑星が形成されるために、実際の宇宙ほどの大きさと年齢がひつようであると分かってきました。理論上、神が全然違う方法で、私達人間の立場からいえば、そんなに長い時間がかからない天地創造をすることがもちろん可能でした。しかし、神が私達を制限する時間の次元のそとに存在するので、時間は問題ではありません。「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という聖書のことばを言い換えれば、「137億年は6千年のようであり」、また、6分間でも!神は私達の時間に制限されていません。

 私にはよく理解できないことがまだ多く残されていますが、この新しい理解が私の信仰を強くし、神への礼拝をも深めました。聖書のみことばが私たちに伝えるメッセージの一つは「天は神の栄光を物語る」ことで、その上に、「国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を」という使命をも与えます。教会に呼びかけられているのは第一に神を礼拝することで、そしてその上、すべての人に神の栄光を述べ伝え、ほかの人も神を礼拝するように勧めることです。この新しいアプローチはちょうどその通りのことをしようとしています。人々をイエス・キリストに導くために利用されているいろいろな肯定的なアプローチに加わる伝道のもう一つの強力な道具を与えて下さったと私は確信しています。

 では、最後にこの壮大な宇宙とその中に存在する数多くの驚くべき物を創造した我々の偉大な神を一緒に誉めたたえましょう。

Updated: 2014 年 07 月 04 日,04:54 午後

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